スポット180(前) 赤村の超巨大古墳 ③ 発見と列島の穴掘り考古学の未来 “福岡県赤村内田”
20180517
太宰府地名研究会 古川 清久
グーグル・アースでも容易に見いだせるのですが、今年の春以来、古墳としか見えようのない福岡県赤村の巨大丘陵が、(あくまでも)仁徳陵とされる大山(大仙山)古墳に次ぐとか匹敵する超大型古墳ではないかとの話が持ち上がり、マスコミに地域を揚げて思惑が膨らんでいます。
場所は一般にはあまりご存じではない福岡県の筑豊地方、田川郡赤村の内田地区です。
既に公開されてしまった事から申し上げますが、この古墳の存在については一部の九州王朝論者の間では以前からかなり知れ亘っていました。
また、信用できる研究者に対しては当方外からも秘密裏に情報を流してもおりました。
私がこの事実を知ってからしばらくして、元朝日新聞の記者であり(ミネルヴァ書房から「太宰府は日本の首都だった」外3著)考古学に詳しい内倉武久氏をお連れし、現地の筍(タケノコ)山などに入り、高坏の破片となどの土器片を拾い、地権者である筍栽培農家の方からも大量の土器片を入れた箱などを見せて貰っていました。そして、何とかオーバー・グランドに引き上げられないものかと工作を始めていたのでした。
そもそも古田系とは異なる傍流の九州王朝論者の一部には「豊前王朝論」なる概念も存在し、これまで九州王朝の連合国家、楕円国家論、分封制、分裂国家(九州王朝内部の南北朝ならぬ東西朝)といった様々な仮説が提出されていました。
代表的なところでは大柴英雄の「豊前王朝」、坂田 隆「邪馬壱国の歴史 (1975年)」 邪馬台国九州説、田川市・京都郡、室伏志畔氏、佃収…など 主として傍系の九州王朝論者の一群になるのでしょう。
この衝撃の事実を知って以来の私自身の個人的な考え方としては、始めから宣伝戦を行なうべきだというものでした。
それは、「邪馬台国畿内説」などといった大嘘の、唯一、最大の根拠とされてきたのが畿内の大型古墳群であって、近畿大和朝廷こそは邪馬台国の後継国家であるに違いないと言った単純な思い込みであって、九州などには巨大古墳は存在しないしあってはならないとするのが、利権集団としての考古学協会であり、その神輿に乗っている(その実使われている)考古学の京都学派なのでした。
そのため、「九州でどのように重要なものが出土しようが発見されようが蓋をし、重要なものほどコンクリートで固めてしまい発掘調査費のほとんどを畿内で独占しようとの思惑があるからと考えてきました。
これこそが、古田武彦や九州王朝論が無視され攻撃され、他愛もない邪馬台国九州説までもが相手にされず、お伽話風のご当地邪馬台国説だけが許容されてきたのでした。(簡単に言えば関西の解同利権)
つまり、教育委員会や学芸員は元より、京都学派に占拠された今の発掘調査の現場では本物ほど蓋をされ、畿内説を補強する発掘調査や中程度の重要性を持った物だけを自分たちの都合の良いものを独占的に調査し発表すると言う構造が存在していることから通常は絶対に蓋をされてしまう恐れがあるのです。
このため考古学の発掘調査の現場に精通した内倉武久氏は、蓋をすることが絶対にできないレベルの何らかの物証(羨道など)を得るところまで進め、その後公表するべきであろうと考えられ、その意向に従ってきたのでした。
私自身は、通説派はどうせ蓋をするに決まっているし、潰される事は分かり切っているのだから、一早く公表し、畿内に先行する豊前一帯の巨大古墳の存在(実はまだまだあるのです)を明らかにし、原子力村同様の京都学派による考古学村ぶりを炙り出し暴露し世論に訴え京都学派に占拠された考古学村を炙りだしすべきであると考えてきたのでした。
