スポット086 太宰府地名研究会の近況
20170209
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
現在、太宰府地名研究会が主催する月例のトレッキングへの参加者が増えています。
しかも、熊本、大分でもトレッキングが定期的に行える体制が整い始めましたので、単に他人の書いた本を読んだだけの思い込みで議論をして満足している使命感のない無責任な方々ではなく、自らの足で現場を歩き自分の頭を使って考えることができる古代史、神代史への探究者が集まり始めました。
さらに、30年間広く西日本の神社を調べてこられた女性とか、40年間筑後の神社を深く調べてこられた方といった本格的な研究者も何人か加わられ、しかも百嶋神社考古学を受入れておられる事から研究会全体としても急速に内容が厚みを増してきたという気がしています。
具体的にも、新たに二つのblogが加わり、神社研究に於いてはネット上でも一定の部分を占有しつつあるようです。
blog「ひぼろぎ逍遥」を御覧頂いている読者の皆さんはご存じだと思いますが、既に「百嶋神社考古学
」の立場で神社研究から神代(実は古代)を探究しようとする多くのblogがリンクされ、相互リンクも進んでいます。
後、一つ二つは新規のリンクが進む事から、百嶋神社考古学への関与に多少の差はあるものの、近々にも15のblogがリンクされ、二十人近い研究者、フィールド・ワーカー、神代史(実は古代史)研究者が結集する束が形成されているのです。
実のところ、月に一度程度の集まりを、あと十年完全にやったとしても高々100回程度の会合においてそれを続けたとしても、何の研究成果も業績も残すことなく高齢化して潰えてしまうだけの事なのです。
しかも、自らの足を動かし自らの頭で考え調べる事もせず、単にテーブルについて他人の話を鵜呑みにするだけでは、他人任せの無責任な体質しか産み出せません。
九州王朝の中枢領域と言う列島でも最重要のエリアに居ながら、この体たらく(ちょっと足を延ばせば久留米大学の公開講座=九州王朝論が行われているにも関わらずそれ以上の掘り下げを行わない)では、このまま会を継続しても、後継の研究者も育たず何の価値もないと思いだしたのは、過去十年続けた経験から必然的に理解できた事でした。
つまり、他人の研究に依存した烏合の衆からは全く研究者は生まれないのであって、あくまでも研究者とは独立し単独で研究を続ける外部から取り込むしかなかったのでした。
結局、研究者とは一人で始め一人で終えるものであり、仮にお願いしたからと言って、右から聴いて左に貫けて行くような人々からは決して研究者は生まれてこない事が分かったのでした。
要するに、研究会に集まり言いたいだけの無責任な参加者による緩い体質ではなく、自ら行動する研究者による研究会に体質を強化しなければ、徒労に帰すだけであると感じたのでした。
全く異なる世界の議論になるのですが、直ちに「何をなすべきか」「一歩前進二歩後退」「国際主義者メディライオンティ」「党組織論」「ボルシェビキVSメンシェビキ」…といったフレーズが蘇ってきました。
これからは研究者による研究会、探索者による研究会、記録者による研究会にしなければ、ただ、時間に流され潰え去ってしまうとの思いを強くしたのでした。
研究者とは独立しているからこそ研究者なのであって、群れることなく独立して存在しているのです。
このため、「あなた永いからそろそろ発表して貰えませんか?」「互選で決まりましたから何か発表して貰えませんか?」とか言っても、たかだか、当たり障りのない「紀行文」を書くとか、「年表」を整理したり、「神社誌」といった物を持ち出して通説の補足をするのが関の山であり、独自性のある研究は決して産み出せはしないのです。歴史は年表ではないのです。
研究者とは群れないからこそ研究者なのであって、時おり訪れる研究者、探索者、分析者を糾合するには、研究者による研究会こそが必要になるのです。
今般、新たに参加された宮原誠一氏が典型的でしょう。
筑後を中心に「久留米藩社方開基」「高良玉垂宮神秘書」…から調査を進めておられますが、既に、“現在の水天宮はうきは市芋川の元宮を消滅させることによって成立した”…といった凄い発表をされておられるなど、既にお伝えした通りです。
