438(前) 天地元水(テンチモトミズ) “橘 諸兄の本流が菊池に避退した・”
20170125
太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久
菊池市の西、中心街から菊池渓谷へと向かう尾根道を走り、篠倉から広域農道を南に登ると、原地区に入ります。
ここを通る県道沿いの一画に天地元水神社と言う変わった名の神社があります。
宮司の渋江氏は熊本市内にお住まいのため、普段、神主や巫女さんと言ったものを見かけることはありません。
ところが、この神社縁起には驚くべきことが書かれているのです。
もちろん。橘 諸江が直接菊池に縁があったわけではありませんが、息子の奈良麻呂(奈良麻呂の変で失脚)直系、諸兄の孫の島田丸の末裔が鎌倉期に肥前長島荘(佐賀県武雄市)から菊池に入っているのです。まずは、下の由来(写真)をお読み下さい。
橘町、橘村といった地名は、長崎の橘湾、佐賀県武雄市の橘町、福岡県大牟田市の橘町、うきは市、橘田(橘の広庭宮)など散見されますが、武雄市の橘町は明治期に橘 諸江の一族が住み着いていたことに因んで橘村とされています。
初めて聞く話で不思議に思われることでしょうから、いくつかの物証をお示ししましょう。
天地元水神社
奈良麻呂の変の廃太子道祖王の墓地
皆さんは奈良麻呂の変というものがあったことをご存知でしょうか?
757(天平宝字元)年3月、孝謙天皇は、道祖王が喪中にも関わらず侍童と密通したとして、皇太子を廃太子にしました。
4月、孝謙天皇(25歳)は、新しい皇太子を公募しました。右大臣藤原豊成は、道祖王の兄である塩焼王を推薦しました。左大弁大伴古麻呂は、池田王(舎人親王の子)を推薦しました。
藤原仲麻呂は、孝謙天皇が選ぶべきと進言しました。孝謙天皇は、不行跡の道祖王の兄である塩焼王は不適当でり(ママ)、池田王は親不孝であり、大炊王(舎人親王の子)は悪い噂を聞かないので皇太子に立てると提案し、群臣も賛同しました。
大炊王は、藤原仲麻呂の長男である真従(早世)の未亡人粟田諸姉を妻としており、仲麻呂邸に同居していました。大炊王の立太子は仲麻呂の強い希望であったことがわかります。
7月、橘諸兄(74歳)が亡くなると、その子奈良麻呂(37歳)は実権を失いました。仲麻呂の台頭に不満を持った奈良麻呂は、大伴古麻呂らと挙兵し、仲麻呂殺害・孝謙天皇廃位、塩焼王・道祖王らの即位を計画したとして、密告され、殺害されました。この計画に連座したとして、古来の名門である大伴氏や佐伯氏らが逮捕されました。
前皇太子の道祖王も謀反の容疑をかけられ、藤原永手らの拷問を受けて、獄死しました。これを橘奈良麻呂の乱といいます。
8月、孝謙天皇が譲位し、大炊王が即位して淳仁天皇(25歳)となりました。
hp「エピソード日本史」より
概略は以上のようなものですが、橘 諸兄は縣(橘)犬養三千代の子であり、奈良麻呂は、また、その子、三千代の孫になります。そして、奈良麻呂の変の立太子「道祖王」の墓が旧橘村にあるのです(もちろん、奈良にもありますが、分骨されることは十分に想像できます)。
この道祖王の墓は地元でドウザノボチ(←ドウソオウサマノボチ)と呼ばれています。
では、なぜ、この地に道祖王の墓地があるのでしょうか?
