スポット089 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 ② 鳥瞰
20170211
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
先に、「ひぼろぎ逍遥」 extra038 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 として、本来、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)に掲載すべきものを先行掲載しましたが、オンエア後になって、場所を分かって頂くための位置図を添付していなかった事に気付きました。
今回は、蘇民将来 巨旦将来の本当の現場であると考えられる一帯の地図を改めて鳥瞰(俯瞰)する事にしました。
一般的には「備後国風土記」逸文との関係からその現場は備後(福山)辺りであろうといった理解が一般化しています。
当然、その一帯についてもフィールド・ワークを何回もおこなったのですが、どうもそうとは言えないようなのです。そこで、「ああ、ここにも蘇民将来 巨旦将来伝承が良く残っているなあ…」と思ったのが、この宮崎県五ヶ瀬町鞍岡の祇園神社だったのです。
祇園山の麓の祇園神社の縁起に見る「蘇民将来、巨胆将来」
蘇民将来
蘇民将来(そみんしょうらい、非略体: 蘇民將來、蘓民將耒、 – 将耒、など)とは日本各地に伝わる説話、およびそれを起源とする民間信仰である。こんにちでも「蘇民将来」と記した護符は、日本各地の国津神系の神(おもにスサノオ)を祀る神社で授与されており、災厄を払い、疫病を除いて、福を招く神として信仰される。また、除災のため、住居の門口に「蘇民将来子孫」と書いた札を貼っている家も少なくない。なお、岩手県県南では、例年、この説話をもとにした盛大な蘇民祭がおこなわれる。陰陽道では天徳神と同一視された。
説話
古くは鎌倉時代中期の卜部兼方『釈日本紀』に引用された『備後国風土記』の疫隈国社(えのくまのくにつやしろ。現広島県福山市素盞嗚神社に比定される)の縁起にみえるほか、祭祀起源譚としておおむね似た形で広く伝わっている。
すなわち、旅の途中で宿を乞うた武塔神(むとうのかみ、むとうしん)を裕福な弟の将来(『備後国風土記』では「或本作巨旦將來也」とあり、巨旦将来〈こたんしょうらい〉と表記され、金神のこととされる)は断り、貧しい兄・蘇民将来は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神は、弟将来の妻となっていた蘇民の娘に茅の輪を付けさせ、それを目印として娘を除く弟将来の一族を滅ぼした。武塔神はみずから速須佐雄能神(スサノオ)と正体を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとする。
蘇民将来の起源
武塔神や蘇民将来がどのような神仏を起源としたものであるかは今もって判然としていない。
武塔神については、密教でいう「武答天神王」によるという説と、尚武の神という意味で「タケタフカミ(武勝神)」という説が掲げられるが、ほかに朝鮮系の神とする説もあり、川村湊は『牛頭天王と蘇民将来伝説』のなかで武塔神と妻女頗梨采女(はりさいじょ)の関係と朝鮮土俗宗教である巫堂(ムーダン)とバリ公主神話の関係について関連があるではないかとの説を述べている。
蘇民将来についても、何に由来した神かは不明であるものの、災厄避けの神としての信仰は平安時代にまでさかのぼり、各地でスサノオとのつながりで伝承され、信仰対象となってきた。
ウィキペディア20170211 09:38による
宮崎県五ヶ瀬町祇園山山麓 鞍岡の祇園神社
では、百嶋神代系譜(蘇民将来、巨胆将来)を御覧いただきましょう。
