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437(後) 勝沼ワインの里の大善寺 

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437(後) 勝沼ワインの里の大善寺 

20161204

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久

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まず、非常に分かり難いのですが、雨宮姫のお母さんである天豊ツ姫は、高木大神=高御霊神の次女である栲幡千千姫命を母として阿蘇高森の草部吉見=所謂春日大神=武甕槌=鹿島大神を父として生まれたお姫様でした。

 ところが、列島大率呉の太伯の流れを汲む本物の神武天皇の子である懿徳天皇(藤原により第4代とされた)の皇后になっておられたのですが、皇后陛下かっぱらいか、駆け落ちか、浮気かは不明ですが、現在阿蘇の主祭神とされている健磐龍のお妃になられて雨宮姫を産んでおられるのです。

 ところがそれでも納まらず、最期は豊玉彦(ヤタガラス)のお妃として天日鷲をお産みになり、その御子が天富命の一族になっているようなのです(恐らくこれが栃木、茨城県境の鷲子山神社の一族につながるのではないかと考えています)。

 このように複雑というより怪奇ですらありますが、一面、古代とは大らかだったとも言えるようで、結果、阿蘇氏はこの事を隠していますし、この事実を気にしてか天豊ツ姫は、阿蘇ツ姫(健磐龍妃時点)→天比理刀咩(ヒリトメ)→寒川姫(寒川神社も散見されます)→杉山姫(神奈川県一帯に多くの杉山神社が在りますね)と名を変えておられます。

そして、この栄えある皇后陛下の娘である雨宮姫は、後に、阿蘇の新(ニュウ)彦と一緒になられ、現在の阿蘇家を継ぐことになる阿蘇惟人の母となられ、神武僭称贈)第10代崇神天皇の父となる大山咋(阿蘇では速甕玉命と呼ばれる)、松尾大神、佐田大神…のお妃にもなられているのです。

この辺りは前後関係が不鮮明で解読作業中です。

この問題が非常に難しく、百嶋神社考古学の関係者の内部でも意見が分かれていますが、阿蘇家も神社庁も恐らく本当の事実は知っているはずで、是非公開し本当の歴史を明らかにして欲しいと思っているところです。

というのは、表向きの話であり、どうせそんなことは出来やしないし、最期まで隠そうとするであろうと言うのが偽らざる気持ちであり、むしろ罵倒する材料を残し続けておいて欲しいものです。

いずれ、ウイキリークスのような状況になる事でしょう。


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研究目的で百嶋神代系譜、同講演音声CD、同手書きデータ等を必要とされる方は、何時でも09062983254までご連絡ください。

 現在、多くの神社研究者がフィールド・ワーク、インターネット検索、文献、古文書による研究と作業を続けていますが、関心をお持ちの方はオープン参加としているトレッキングにも、各地で行っている研究会合にも参加して頂きたいと思います。


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“ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”(追補)

 

三枝氏とは何者なのか?

 

大善寺 (甲州市)

正確な創建年代は不明だが、寺伝に拠れば奈良時代に行基の開創を伝え(延慶3年(1310年)「関東下知状」)、本尊である薬師如来像の様式などから創建は平安時代前期と考えられている。薬師堂は天禄2年(971年)に三枝守国による建立とする伝承がある。(天文14年(1545年)「大善寺諸堂建立炎上記」)によれば、在庁官人として甲府盆地東部の東郡地域で勢力を持った古代豪族である三枝氏の氏寺とされる。

ウィキペディア(20161204 22:46による


この三枝氏が三階松の家紋を使う事から、ようやく大善寺そのものを表す紋章ではなく、スポンサーとしての三枝氏を表しているという事に気付きました。

では、三枝氏とは何者なのでしょうか?

 

三枝氏は三枝連(さいぐさのむらじ)の流れで、三枝連は天津彦根命の末裔であるという。「三枝連」の由来は顕宗天皇の治世の時、諸氏を集めて祝宴が開かれた際、庭に三茎の草があり、これを天皇に献上して三枝連を賜ったという逸話に由来するとされる。しかし、この説に『寛政重脩諸家譜』は疑いを示している。

山梨県甲州市に所在する柏尾山経塚は、出土した経銘文により平安時代の康和5年(1103年)に勧進僧・寂円により造営されたと判明する。康和5年在銘の経筒には関係者として三枝守定・守継ら三枝氏の一族の名が見られる。また、山梨県笛吹市の福光園寺本尊の吉祥天像は鎌倉時代の寛喜3年(1231年)に仏師・蓮慶により制作されたとする墨書銘を有し、檀越として三枝氏の一族の名も記されている[7]

ウィキペディア(20161204 22:52による


しかし、三階松の家紋を使う一族が天津彦根命の末裔と知って驚きました。

天津彦根命とはスサノウと子産み争となり天照が産んだ五柱の男神の一つだったからです。

 

