321 春本番!安芸太田から邑南町の神社探訪 ④ “広島県旧加計町中心部の着天神社”
20160420
久留米地名研究会(編集員) 古川 清久
安芸太田に入って以来多くの神社を見てきましたが、今回、一つだけはっきり分かった事がありました。
それは、大田川が注ぎ、中国自動車道の加計スマート・インターが在る旧加計町の加計(カケ)という地名の意味が解ったことでした。
その話は後に廻すとして、今回はこの旧加計町の着天神社のお話です。
加計町はかつて広島県山県郡に存在した町である。 2004年10月1日に山県郡戸河内町および筒賀村と合併し、山県郡安芸太田町に移行したことに伴い消滅した。
ウィキペディア(20160420)による
加計町の長尾神社を見せて頂いた後、足早に次の神社を見ようと移動していると、市街地の小丘にもう一社見るべき社があることに気付き探訪させて頂きました。
先ず、着天神社とは奇妙な社名です。
色々と考えて見ましたが、石碑に書かれている以外全く見当が尽きません。
天神社の創社年代は不詳であるが往古よりの公伝 によれば当地開拓のみぎり、小名彦那神に事業の成功を祈願したところ霊験もあらたかに思いのままに、成就したので神の恵みに感激していると森畑という森の 老杉の枝に天より御幣が降りかかったという。皆々不思議の思いをして畏み奉り天より神の御着きなりと、その杉の根元に壱宇の祠を建て、その森を着の森と呼 び祠を着森天神と称した。小名彦那神は大国主神と共に国土開発経営に当たられた神で諸業成就医業の神として崇敬されている。御神体は束帯姿の木像で森畑の 老杉で彫んだと伝える。なお天神社の現在地は、宝永四年(1707)森畑より遷宮奉斎した地である。後代学問の神、菅原道真公の天満宮崇拝の念が広く世に拡まったので、当社の名にちなんで、公の神霊を配布祀して着天満宮とも唱えるに至った。平成四年年十月吉日 着天神社 (境内石碑)
先行ブログで書いたとおり、元々「広島県神社誌」さえも持たずに探訪に入ることが無謀なのですが、その点は追々と改善するとして、一般的には小名彦那神 菅原道真公が同列で鎮座するという組合せは珍しい上に奇妙です。
普通は、少彦名命は大国主命とセットで祀られる事が多いと言うより大半ですが、単独で祀られるケースにも過去何件か遭遇しています。
これだけでもこの神社を見せて頂いた価値があると言えますが、この場合、この神社を奉祭する人々が、市杵島姫命が大国主命を受け容れる以前の大幡主系(白族)氏族であった事が想定できます。
つまり、加計の人々がヤタガラス(豊玉彦)、アカルヒメ系の氏族だったという想定です。
そこで、いつも参考にさせて頂いている紀氏の探索サイトのHP「紀氏の荘園・姓(国別 )」を見ると、案の定、山県郡にも紀氏(厳島神社の神主家である栗栖氏)が展開していました。
山県郡
①鎌倉時代の終わり頃(1331頃)大田川の上流、戸河内町に来栖という土豪がいてこの土居を中心に勢力を張った。郷内に各地に一族、庶家を分封して所領の確保をはかる、太田郷。
栗栖氏の先祖は京都の「栗栖野」(現在の山科区栗栖野)に住んでいたという説がある(栗栖氏の先祖は石清水八幡宮第32代神主の田中宗清の子となっている)「発坂城」は栗栖氏の総領家が代々本拠にしたといわれる。
この地方は古くから厳島神社の社領であり、栗栖氏は厳島神社の神主家である藤原氏の支配下の神領衆の一人とも言われている。
これで、この加計町の地名の意味が判明しました。広島県の厳島神社のルーツであり、明治まで天皇家の宮廷祭事を司っていた白川伯王家の中心地であり、本来 は宗像大社よりも社格が高いはずの厳島神社が鎮座する福岡県飯塚市の鹿毛(カケ)、鹿毛馬神籠石のある鹿毛馬こそが旧加計町の「加計」の起源であり地名の 意味だったのです。
なお、福岡県飯塚市の鹿毛の厳島神社については、ひぼろぎ逍遥(跡宮)106 白川伯王家の源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”外をお読みください。
厳島神社 カーナビ検索 福岡県飯塚市鹿毛馬1088