この「宮原誠一の神社見聞牒」は、同氏が3~40年近く筑後を中心に神社を調べられてきた成果そのものですが、研究会で発表するとか郷土史会や史談会のメンバーになるといった事無く、社会的にも全く評価される事無く単独で神社を調べてこられていたのでした。
今後も大量のストックから、地元筑後を中心とする神社リポートが量産されることになると思います。
いずれにせよ、このような群れない独自性、独立性、純粋性こそが研究者の資質であって、行政に尾を振って町興し村興しの講演者として採用して貰おうとか、教育委員会に認めてもらい、学芸員に評価して貰いたい…といったさもしい人間の類とは資質が全く異なるのです。
このような誘惑に魅かれたハエやゴキブリのような某研究会の3K宮司のような資質からは独自の研究者は決して産まれては来ないのです。
百嶋由一郎神社考古学を受入れられた大分在住の神社研究者によるサイトです。
現職にあることからblogの発表本数、月間数本と多くはないのですが、その分力作ばかりで、最新号の佐賀関に鎮座する「早吸日女(はやすひめ)神社」も秀逸と言うべきです。
郷土史と神社研究それに百嶋神社考古学に根差した深層を探るサイトとして注目しています。
「息長氏は秋永氏である。」の顛末記(秋永氏探求から紐解く日本古代史)
こちらも大分県在住の研究者ですが、自らの氏族の研究誌(史)と言うべきものとも思えるのですが、この視点に基づき、通常、気付かない研究が掘り下げられています。
満州~別府出身の秋吉敏子と伴に、大分が誇るジャズピアニストの辛島文雄氏が平成29年2月24日に亡くなりました。わたくしと同じ昭和23年生まれで、音楽好きの、わたくしとしては、寂しい想いで、残念です。しかし、豊前宇島のSPレコード愛好家の辛島氏は健在であります。最新記事をご紹介しましょう。
この大分豊後宇佐郡辛島郷発祥と謂われます『辛島=韓島=加羅島=唐島』氏は、息長帯姫(神功皇后)と八幡神(応神)を宇佐神(比咩大神=豊玉姫と玉依姫=記・紀では姉妹として扱われていますが、本当は多祁里比賣命と下照姫の親子と考えられます。百嶋神社考古学では市杵島姫と下照姫の親子)に持ち込んだ。と謂われており、辛島氏と息長氏の関係が興味を持たれます。
辛島氏はスサノオ(雲南省白族系=新羅系=辰韓系帰化人)にルーツがあり、五十猛命の末裔とも考えられています。
実は、わたくしの父の出身地である福岡県久留米市田主丸町以真江地区は、別名があり『唐島』と謂います。バス停も『唐島』と有ります。此処には秋永氏=息長氏(家紋は丸に違い鷹羽)が十数軒程あり、百済25代武寧王は筑紫の各加羅島=唐島で生れたとされ、田主丸『唐島』の息長氏(秋永氏)集落で産まれた事に考えられます。
と謂うことは、息長氏(天皇家)と百済王室の関係が認められ、今上天皇の平成13年12月23日=68歳誕生日の記者会見での発言である『百済王室に日本皇室は関係している。』は、正しい考察発言と考えられます。
続日本紀では第50代桓武天皇(737年生~806年没)の御母上『高野新笠』(和氏)は武寧王の末裔と記述され、百済25代武寧王の子であります百済第26代聖王が仏教(仏像)を第29代欽明天皇(久留米市斯帰島宮)と蘇我稲目=志賀氏=斯末氏(本拠地は大分市東院~向原~古国分)に勧めた理由と、磐井の乱(磐井が新羅と結んで、天皇家の百済への派兵を妨害した為に第26代継体天皇(息長氏=秋永氏)が物部麁鹿火に命じて磐井を誅した事件)の真相が紐解けました。
倭でのスサノオ・大国主命(後に、和邇氏高木神派と組み、スサノオと戦い勝利したものと考えられます。)・神産巣日神・白氏・狗呉・賀茂氏系と、草部吉見・高木神・秦氏・袁氏・和邇氏系、つまり雷神と風神の争いが、馬韓・辰韓・弁韓の韓半島に最新のアイテムで有ります『鉄』を求めて、新羅(白氏=大幡主=スサノオ派)と大伽耶(草部かやべ=阿蘇氏=高木神派)・金官伽耶(大國主命派)を創る結果を生み、やがて伽耶(加羅)=狗邪韓国=倭の西北端の国(後漢書に拠る)は百済に近付き、新羅(白)と対峙する事になります。
この話も興味深いですね。
磯良の海氏も博多の視点から九州王朝、古代史を追求され、異色の詩的な考察を提供して頂いています。
今回も、筑前琵琶から橘玄清法院、肥前盲僧、橘一族=大幡主~ヤタガラス九州王朝を意識する小論をお書きになっています。
私も玄清法院を追い続けた経験から橘一族と九州王朝との関係、そして、現在もなお、玄洋社の頭山 満の流れを汲むヤタガラス系の地下組織が動いているものと考えています。