天津彦根命

アマツヒコネは、記紀等に伝わる日本神話の神。

『古事記』では「天津日子根命(あまつひこねのみこと)」、『日本書紀』では「天津彦根命(あまつひこねのみこと)」、他文献では「天都比古禰命」とも表記される。

アマテラスとスサノオの誓約の際にアマテラス(天照大神)の玉から生まれた男神5柱のうちの1柱で、多くの氏族の祖とされる。


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三枝氏は甲斐源氏が発祥する遥か以前に、大和朝廷から甲斐に派遣された国守級の在庁官人の出身であることは疑いない。『日本書記』の福草部の姓氏録に「三枝連」の名が見え、『続日本後記』の承和十一年(844)の項にも三枝直平麻呂の名が見えている。
三枝氏前史
 このように三枝氏は甲斐の古豪族で、律令時代には郡司をつとめ、甲斐の産物を大和朝廷に献納していたものと思われる。昭和三十七年、山梨郡勝沼町柏尾山の工事現場で康和五年(1103)銘の経筒が発掘された。それには、大善寺の大檀那三枝宿禰守定・守継、藤原朝臣基清らが経筒を仏前に供え、見晴らしのいい柏尾山に埋めるまでの経過が刻まれていた。経筒に刻まれた守定・守継が戦国時代に武田氏に仕えて活躍した三枝守友の遠い先祖であることは間違いないだろう。ちなみに、大善寺は三枝氏が創建した関東でも屈指の古刹である。


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ところが、通説、定説は良いとして、この天津彦根命と言うのが少し理解しにくい一族なのです。

 以下は、百嶋由一郎氏が作成した「鳥子系譜」と呼んでいるものの一部で、唯一、この系譜にだけ天津彦根命がでて来ます。


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驚くことに、阿蘇氏でも、現在、阿蘇神社の一番奥の神殿に金凝彦(カナコリヒコ)の名で祀られている神沼河耳のことなのです。

 実は藤原氏によって第2代綏靖天皇と格上げされた有力人物であり、スサノウの姉の神俣姫との間に阿蘇高森の草部吉見(所謂春日大神=武甕槌=鹿島大神…)を得ている古代に於いてはトップ・クラスの有力者なのです。

 しかも、お妃が神俣姫(丹生津姫)となると鉱物採取、金属精錬に長けた一族であることは明らかで、古代には甲州の金、銀の開発にも力を持っていたことが容易に想像できるのです。

 ただ、阿蘇氏の神沼河耳の後裔氏族とする三枝氏が三階松の神紋を家紋として採用しているという事に繋がりを見出せないでいたのです。

そうするうち、百嶋神代史研究会のU女史(こちらはフィールド・ワークを抑えてただひたすら百嶋資料とネット検索で全国の神社を調べていると言う九州では最も百嶋神社考古学に精通した方です)からアドバイスを受けていると、三枝氏の「三枝」は「サエ」であり「佐用」「佐與」のことで、宗像三女神の筆頭市杵島姫(別名が佐用姫、佐代姫)を意味しているのではないかと言われたのでした。

面食らいましたが、確かに可能性があるのです。

まず、天津彦根命の第二代の草部吉見=武甕槌大神は市杵島姫への入り婿となり、大山咋=松尾大神=佐田大神(断じて猿田彦ではない)=日吉神社、日枝神社=山王神社の父となっているのからです。

始めは、三枝氏の三枝は三階松を意味しているのだろうと安直に考えてはいたのですが、三枝が「佐用」「佐與」「佐用」の置換えだったとは驚きました。

興味をお持ちの方は、兵庫県佐用町の佐用神社、福岡県飯塚市の厳島神社外をお調べ下さい。

ひぼろぎ逍遥(跡宮)230白川伯王家源流の神社初見“飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”

ひぼろぎ逍遥(跡宮)273 兵庫県佐用町の佐用都比売神社とは何か? 他も参考になるでしょう。

してみると、栄えある三枝氏とは、子産争いでスサノウと天照が共に産み分けた両系統から共に血を受けた有力氏族だったことが見えて来たのです。

ここら辺りが武田氏滅亡後も徳川氏の重臣となった三枝氏の手腕を思わせるところです。


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まだ、納得されていない方は多々おられると思いますので、少し分かりやすい例をお示ししましょう。

 奈良県桜井市に狭井神社があり、奈良市の大物主神社の摂社率川神社や同社の「三枝祭」といったものまでがあります。

 まず、狭井神社ですが、祭神は換えられているようですが、市杵島姫は鎮女池に残されています。


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また、奈良市の率川神社では、さいぐさの祭が行われています。