橘 諸兄が太宰の権帥のとき、配下にいたのは吉備真備でした。
諸兄の後に真備が太宰の帥になっていますので、真備に匿われた可能性があると考えています。
何よりも、奈良麻呂の変の時期にも、また、後述しますが、和泉式部参内の時期にもこの杵島山一体と中央には橘氏のルートが存在していたものと思われ、さらに言えば橘氏の本貫地の一つであったのかも知れません。
橘 諸兄とかっぱを祀る潮見神社
実は、天地元水神社と同様の、橘 諸兄を祀る神社がこの武雄市の橘町にもあるのです。
そして、その両方にも河童の話が伝えられているのです。
春日神社側の伝承として、「北肥戦志」に次の記録がある。(若尾五雄「河童の荒魂」(抄)『河童』小松和彦責任編集。シリーズ『怪異の民俗学3』より転載)
「昔橘諸兄の孫、兵部大輔島田丸、春日神宮造営の命を拝した折、内匠頭某という者九十九の人形を作り、匠道の秘密を以て加持するに、忽ちかの人形に、火たより風寄りて童の形に化し、或時は水底に入り或時は山上に到り、神力を播くし精力を励まし召使われる間、思いの外大営の功早く成就す。よってかの人形を川中に捨てけるに、動くこと尚前の如く、人馬家畜を侵して甚だ世の禍となる。此事遥叡聞あって、其時の奉行人なれば、兵部大輔島田丸、急ぎかの化人の禍を鎮め申すべしと詔を下さる。乃ち其趣を河中水辺に触れまわししかば、其後は河伯の禍なかりけり。是よりしてかの河伯を兵主部と名付く。主は兵部という心なるべし。それより兵主部を橘氏の眷属とは申す也。」
さらにこの論文で若尾氏は、島田丸の捨てた人形は日雇いの「川原者」ではなかったかと推測している。
hp「麦田 耕の世界」俳句禅善より
まだ、半信半疑の向きも多いと思いますので、もう少し補足させていただきます。
武雄市橘町の潮見神社には非常に濃厚な河童伝承があります。山頂には島見社(恐らく島とは杵島山のこと)が置かれ、相当に早い時代から、イザナミ、イザナギが祭られていたようですが、この潮見神社の祭神の一つに(恐らく主神でしょうが)橘 諸兄(上宮)があります。中宮には橘奈良麻呂、橘公業(キンナリ)、下宮には渋江公村、牛島公茂、中村公光(いずれも橘公業の末裔で分家筋)などが祭られています。
「奈良麻呂の変」後、橘氏は、そのかなりの部分が殺され、半数が没落しますが、それを悲しんだ犬養三千代が敏達天皇に働きかけ、春日大社の造営に奈良麻呂の子島田丸を抜擢(兵部太夫)させます。
その背後には、釘を使わぬ古代の寺院建築の技術を持った職能集団(河童とか兵主と呼ばれた)が囲い込まれていたのではと考えています。
潮見かっぱの誓文
「奈良麻呂の変」後、橘氏は、そのかなりの部分が殺され半数が没落しますが、それを悲しんだ犬養三千代が敏達天皇に働きかけ、春日大社の造営に奈良麻呂の子島田丸を抜擢(兵部太夫)させます。その背後には、釘を使わぬ古代の寺院建築の技術を持った職能集団(河童とか兵主と呼ばれた)が囲い込まれていたのではと考えています。
詳しく知りたい方は、古川のHP「環境問題を考える」(アンビエンテ)から「兵主」をお読みください。橘氏と河童さらには兵主のことを書いています。ちなみに、武雄周辺では悪口で「ヒョス」が最近まで
使われていましたが、これは河童をあざけった兵主からきたものでしょう。
橘 公逸(キンナリ)
