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スポット186 赤村の超巨大古墳 ⑧ から 朝倉市山田の長田大塚古墳「継体天皇陵説」の周辺(下)

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スポット186 赤村の超巨大古墳 ⑧ から 朝倉市山田の長田大塚古墳「継体天皇陵説」の周辺(下)

20180525

太宰府地名研究会 古川 清久


先に、スポット151 赤村の超巨大古墳発見の背景について “福岡県赤村内田の前方後円墳?”外をオンエアしています。今回は、九州王朝論者の大御所のお一人である内倉武久氏が提案されている朝倉市山田の長田大塚古墳継体天皇陵説について当時行った太宰府地名研究会主催のトレッキングのお話の延長上に継体天皇が如何なる人物であったのかについて迫ってみたいと思います。

赤村の超巨大古墳?はともかくも、九州にも大王クラスの古墳が存在した可能性があるという事について考えを進めていこうと思うものです。

再掲

現在、グーグル・アースでも容易に見いだせる古墳にしか見えない福岡県赤村の巨大丘陵が、(あくまでも)仁徳陵とされる大山(大仙山)古墳に次ぐとか匹敵する超大型古墳ではないかとの話が持ち上がり、地域を揚げて盛り上がっています。


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赤村に巨大な前方後円墳-。こんな話が、地元住民の間やインターネット上でささやかれ始めている。地元の古代史研究グループによると、現場の航空写真から鍵穴型丘陵の全長は約450メートル。日本最大の前方後円墳「大山(だいせん)古墳」(堺市)の墳丘長に迫る大きさとあって、古代史ファンからは「卑弥呼の墓では?」といった期待の声も聞かれる。

丘陵は同村の西端、内田小柳地区の雑木と竹に覆われた民有地で、東側を平成筑豊鉄道と県道418号が南北に走る。数年前から丘陵の形に着目してきた田川地域住民などでつくる「豊の国古代史研究会」の調査では、後円部に当たる部分は直径約150メートル。魏志倭人伝にある邪馬台国女王卑弥呼の墓の直径「径百余歩」とほぼ一致するという。

また、丘陵沿いの住民によると、東側にある後円部と前方部のくびれのような場所では、タケノコ掘り中に土器片が多数発見。周濠(しゅうごう)の部分に当たる丘陵西側脇には、以前から湿地が広がっていたという。現在まで発掘調査はなされておらず、真偽は謎のまま。田川地域の自治体の文化財担当者らは一様に、丘陵を「自然の地形」として、前方後円墳との見方を明確に否定している。

2018/03/20付 西日本新聞朝刊=


 内倉武久氏は「うっちゃん先生の古代史はおもろいで」の初期のブログ

ブログ013 「継体天皇」の御陵は福岡にあった① ―杷木神籠石誕生に一役か―
ブログ014 「継体天皇」の御陵は福岡にあった② ―継体天皇も熊曾於族か― 


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において、朝倉市杷木町の大分自動車道山田パーキング下の長田大塚古墳継体天皇陵説を提出されています。


『古事記』『日本書紀』(『記紀』)に記す「継体天皇」と「磐井」の争いは、九州政権内の権力争いであろう、と考えている。 そうであればいより「継体天皇の御陵」も九州のどこかにあるはずだ。というか、なくては筆者の考えは大間違い。「ただの妄想」と受けとられかねないだろう。この 件についてどうしても読者にお知らせしておかなければならないと思う。というのも、「継体天皇の御陵が福岡県朝倉市にあるのを発見した」のだ。「断定」とまではいかないが可能性としては極めて高いと思える。…以下略

継体は三島の藍(アイ)に葬られたのです

ただ、この墳墓はもぬけの殻かも知れません

それは改葬され東に移動されている可能性があるのです それが、仁徳によるの州王朝東遷です。



これに呼応し、既にひぼろぎ逍遥223225において、列島でも最大クラスの円墳である朝倉市杷木町山田の長田大塚古墳について以下を書いています。


225

内倉武久氏による朝倉市長田大塚古墳=継体陵説と杷木神社縁起

との整合について ②

224

雨に濡れながらの6.27太宰府地名研究会トレッキンング 

“長田大塚古墳=継体陵説を探る”