勿論、内倉氏の考え方が正論なのですが、現在の文化財保護法は京都学派のイニシアの元に独占的に発掘の権利を付与する構造になっており、恐らく時間だけが失われる事にしかならないだろうと考えていたのでした。当然の事ながら、いずれはグーグル・アースによって誰かが発見するだろうと考えていました。
そして、それが現実のものとなるのです。そのブログが公表されたのは2018年の1月でした。以下。
画像はネット上で最初に公表し世間一般に知らしめられたによる(コダイアリーの本文は以前に公開したスポット151 赤村の超巨大古墳発見の背景について “福岡県赤村内田の前方後円墳?”をお読み下さい)。
話が逸れますが、ひぼろぎ逍遥とひぼろぎ逍遥(跡宮)では、この古田史学の会系の石田泉城さんと4月からリンクを張っていますので、今後とも文献史学の立場から九州王朝論に迫られている掲載稿をお読み頂きたいと思います。さて、内倉氏と共に古墳を一周した際に、葺石の痕跡は実質的にはなかったものの、三段築成の跡や環濠の痕跡とも思える耕作放棄田やため池様のものも確認しており、実質的にそれを環濠と考えれば、二番手クラスの巨大古墳に成るとした内倉説の推定(可能性)は無視できない話になるのです。まずは平成筑豊鉄道田川線の内田駅周辺を検索される事から始めて頂きたいと思います。
ただ大変残念なことに、九州王朝論者など自称される方でさえ、実質的には現地を踏もうともされず、踏み薮を掻き分けて調べて見ようとされる方は極少数どころかほぼ皆無であって、大半は邪馬台国本読みの半通説紛いの方々ばかりと言った有様では京都学派の専横ぶりは今後とも続く事になるでしょう。
このような九州王朝論を標榜する団体も自ら九州王朝の存在の痕跡の残る現地を調べようなど
とはせず、月例会の大半を通説派の学芸員の御高説を拝聴し平伏するありさまなのですから情けないばかりです。まあ、このような言わば邪馬台国本を読む会、九州王朝論を楽しむ会では古田武彦が一生を掛けて切り開き将来を託した九州王朝論の未来は切り開けない事でしょうし、古田が残した九州王朝探究の任務はとん挫することでしょう。 しかし、“あんなところにそんな大きな古墳などがあるはずはないんですが…”と言わざるを得なかった京都学派のNダニ氏(元は奈良辺りの小学校の教員養成大学)の半ば引きつった記者会見は見ものでした。
今後どのようにしてこの巨大古墳(?)を無き物とされるかは興味深い上に、日本の考古学会の在り様を見据えて行きたいと思うものです。従って、今回はこの列島の考古学に関する話をしたいと思います。
九州などには巨大古墳は存在しないし、あってはならないとするのが、利権集団としての考古学協会であり、その神輿に乗っている(その実使われている)考古学の京都学派なのであって、「九州でどのように重要なものが出土しようが発見されようが、どうせ蓋をして重要なものほどコンクリートで固めてしまい、発掘調査費のほとんどを畿内で独占しようとの思惑があるからと考えてきました。 と前述しました。
ここからは、何故、邪馬台国九州説、特に九州王朝論が何故敵視されるのかについてお話しします。
ソフト面とハード面があるのですが、先に宣伝戦としてのソフト面からお話ししましょう。
全国で行政主導による(つまり学会通説に沿った)古代史のシンポジウムとか古代史研究会と言ったものが花盛りです。この現象によって古代史ブームが再燃しているとか古代史研究が盛んになっているなどと考えるのはとんでもない誤りでしょう。
各地域に熱心な研究者が芽生えている訳でもなく、通説派の浸透によって次世代の研究者が育たず後継者の喪失から壊滅状況になっている各地の郷土史会、史談会、地名研究会、○○古代史の会…といったものが、ほぼ新たな研究者を失い、半ば教育委員会とか学芸員と言った通説、半通説の利権集団に救いを求めているのが実情なのです。