武雄市橘町永島にある神社。旧郷社。祭神は上宮が伊ザナギ命・伊ザナミ命,中宮が神功皇后・応神天皇・武内宿禰・橘奈良麻呂・橘公業。下宮は今はないが,渋江公村・牛島公茂・中村公光を祀っていた。社伝によれば,往古この地は小島で島見郷と称し伊ザナギ・伊ザナミ2神を祀っていたが,その後橘奈良麻呂が恵美押勝との政争に敗れて当地に逃げのび土着したと伝える。さらにその子孫の橘公業が嘉禎3年(1237)にこの地の地頭となって赴任し,奈良麻呂の父橘諸兄をも合わせ,その他諸神を配祀して鎮守社としたと伝える。平安期安元2年2月の武雄神社社憎覚俊解状(武雄神社文書/佐史集成2)に「御庄鎮守塩見社」と見え,武雄社と並んで長島荘の鎮守の1つとされていた。また同地の橘氏の流れをくむ武蔵橘中村家の文書,寛元元(1243)年9月6日関東御教書案(鎌遺6235)には,9月9日の流鏑馬を土地の者が勤めないとあり,この流鏑馬は潮見社の祭礼に関わるものと考えられる。
当社には昔肥後国菊池経直が祭礼の流鏑馬に落馬して葬られたと伝える墓がある。
…(中略)…
当社は河童の伝承を有し,これは橘公業が当荘赴任の際に全国の河童がつき従って当地にやってきたためと言い伝えている。
社蔵の御正体(市重文)は元禄5(1692)年の再興銘を持つが、その銘に「本興建久六乙卯九月一日」とある。
以上、菊池(川流域)地名研メンバー(当時)牛島稔大のhp「牛島さんたちのル-ツに迫る」より。
この潮見河童は橘諸兄の子孫の橘奈良麻呂(子)、島田麻呂(孫)以来の河童伝承であることから、単なる伝承とかいったものではなく、なんらかの史的事実の存在を感じさせます。
実は、この橘村という名称は明治二二年の町村合併時に、橘諸兄の末裔が住みついたことにちなんで付けられたのですが、これだけでも、橘村が橘氏とただならぬ関係があることが分かります。
しかし、それ以上に、橘村と河童にも深い関係があるのです。
橘諸兄は第三〇代敏達(ビタツ)天皇(*)の第五代の葛城王ですが、橘の姓をもらい諸兄と改めます。
一時は藤原氏を押え権勢をふるうのですが、徐々に藤原仲麻呂が勢力を盛り返します。
諸兄の死後、仲麻呂の専横に怒ったか、危機感を覚えたかは分かりませんが、諸兄の子の奈良麻呂が藤原仲麻呂の打倒に決起するのです。
しかし、これは失敗に終わり、橘氏、大伴氏から数百人の犠牲者を出すことになります(奈良麻呂の変/七五七年)。
当然にも多くの敗走者、亡命者が出たのでしょうが、この前後、大宰府は橘諸兄の影響が残っていたものと思われ(諸兄は左大臣と大宰師=ダザイノソツを兼ねていた時期があります)、その際に重用された吉備真備の援助によって身を隠した橘氏の一群がこの杵島山の山裾の橘村周辺に住みついたと言われているのです。
さて、ここから再び河童の話になります。和銅二年、藤原不比等が常陸の国(歌垣伝承の地)鹿島から春日大社(軍神)を奈良の三笠山の地に遷宮するのですが、その折に、滅ぼされた奈良麻呂の子である島田麻呂が兵部大輔(ヒョウブタイフ)として造営の責任者にされたといわれています。
このとき、呪文により九十九体の木の人形に命を吹き込み、一夜にして人手を集め遷宮を成功させたという話があるのです。
この話は、橘氏の配下に高層建築技術を持った渡来系の職能集団が存在したことを感じさせます。つまり、数百年前に江南から渡ってきた渡来系の人々が兵主部として、時の権力に付かず離れずの関係を持ちながら独立性を維持し、高層建築を請負う職能集団としての技術を保ってきたのではないかと思うのです。
恐らく、常陸の鹿島の春日大社も彼らが建てたのであり、解体も、彼らによってしかできなかったと想像します。そして、搬送が可能な部材は全て運んだと思われるのです。
(*)第三〇代敏達(ビタツ)天皇 :
欽明天皇の第二子で、…中略…欽明天皇二十九年(欽明紀は十五年とする)に立太子し 欽明天皇の崩御にともない即位した。『日本書紀』には「天皇仏法を信ぜずして、文史を愛す」と見える。
「歴代天皇総覧」笠原英彦(中公新書)