金時 の 琵琶
栗山幽斎という 旧黒田藩士が住んでいました
黒田二十四騎の筆頭 栗山大膳 の ゆかりの人物かどうかはわかませんが
明治3年6月 この旧藩士に 愛くるしいひとり娘が生まれます
この親子に その後何があったのかは 定かではありませんが
両親が やがて亡くなり ひとり残された 娘は
博多の花町の養女となって たくましく 生きていくのでした
娘はやがて 妓名 を 《 金 時 》と 名乗ります
その 生まれ持った 美貌 と 美声 で 若くして
博多の 券番 でも 人気の芸妓の ひとり となりました
金時 は 三味線 と 月琴 の名手でした
引く手数多の贔屓筋の中で 金時 を射止めたのは
博多の富豪 《 加納 熊次郎 》です
その芸才を 誰よりも 理解していましたし
その為なら 財を惜しむことはありませんでした
金時という名に別れを告げ 《 吉 田 竹 子 》と名乗りました
そして 明清楽 や 八雲琴(二弦琴)をも 修めたのでした
筑前琵琶
尾方蝶嘉さん ホームページより
京都におこった 平家琵琶 は 室町以降 100年の間に 全盛期を迎えます
その後 戦国の世に入り 仕事を無くした 琵琶法師達 は
生活苦のために 京を離れ 多くは 流浪の僧となって
西へと 流れて行きました
琵琶と云えば 太宰府 四王寺山に 居を構えた
筑前琵琶 の 始祖である 玄清法師 は 成就院 を建立し
九州盲僧の中興の祖と仰がれたのですが
法印の 第九世 寿讃(じゅさん) は 博多の 蔵本町に 成就院を移し
〈臨江山 妙音寺〉と 名前を変えます
妙音寺 は 西日本の盲僧院坊の触頭として隆盛を続けますが
天正末期に兵火により灰塵に帰してしまいます
黒田二代藩主 忠之は 福岡城の鬼門除けの霊寺 として
藩の祈祷所として 妙音寺 を 再興したのでした
博多には 妙音寺 の元で いくつかの 盲僧坊がうまれます
妙福坊(橘智定の家祖) 大泉坊(鶴崎賢定の家祖) 観照坊(高野観道の家祖)
これらの盲僧達は 「般若心経」や「地鎮経」を 琵琶に弾じたり
荒神払いといって 家々を回り 布施でなんとか 命を繋いでいたのですが
明治4年 になると 新政府は「盲官廃止令」を発布します
この廃止令 は 盲僧の存在が 治安維持や 戸籍編成 の妨げになると
考えられたからですが 明治5年 には 「修験禁止令 」も 出され
修験道も 禁止されます
仏教寺院にとっては 多難の時代の始まりでした。
以下はおなじみですので殊更取上げませんが、最新記事をご紹介しておきます。
「常陸の国ふしぎ探検隊」 「スピリテュアルヒーラー宮古の縁側日記」「地図を楽しむ」という三つの強力なサイトについては、これまでにも何度も取り上げて来ましたので省略しますが、今回、取上げなかった他のサイトと併せ、百嶋神社考古学と言う九州王朝論の更に深部、深層を探る研究グループは、今後とも、嘘で塗り固められた列島の古代史を探る強力なメスとなっていく事でしょう。
今後は空白領域となっている熊本(肥後)のエリアでのblog、HPの確立ですが、今年中にも、若きライターがスタートしてくれるものと考えています(準備中)。
既に、グループ全体としては年間百万件のアクセスにも近づくもので、単純に消失してしまう事は無くなったものと考えています。
最低でも、神社研究に関して言えば、全国的にも非常に強力な研究グループが形成されたものと理解しています。
四月には愛知県在住メンバーの山田氏による「大山祗命」に関する論稿が太宰府地名研究会のHPに掲載できることになりそうですが、山梨の研究者も含め、徐々に茨城県から九州まで全国規模の目の粗いネット・ワークが形成されつつあります。
大山祇神社史料が伝える孝霊天皇(安城市 山田 裕)
最低でも、重要な記録を後世に残すためとか後世に伝えたい、誰も気づいていないこの事実を掘り下げたいといった意識性を持った研究者、探訪者、記録者、蒐集者…といった人々による使命感を持った研究者による研究会、連合体をこそ創るべきなのです。
会則とか会計報告とか監査がどうのと言った中学校の生徒会丸出しの研究会はただのカラオケ・クラブのような親睦会でしかなく、だからからこそ行政とのタッグが組めるのであり、平然と西ダニ某などが作った通説派のパンフレットを平然と配布し勉強して下さいと言った米搗きバッタの様な真似をする事になるのです。
近々に太宰府地名研究会のHPもスタートします。詳報別稿。