223

内倉武久氏による朝倉市長田大塚古墳=継体陵説と杷木

神社縁起との整合について ①


詳細はこれらを読まれるとして、この古墳の概略を前ブログとは別の角度から説明したいと思います。


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225内倉武久氏による朝倉市長田大塚古墳=継体陵説と杷木神社縁起との整合について ② 20150707


 内倉武久氏による朝倉市杷木町山田の長田大塚古墳が継体天皇の墓ではないかという驚愕すべき提案(2015年久留米大学公開講座での講演外、多元的古代研究会や九州古代史の会の会報等)は、彼が朝日新聞の記者として全国の古墳を見て回り、「太宰府は日本の首都だった」(ミネルヴァ書房)外三著を出し、なお、blog「うっちゃん先生の古代史はおもろいで」において考古学への小稿を書き続けている穴掘り考古学全般に精通した人だけに説得力があり、九州王朝論者にとっても新鮮で、勢いのある風を起こしています。

 それは、雨の中での太宰府地名研究会主催のトレッキングに多くの参加者が集まった事にも反映されているのかも知れません。

 トレッキングから一週間後、今度は熊本から4人のグループが訪れ、再び私が案内する事になりましたが、今回は同じコースを廻るにしても、新たに継体天皇の出身地と言われる福井を加えたのです。

 今回はこの福井の話です。

そもそも、「紀」では、三国の坂中井(福井県)に…とあるだけで、福井県とされているのも全ては推定なのです。

 父親の彦主人王にしても彦山は直ぐ傍ですし、三国もこの朝倉からそう遠くない所(朝倉市の隣の小郡市)に揃っているからです。

 まずは、継体を福井県の誇りとしているサイトからご紹介しましょう。


継体大王を知ることができる書物は少なく、『古事記』『日本書紀』『上宮記』の三書のみでそれ以外は伝承や考古学的な資料のみである。
 『日本書紀』によると、「父・彦主人王は母・振媛が顔きらきらして、大変美しい人であることを聞いて三国(みくに)の坂中井(さかない)(福井県坂井市)へ使いを送り、近江国高島郡三尾(みお)(滋賀県高島市)の別業(なりどころ)(別荘)に召し入れてお妃(きさき)とした。」と書かれている。2人は、滋賀県高島市の三尾で結婚し、その後に生まれたのが男大迹王(おほどのおう)(後の継体大王)である。
 男大迹王が生まれて間もなく、彦主人王は亡くなってしまう。そこで振媛は「私は今遠く故郷を離れてしまいました。ここには親類縁者もなく、私一人では養育することができません。越前国高向(たかむく、坂井市丸岡町高田付近か)に帰って親の面倒を見ながらお育てしたい。」と言い、幼い男大迹王を連れて高向に帰った。
 坂井市丸岡町高田には高向神社が建てられており、この付近に高向の宮があったと推定される。
 継体大王は、『日本書紀』によると西暦507年に58歳で即位したとあるので、逆算すると西暦450年前後に越の国(福井県)に入り、即位するまでの50年余りを過ごしたことになる。


sp186-5より


元々内倉想定は、“九州王朝説の立場からは、継体天皇が三島の藍に葬られた…とされているとしたらそれは、今城塚でも大田茶臼山でもないであろう。”“もし仮にそうだとしても、それは九州王朝系同氏の争いの表現であり、後に九州王朝系豪族の多くが畿内に進出した結果、分骨、改葬の結果によるものではないか”したことによるものであり、本来は北部九州のどこかに彼を葬る塚があるはずであり、それがどこなのかを考えたのだろうと思うのです。

 まさしく、古田武彦氏が「磐井の乱はなかった」という奇妙な後退(撤退)を行っている中、九州王朝説の最先端の議論を行っている事になるのです。

 思えば、磐井の乱から1500年が近付く中、久留米一帯の人々にとっても最も注目すべき問題なのです。


此之御世、竺紫君石井、不從天皇之命而、多无禮。故、遣物部荒甲之大連、大伴之金村連二人而、殺石井也。天皇御年肆拾參歳。【丁未年四月九日崩也。】御陵者三嶋之藍御陵也。        「古事記」