これによると、まず、敵役の巨胆将来ですが、金凝彦(カナコリヒコ)とします。現在の阿蘇神社の神殿最奥部に祀られている神沼河耳(実は藤原によって第2代贈)綏靖天皇と格上げされた阿蘇神社の隠された主神)なのですが、再建途上にある阿蘇神社に行かれて禰宜にでも「金凝彦様は祀られておられますか?」と尋ねられれば、今でも直ぐに、「神殿の最奥部に祀られております」とお答え頂けるでしょう。
実はこの神沼河耳の腹違いの兄弟が阿蘇高森の草部吉見神であり建磐龍命なのです。ただ、草部吉見の娘である阿蘇ツ姫を建磐龍命がお妃としている事から、同時に義理の親子とも言えるのです。
もう一人の主役である蘇民将来については、百嶋先生からもはっきりここに居たとの話を聴いてはいません。あくまで推定ですが、当然にも彦八井、神八井を祀る、草部吉見神社周辺高森町草部周辺の人であると考えています。理由は薄弱ながら簡単です。
草部吉見神社の縁起による祭神は以下の通りであり神八井命は外されているのですが、夏の大祭の時だけに見る事ができる草部吉見神社の神代系譜には神八井がきちんと書かれているのです。
一の宮 日子八井命 二の宮 比咩御子命 三の宮 天彦命 四の宮 天比咩命
五の宮 阿蘇都彦命 六の宮 阿蘇都比咩命 七の宮 新彦命 八の宮 彌比咩命
九の宮 速瓶玉命 十の宮 若彦命 十一の宮 新比咩命 十二の宮 彦御子命
百嶋神代系譜(蘇民将来、巨胆将来)部分
そして、伝承には幾つかのバリエーションがあるのですが、スサノウは龍宮にお妃を貰いに行く途中一夜の宿を乞うたという話になっているのです。そのお妃こそアカルヒメであり、博多の櫛田神社の大幡主=塩土翁=神皇産霊の娘(系譜参照)であることも見えてくるのです。
恐らく、この「蘇民将来、巨胆将来」伝承を継承しているスサノウ系氏族のいた土地こそこのスサノウの姉クラオカミを祀る五ヶ瀬町鞍岡であろうとまで考えざるを得ないのです。
まず、最低でもスサノウはこの鞍岡の地を経由し滞在したと思います。
単純には言えませんがクラオカミこと神俣姫は鞍岡に居たからクラオカミと呼ばれていた可能性があり、しかも、伝承では後にスサノウから滅ぼされることになる巨胆将来のお妃ともなっている事を考え合わせれば、阿蘇からそう遠くないところでなければならないはずなのです。
してみると、鞍岡は十分に現実味があり符合する場所に居た事になるのです。
さらに言えば、百嶋神代系譜では、巨胆将来=神沼河耳のお妃が神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)のお妃であったアイラツヒメを継承した(神武天皇とは別れている)事を考えれば、そのアイラツヒメの実の兄であった五瀬命(有名な神武皇兄イツセノミコト)もこの五ヶ瀬の地にいたからイツセノミコトと呼ばれている可能性を考えざるを得ないのです。
すると、この本物の神武天皇、神沼河耳、アイラツヒメ(神武と別れた後に蒲鴨池姫としているのですがこの事を阿蘇宮司家は知っているはずですが否定されています)もこの一帯にいたのです。
いずれにせよ、阿蘇一の宮と南阿蘇の高森とは直線で15キロ程度、さらに、五ヶ瀬町、鞍岡も高森から直線で15キロ程度である事を思えば、全ての関係者は阿蘇高森を中心とする半径20キロ程度の所に居た可能性があるのです。
どのように考えても、阿蘇高森町草部を中心とするエリアでこの蘇民将来、巨胆将来伝承が生じたのであり、その後のスサノウ系氏族の移動に伴い全国にこの伝承が広がったと考えられるのです。
しかし、この背後にはスサノウ系(新羅系と言うよりペルシャ系)氏族と、雲南省麗江から進出避退してきた黎族(阿蘇氏、多氏、宇治氏、耳族…)の間に生じた民族衝突が反映されているものと思うのです。
皆さん、同時にこの話が現在の「茅輪神事」「茅輪潜り」に繋がっている事もお考えください。
最後に、巨胆将来と推定される阿蘇の神沼河耳がスサノウ側からは意地悪をしたような扱いにはなってはいますが、神代(実は古代)には民族と民族の衝突が起こっているのであり、どちらが悪いと言う事はないのです。耳族も漢族と最後まで闘い大陸から避退したのであり彼等への共感も否定できないのです。