つまり、戦後産みだされた真の古代史像を追求しようとする自由な思考を持った民間の研究者が、高齢化などによって最終的に失われつつあることを良い事に、予算を引出し肖ろうとする村興し町興し、果ては世界遺産登録と言った薄汚い税金への集りの構造に、かつて孤高を保っていた九州王朝論者の一群までもが浅ましくも靡き取り込まれ始めた事を意味しているのです。
そこまではいかないものの、九州でも○○古代史の会といった、一時期、古田武彦をも乗り越えるとして活発に活動を展開していた団体までもが、自らは調査も研究もしようとはせずに、論文も生き残りの僅かな外部研究者に依存していたために調査研究への姿勢を一切失い、今や月例の研究会(たかだか年間8回程度)でさえも自前の研究を出す事も出来ずに通説派の学芸員の御高説を賜わり平伏すると言う悍ましい堕落を見せているのです。このような状態では、かつて古田武彦氏が保っていた孤高の研究への姿勢や佃 収、米田良三といった今も尚健在の九州王朝論に立つ研究者の姿勢がオーバー・ラップできない事は言うまでもないでしょう。そうするうちに古田武彦の三部作さえも読んだ事のない、通説派に汚染された新世代が内部に加わるに及んでは、かつて通説派を震撼せしめた九州王朝論者の研究会の影を見出す事など微塵もできなくなり、良くて「邪馬台国九州説」程度の大衆レベルの意識しか持たない無様な状態を晒しているのです。
この傾向が続けば早晩、九州王朝論さえもかなぐり捨て、行政が垂れ流す調教用の予算と人材にのみ依存するどこにでもあるような郷土史会程度の醜悪な組織に変貌していく事だけは間違いないことでしょう。
ただの思い込みと勘違いでしかない「邪馬台国畿内説」はどうしようもないとしても、他愛もない「邪馬台国九州説」や利権構造から通説派に擦り寄った醜悪この上ない「邪馬台国東遷説」とか、堕落した九州王朝論者の一群に、最早、古代史の深層を掘り下げることなど全くできない事が一層鮮明になりつつある現在、このような傾向をどのようなものとして取り上げるかだけは整理しておく必要性があるでしょう。
まず、戦後の民間研究団体は、皇国史観が蔓延した事によって中国や北朝鮮のような塗り潰された文化的退廃からの解放として一気に勃興したものでした。
つまり、大嘘一色になってしまえば、裾野なき孤高の研究者だけが、あたかも電信柱のように際立つわけで、平地に蠢く人々から見れば、一気に権威を再生できるとも言えるのです。
所詮、○○古代サミット、○○古代史シンポジウムといったものは、学会通説派による国民の調教の範囲で許される(予算が貰える)ものであって、それに集り、肖り、有難がる人々とは、自らの頭で考え自らの手足を使って調べようとすることも忘れ、ゲージの中で調教の餌付けをされているようなものでしかないのです。このような状態が古代史ブームとか古代史への関心が高まっていると考える事が凡そ間違いで、まず、民間研究者による自由で独自的な研究に地域、行政がバック・アップするなどといった事は一切なく、もし、部分的にそういったものがあったとしても、「万葉集」研究とかいった普通の人があまり関心を持たない人畜無害のジャンルとか、「地名研究」など学会そのものも存在しないことから教育委員会関係者とか学芸員の御咎めが無い(いわば馬鹿にされたジャンル)ような範囲で許されているものでしかないのです。
この点、(YYなどが関与する疑似的官製的「邪馬台国シンポジウム」などは当然にも無視しますが)、我々も全面的にバック・アップした古田武彦講演と宮地嶽神社の筑紫舞を結びつけた800人の集会などとは比べようのないただの官製イベントだったことが分かるのです。