まず、朝倉市山田の長田大塚古墳は、三嶋之藍にピッタリ符合します。

なにしろ、正面の三連水車の隣の二連水車の地がまさしく三嶋の藍なのですから。


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そして、三国も福井も揃っているのです。


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朝倉市の西隣、小郡市の三国=赤円、長田大塚古墳=黄円


 結局、何の事は無い、「磐井の乱」とは、筑後川を挟んで、北から南の磐井を攻め滅ぼしただけの事であって、磐井の乱と呼ばれる九州王朝内分の内ゲバだった事になるのです。


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朝倉市の東端、杷木町の福井集落=小青円、東隣、東峰村の福井=大青円、長田大塚古墳=黄円


継体天皇(袁本杼 男大迹)がこの一帯に居たという確たる証拠はないものの、居たとしておかしくないような地名が揃っている事だけはお分かりになるのではないでしょうか?

では、東峰村の福井と福井神社をご覧いただきましょう。

彦山の南麓に位置する旧宝珠山村(現東峰村)に大字福井があります。

最近、豊後(日田)から筑豊、筑豊(田川周辺)に頻繁に移動している事からこの福井を通過していた事になりますが、内倉想定が提出される前まで継体天皇との関係では全く考えてはいませんでした。

 まず、重要なのは、三国、福井、三嶋、…といった地名がいつの時代まで遡れるのかが問題です。

 一般的に地名研究が馬鹿にされ素人扱いされるのは、それがいつの時代のものかが特定できない事にあります。

 しかし、「三国」は肥前、筑前、筑後の国境に因む地名であろうことは間違いなく、分国令(=六十六分国も九州王朝によるものかも知れませんので…)、前後のかなり古い地名である事はある程度想定できます。

 三嶋も藍も遣唐使船が入ったとか、斉明天皇が舟に乗ったとか言われているだけに詳しくは調べていませんが、これもかなり古い地名である事は間違いがなさそうです。

 問題は「福井」ですが、以前から福井県の福井は玄界灘側の糸島市二丈福井にあり、「福井白山神社」があることから、安曇族の移動により持ち込まれた地名ではないかと考えていました。

 今回、継体との関係で「福井」を再考した時、福井神社があることを思い出しました。

 以前も何度か訪れていますが、「神社誌」も調べていませんでしたし(現在、「福岡県神社誌」上中下は国立国会図書館デジタル・コレクションで全て読むことができます)、これといった特徴も無い事から印象が薄かったのですが、今回は驚きました。


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福井神社 カーナビ検索福岡県朝倉郡東峰村大字福井9251



彦山の周辺は高木神社が卓越し、そのほとんどが大行事社と重なるため、この福井神社もその一つと考えていましたが、高木大神系の神社ではありません。

イザナギ尊+速玉男尊+事解男尊という組合せもあまりありませんが、一目、古い神様の揃い踏みと言ったものに見えます。

伊弉諾神 伊邪那岐命は良いとして、速玉男尊+事解男尊は分かりにくいかと思います。

結論を急げば、速玉男尊は博多の櫛田神社の主祭神の大幡主(オオハタヌシ)であり、事解男尊は一般的には加具土(カグツチ)命としてしられていますが金山彦のことであり製鉄の神様です。

そして、百嶋神社考古学においては九州王朝の初期を支えた重要な氏族(民族)なのです。

 今回は、山田の長田大塚古墳の御背後地の福井地名を確認してもらいましたが、重要なのはどうみても長田大塚古墳の西側好地に置かれた墓の所有者の一族=安部家との関係ですね。

 現在、その線に沿って調査を進めているところです。

 どうみてもこの筑後川の両岸は古代においても最も住み良い領域であり、多くの勢力が鬩ぎ合った場所だったように思えるのです。


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福井神社から50メートルほどのところに福の井がありました。なんと、井戸の上に社が置かれ、久留米水天宮も祀られているようです。八世紀初頭に活躍した役行者の話は佐賀県にも濃厚な伝承がありますが、福井神社、福の井の起源を探る上では重要な指標になります。直ぐ目の前は大肥川でもあり、どうやら自噴(吹井)の噴水井戸この福井の地名の起源の様です。



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本当にようやくですが、青森~東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。

この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。

人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。

なお、「肥後翁のblog 」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)は現在二本立てブログで日量11001200件(年間45万件 来年は50万件だ!)のアクセスがありますが、恐らくグループ全体では最低でも年間200万件のアクセスはあるでしょう。


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