478 集落からの参道のない神社 “佐賀県鳥栖市下野町下水天宮”
20170420
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
筑後川を挟んだ対岸の佐賀県鳥栖市にも水天宮が在ると言う話はそれとなく聞いていました。
「宮原誠一の神社見聞諜」の宮原氏の案内で、この謎の「下水天宮」に訪れることになりました。
宮原氏によると「この神社には進入路が無くて下野の集落に入って歩いて探しても参道らしきものが一切みあたらないため付近の老松宮には行けるが、この下水天宮だけには辿り着けない…」という話で、要は、その神社を祀るはずの氏子集落から参道が存在しないこと自体が異常なのです。
勿論、社殿も造られ、花崗岩の大鳥居もあるのですから進入路はあるのですが、それは宝満川と筑後川の合流部分の堤防から直接降りる道として存在しているのであって、古い時代に神社に堤防から降りる参道などあるはずがないのであり、それは古くから集落から入る参道は存在していなかった事になるのです。
勿論、神社がある以上参道はあるはずで、恐らく個人の自宅を抜けて入る参道が存在していたはずなのです。
ともあれ神社を見る事にしました。
椿の森の中といった感じですが、鳥居の位置も引っ込んでいる事から、外からは何も無いようにしか見えない事でしょう。
社殿の裏には、龍神、中央神(さすがは佐賀県ですね佐賀県だけに限定的に存在する中央神が…青森の日本中央碑)、多分、圃場整備などで寄せられたものでしょう。
中央神 龍神
さっそく「佐賀県神社誌要」を調べましたが、老松宮はあるものの、下水天宮は記載がありません。
集落での聴き取りもしていない事から迂闊な事は言えませんが、そもそも集落で祀られていたのかさえも分からないといった印象を持ったのでした。
ところが宮原氏は丹念でそれなりの事情に精通されており、“集落で祀られており、多くの古文書も残されている…と即座に反論されました。
その通りなのでしょう。ただ、印象としては集落との繋がりの様なものが見いだせず、思考の暴走が勝ってしまったのでした。 錯覚いけない良く見る宜し…。
これは鳥居、参道正面
帰りがけになって理由が分かり、謎が氷解しました。
それは、安徳帝潜行が関係しているのです。
現地掲示板
壇ノ浦の安徳帝と二位尼(平時子)の話は良く知られています。
見てきたような話にはなりますが、攪乱のため、十手ほどの影武者(ダミー)が逃げ、本物の安徳帝は一旦北の対馬に逃れ後に南下し奄美大島の長浜から喜界ケ島に御所を移し現在でもその後裔がおられるようです。
百嶋先生は実際に十数年前まで文通をされており、現代の安徳帝の一代前の安徳帝と文通しておられたと聴いています(現物も保存されています)。
さらに、その奄美への逃亡には、八女の黒木の一族が全面的に協力したとも聴いており、いずれ公開する時も来るでしょう。
勿論、本物の安徳帝も潜行された可能性はあるのですが、ダミーにはダミーとしての任務はある訳で、その限りで最も危険な役割を果たした本物のダミーが久留米に潜行していたのではないかと考えています。
そしてその末裔もおられるようなのです。
実は、いつも利用させて頂いている「姓名分布&ランキング」で安徳姓を調べると、全国で181件存在する中で、実に106件までが福岡県、それも64件が久留米市に存在しているのです。
十分にお分かり頂いたと思います。
安徳帝の逃亡に関係していたのは水天宮を奉斎した氏族であり(天御中主命を祀る白族)、水天宮は集落からも容易には立ち入れない、しかも、集落の監視を抜けなければ入れない場所に潜行地が置かれ、逃亡完了後もダミーとしての任務を全うした人々=平氏の特殊部隊が久留米~八女の一帯に密かに隠れ住んでいた可能性を否定できないのです。
これが集落からの参道が存在しない事の理由だと気づき迫る夕闇と夕方のハードな交通渋滞から追われ逃れる様に宮原氏のご自宅に戻ったのでした。