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さいぐさのまつり【三枝祭】

古代律令祭祀の一つで,孟夏(陰暦4)の祭。当時の令の解説書《令義解》によれば,〈率川社(いさがわのやしろ)の祭なり。三枝花を以て,酒罇(みか)に飾りて祭る。故に三枝という〉という。《延喜式》の四時祭の規定では,小祀とされた。三枝花は,その枝が三岐に分かれるところからの命名で,一説に百合花という。率川社(率川神社)は,奈良県桜井市に鎮座する大神(おおみわ)神社の摂社で,奈良市内にまつる。この祭は,平安末ごろには衰退したものと思われ,《公事根源》では,2月と11月の項に率川祭が記され,三枝祭との混同さえうかがえる。

世界大百科事典 第2版の解説 による

 

この率川神社も、祭神を媛蹈韛五十鈴姫命 (御子神) 中殿 狭井大神(御父神)向かって左殿 玉櫛姫命(御母神)向かって右殿 としてはいますが、事代主(蛭子)系一族が祭神、伝承を換えている事が私達の目から見れば分かるのですが、それを説明するには膨大な説明が必要になるためここでは、省いておきます。ただ、市杵島姫は鹿島大神(甑島にも鹿島町がありますね)と共に(実はご夫婦で大山咋をお産みになっています)阿多から甑島を経て、東へ、そして甲府(天津司舞の天津司神社)へも、果ては男鹿半島まで神武東征ではない即位前の神武巡行に随行されていますが、説明は困難です。

ここでは、三枝祭のシンボルは笹ユリとか山百合とされていますが、実は鹿児島県いちき串木野市沖に浮かぶ鹿児島県甑島の鹿の子ユリの事であることだけを申し上げておきます。


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三枝祭

 

このお祭りは、『さいくさのまつり』と申し、毎年六月十七日に執り行われる当社の御例祭であります。

このお祭りの起源は古く文武天皇の大宝年中に属し、御本社で行われる鎮花祭(はなしずめまつり)と共に、特殊な神事として由緒深いお祭りであります。その名の起こったわけは、三枝(さいくさ)の花(笹ゆりの花)をもって酒樽を飾ってお祀りするからであると思われます。

むかし、当社の御祭神媛蹈鞴五十鈴姫命が本社三輪山の麓、狭井川のほとりに御住居になり、その附近には笹ゆりの花が美しく咲き乱れていたことが国史に見えておりますが、その御縁故によって後世御祭神をお慰め申す為に酒樽に笹ゆりの花を飾っておまつりする様になったと言い伝えられています。笹ゆりの

花は本名佐韋(さゐ)といいますが、三枝祭はこの故事によるのであります。このお祭は古くから国家の祀典として重んぜられ、光孝天皇の御代には勅田を奉られ、醍醐天皇の御代、この祭儀は神祇官から幣物を祝(はふり)につけて日を選んで行われ、又馬寮から神馬を献られるなど非常に丁重なお祭が行われ       たのでありますが、後世いつの間にか中絶していたのを明治十四年再び古式の祭儀に復興せられ、現在に及んでいるんであります。このお祭の特に異なっている点は、黒酒、白酒を『罇(そん)』『缶(ほとぎ)』

と称する酒罇に盛り、その酒罇の周囲を三輪山に咲き匂う百合の花でふさふさと飾り、優雅な楽の音につれて神前に御供えされる事であります。又神饌は古式により熟饌に御調理申し上げて折櫃に納め、柏の葉を編んで作ったふたをし、黒木の御棚にのせて御供えいたします。この三枝祭は本社の鎮花祭と共に、疫

癘の鎮遏を祈請することを本旨とするお祭であります。」

 

三枝(さくさ)の花


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花にまつわるエトセトラ による


 結局、三枝とは鹿の子ユリの事であり、それをこよなく愛した市杵島姫は別名佐與媛と呼ばれ、飯塚市鹿毛馬の厳島神社の傍にも「佐與」という大字が残され、兵庫県佐用町には佐用神社があり市杵島姫が祀られているのです。

ひとまず、三枝氏の一端を垣間見た思いがしますが、なかなか容易に結論までは到達できないようです。

 ただ、今回、勝沼の大善寺に訪れ、一番驚いたのは、三枝氏によって建立された国宝薬師堂の最上部に、三枝氏の三階松に囲まれた門光=唐花紋を発見した事でした。

 この神紋は九州王朝との関係を取り沙汰される福岡県久留米市の高良大社の内部に密かにおさめられている神紋であり、現在、高良大社では近畿大和朝廷によって支配されて以降(749~)臣下としての木瓜紋と住吉の左三巴だけを表に出していますが、故)百嶋由一郎門光氏からは門光=唐花紋が伏せてあるとお聴きしています。

 この事は当の高良大社では十分にご存じのことだと理解しています。

 この神紋を発見したとき、実は、宮地嶽神社の三階松以上に驚きました。ここでは公開されていますのでご覧ください。


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ここでは、門光=唐花を両脇から三階松が支える構図になっており、三枝氏の一族の思いを垣間見た気持ちがします。

 してみると、ぶどう寺こと柏尾山大善寺とは久留米市大善寺玉垂宮天台宗大善寺と無関係などとは全く言えなくなったようです。


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