243 山陰土産 ⑥ 夏の終わりの長門、石見、周防の神社探訪 “江津市桜江の大山祇神社”
20150831
久留米地名研究会 古川 清久
天石門彦神社、足王神社をあとにして、一路、東隣の江津市へと移動しました。ラッシュ・アワーとは言え、土曜日の益田は交通量も少なく高速道路を利用する気はさらさらなかったのですが、無料区間と勘違いして山陰自動車道に放り込まれ、法外な410円をせしめられ朝から気分が悪かったのですが、山陰最大最長の江の川を遡上し、江津市、川戸、今田、江尾周辺の神社を見て回る事にしました。
本日、(この本日は29日の事ですが)二つ目の神社は、結構見慣れた大山祇神社です。
ただ、山陰では珍しいという印象があり(誤りかも知れませんが)、おっとり刀で現地に入りました。
カーナビ検索 江津市桜江町今田 今田集会所前付近
江の川は、入江とも川ともつかない、形状で、古代にはさらに川幅が広く、それこそ数十キロも川を遡上できたのではないかという印象を持ちます。
佐賀では、大半が干拓によるものですが、オランダ並みに低平地が広がっており、現在でも高潮位の場合は数十キロ奥まで潮が入り、そういう地形を江湖(エゴ)と呼びます。
表記は江+湖であっても、実際にはエ+ゴウが本当であって、江の川のゴウと通底しているのではないかと思います。
つまり、江は入江であり、江の川の江も海がそのままフィヨルドのような谷に溺れた川であり海であり入江であったように思うのです。
桜江も県道41号線の南は奥行きの深い広い入江であり、その後干陸化して、広い耕作地になったようです。
今田も、大堤防の建設によって農耕地へと転換した事を意味する地名のようです。
この今田の枕の滝川と宮の谷川の合流し八戸川に落ち、江の川に注いでいるのですが、その宮の谷川の辺に鎮座しているのが今回の大山祗神社です。
別に大社と言う訳でもなく、珍しい神社でもないのですが、この海士族の集中する江の川流域に鎮座しているのが珍しい事から訪問させて頂いたものです。
そうは言うものの、今現在、大山祗神社の本山が鎮座しているのは伊予の大三島であり、お隣の、周防にはこの伊予の大三島から勧請されたとす る大山祗神社や三島神社が多数鎮座しているのであって、海士族の領域なのに、大山祗神社があるのが奇妙だと申上げているのではありません。
確かに大山祗神社です。しかし、社殿はというと何やら公民館か神楽の練習場といった面持ちで、肝心の神殿が見当たりません。
こう言うのもありかと考えたのですが、気になり裏に回ると謎が解けました。
神殿は川を挟んだ禁則地か清浄地と言った森の中にあり、本来の神域はここだったのです。
欲を言えば河川改修事業が行われる前の姿が見たかったところですが、これでも古代の神社の原形が見て取れる良い経験をしたと思うものです。
神殿はなく、宗像大社の高宮同様の降臨地風の基壇があるだけでした。
話しはここまでですが、出雲に隣接する江津市の一角に、大山祗神社があることは、多少考えさせられることがあります。
一般には“出雲は大国主の国”といった俗説が遍く広がって久しいのですが、百嶋神社考古学に触れた者には別の世界が見えています。
百嶋神代最終系譜
百嶋系譜でお分かりのように、半島から入って来た越智族の首領の大山祗命=月読命と白川伯王の娘である埴安姫の間に産まれたのが大国主命であり、大山祗と大国主とは父と子にあたるのです。
してみると、この集落は出雲神話に言う 白族=博多の櫛田神社の大幡主系と九州から伊予の大三島に移動した大山祗の両方が混住しているのではなく、もちろん大国主以降の氏族でもなく、九州から直 接この地に入って来たか、伊予大三島から移動して来た大山祗系の集落である可能性があるのではないかとは一応は言えそうです。
勿論、海人族との関係はあるはずで、この集落のお隣の集落にその痕跡があるのです。