非常に重要な神社=飯塚市鹿毛馬の厳島 神社があります。あまり知られていませんが、百嶋由一郎神社考古学研究の立場からは、本来、厳島神社、また、宗像大社よりも社格は高かい極めて重要な神社 だったと考えられます。神社を取り巻く情勢は明治維新前後で激変します。その一つに白川伯王家という明治維新前後まで天皇家の宮廷祭事を取り行っていた神 祇氏族が廃された事があります。この氏族は秦の始皇帝と姻戚関係を結んだ白族、瀛族であり、実は、通常は出雲族と説明される大国主命もこの博多の櫛田神社 の主神である大幡主、豊玉彦の臣下になるのです。その証拠に、この神社の宮司家は「白土」様ですが、元々は「白王」=「王」と名乗る事を許された唯一の重 要氏族だったのです。しかし、明治維新後の吉田神道の急膨張時に当時の神祇官から「白王」姓を廃され「白土」(痕跡として[、]が 付されています)と名乗らされたのです。この一族こそ「瀛」(イン)氏であり、宗像三女神とされる市杵島姫も、本来は「瀛島姫」(いつき立て祀る)姫なの であり、厳島神社の「厳」も「瀛」島なのです。「白土」という地名や「白土」姓は、九州では飯塚市を中心に、全国レベルでは常陸の国茨城県、福島県に強い 分布を示していますが、元々は、「白王」であったと考えられます。
以下「ウィキペディア」(210151215/11h)
…白川家の特徴は、神祇伯の世襲と、神祇伯就任とともに「王」を名乗られたことである。「王」の身位は天皇との血縁関係で決まり、本来は官職に付随する性質のものではない。非皇族でありながら、王号の世襲を行えたのは白川家にのみ見られる特異な現象である。以下、このことに留意しつつ白川家の成立について説明する。延信王は、万寿2年(1025年)に源姓を賜り臣籍降下して、寛徳3年(1046年)に神祇伯に任ぜられた。なお、当時の呼称は「源」または「王」であり、その後の時代に、「白川家」や「伯家」「白川王家」と呼ばれるようになる。延信王以後、康資王、顕康王、顕広王と白川家の人物が神祇伯に補任されているが[2]、この時期はまだ神祇伯は世襲ではなく、王氏、源氏及び大中臣氏が補任されるものと認識されており、事実先の四名の間に大中臣氏が補任されている。…
この神社については「吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流先行ブログ」というブログがあり非常に参考になります。
正しく、「あらまほしきは先達なり…」ですが、引用させて頂きます。
当面、「広島県神社誌」を入手するまでこれ以上の事は書かない方が無難なようです。
広島で少彦名神を祀る神社は数少ないようでネット検索でもなかなか見つからない。
広島県山県郡安芸太田町加計に着天神社という神社がある。
ここの祭神は少彦名神となっている。
地図での目印は吉水園の西150mのところになる。
この加計の町は四方を山に囲まれているところだが着天神社は神奈備の山を見守るような社殿となっている。
この加計の町にはもうひとつ長尾神社もある。
こちらは元は須佐之男命を祀っていて今は厳島神となっている。
非常に二社共に立派な社だったので気になって調べたらこの加計には加計隅屋鉄山があり江戸初期には潤っていたようだ。
佐々木氏という豪族がこの地を開いたようだ。
この着天神ももともと別のところに祀っていたとあるが佐々木家の氏神として祀ったものだろう。
由緒によると1707年に現在の地に遷宮したとある。
想像だが着天神社の目の前に見える神奈備の山からも鉄が取れたものと思われる。
須佐之男命を祭る長尾神社はこの町が鉄の生産地だったからと想像できるがなぜこの場所に少彦名神が祀られているのかについてはなんらかの祟りを封印したのではないかという気がする。
少彦名神には祟り封じの霊験もある。
場所は以下国土地理院地図の+印の位置
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?b=343642&l=1321913
20100819 追記
この加計の加計隅屋鉄山は「もののけ姫」のモデル地との話もあるそうだ。
「もののけ姫」といえば鉄山たたらの開拓で森林伐採し環境破壊したおかげで山ノ神が祟るという話だけど、知人からの指摘でこの加計の地では過去に何度も鉄砲水、土石流や太田川の氾濫での大被害が多発しているそうだ。
http://sakurao.exblog.jp/i10/
http://www.cgr.mlit.go.jp/ootagawa/plan2/pdf/0203.pdf
http://www.ootagawa-fan.net/flood47.htm
こう考えると着天神社の勧請目的は自然破壊による土石流による被害とその後の伝染病等の防止と死者の祟りを防ぐべく祈願したものと言えよう。
20140826 追記
上記太田川の下流の広島市安佐南の八木で山津波発生八木蛇落地悪谷とかつては呼ばれていたところで武将の香川勝雄の蛇退治の伝承が残る。
八木は八岐のことであるから八岐大蛇のことになる。
この太田川の上流の広島市佐伯区湯来町和田に湯の山温泉がある。
ここに湯山明神社があるがこの祭神等については佐伯郡社寺録によるとが正徳5年(1715)の建立で
御祭神は、少彦名命、大国主命、闇神となっている。