251 鬼怒川大水害と災害後しか関心を持たれない「災害地名」
20150916
久留米地名研究会(編集員)古川 清久
先に「ひぼろぎ逍遥」209 災害後しか関心を持たれない「災害地名」においてこのように書いていました。
災害がなければ注目されない歴史、危機に陥らないとお呼びじゃない変革者や預言者
災害があると、ようやく「この現場は元々危険な場所だった…」などといいった普段は見向きもされない古老とか識者の見解が妙に持ち上げられ、埃が払われて当然でもあったかのように持ち出されて来るのです。
津波が入る湾奥地、大型活断層直上地、洪水常襲地、崩壊地、鉄砲水経験地…など日本の 様な災害常襲国では少し考えれば幾らもあるのですが、普段、そんなことを言えば「年寄りの戯言だ!」「町興しに反対するのか!」「地価が下がるじゃない か!」「営業妨害だ!」「地権者でもないのによそ者が何を言うか!」となってしまうからです。
東北大震災後、津波絡みの災害地名の本(「あぶない地名○○」「地名は警○する」「災害・崩壊・津波地名○○」…)といったものが出されましたし、広島の土石流災害後に同地が元は「蛇落地悪谷」(ジャラクチアシタニ)だったと言った話が面白おかしくにわか仕立てでクローズアップされました。
これはこれで立派な調査や研究であり敬意を表するのにやぶさかではないのですが、結局は時流に乗る商業目的(悪いと申上げているのではないのでクレグレモ…)か、良く言って、情緒的な免罪符か諦めとか癒しのためのセレモニーに近いものではないかと思うばかりです。
とは言え、確かに過去災害に見舞われた土地、頻繁に土石流が襲う土地、ここだけは不思議と助かる土地、ここまでは津波が やって来なかった土地、よそは全て水没したがここだけは漬らなかった…と言った特徴的な土地は、それなりの地名が新たに付され、古来、刻み込まれている場 合があることは確かで、その事例は経験を積めばある程度は見当が付けられそうです。
ただし、古語や方言や外来語に対する素養とか、地形、地質、植生、土質を読む総合的な知識が要求される事になり、我々の様な田舎地名愛好者ぐらいではなかなか追いつかないものです。
国、地方行政機関自体がその貴重な地名を破壊し続けている
谷川健一をして「文化遺産」と言わしめた貴重この上ない宝物としての地名を、効率性とか差別地名や不明地名の排除とかいった勝手な判断によって徹底して破壊し(国土調査、町村合併、区画整理、換地処分…)続けている張本人が行政です。
そのくせ、災害があると、国土交通省などは自らの子飼いの風土工学系研究者などを動員し、天下り先にしているコンサルタント会社などに災害地名拾い出し(パンフレット作成)させて天下りのお土産や商売にしているのです。
まず、地名など不確かなものに頼る前に、その土地に永く住み、地元の事情に精通してい る識者に聴きしすれば、住んではならない土地、買ってはならない土地、できれば避けなければならない土地は分かるはずですが、問題は皆が都市に集中するよ うになり、そのような情報から全く切断され、分譲業者やディベロッパーといった利潤優先の他人から買わざるをえない状況に陥っている事実そのものが問題な のです。
昔は全ての人間が自分達の住んでいる土地の事を知っていたし、頻繁に山や谷や川と関係 を持って生活していたために、例えば、山にどのような木が生えているかだけでも、滑り易い土地、崩れやすい土地は知っていたし、同じ杉山にしても、幹が曲 がった山は地滑りや表層崩れが起きている事から、その下に家を建てる事は決してしなかったものです。
まず、農水省の拡大造林政策によって、本来、落葉広葉樹や常緑広葉樹で維持されていた山体の勾配が針葉樹に植え替えられれば危険極まりないものになっているのであって、単に山に緑があるからと安心してはいけないのです。
本来、「蛇落地悪谷」といった特殊な痕跡地名を探る前に、最近開発された(山を切り、谷を埋めて造られた)にわか仕立ての急造地こそが危険であり、こういう土地は、決まって、何々ケ丘、何々台、何々タウン、平成○○ヒルズ…と名付けられているのです。
むしろ、逆に、好字、好感、高アピールの土地こそが怪しいのです。
何故なら、福岡市内では5000万円以下ではまともな敷地面積の戸建は取得できないとされているように、人が住まない、住んではならない、危ない土地だからこそ売れずに残っていた安い土地である事から開発する価値があるのです。
実は、このような新造地の下に、多くの人命を奪ってきた危険を告げる情報が刻まれた小字名、四股名が残っているはずなのです。
このことを頭に入れた上で地名を考えると、最近の急造地ばかりではなく、その時代ごとにそのような事が起こっていると分かって来るのです。
良い例が、長崎県島原市にあります。海岸部の島原温泉は知られていますが、観光客は振り向きもしない地元の人だけが行く山手の温泉に、「上の湯」、「新山鉱泉温泉下の湯」があります(最近は入っていないので一方は閉鎖されているかも知れません)。
実はこの一帯が「新山」と呼ばれているのです。つまり、「島原大変肥後迷惑」における山体崩壊=大規模土砂崩れによって埋まった地域が新山(まさにニュー・ヒルズ○○)と呼ばれたのです。
この新山の北には、正直に崩山(クエヤマ)町や栄町が、南には緑町(まさにグリーンタウン○○)が、山そのものが滑り落ちた海岸部には、湊新地町(ポートorハーバー・ニュー・タウン○○)があるのです。
次はそれに続く大規模災害が近年にも存在した事をお知らせしておきます。
です。
広島の大規模土砂災害に関しては、「蛇落地悪谷」という地名の話が興味本位で取りざたされたのですが、今回の鬼怒川の大洪水についても、福岡の某テレビ局から久留米地名研究会に対して「福岡県の災害地名についてどう考えておられますか…」といった問い合わせが舞い込みました。
この手の問い合わせに関しては前述した通りですが、今回は広島の場合と異なり、土石流ではなく堤防決壊に伴う洪水、浸水災害です。
これについては、「鬼が怒る」と尋常ならざる表記がされた地名であり、どのように考えても後世に教訓を残し警告している地名と考えられるのであり、元々、そのような土地に住み着くべきではないはずなのです。
しかし、そのような事を一言でも口にすれば、開発業者、行政から袋叩きにされるのは明らかであって(過疎化の後押しするのか!)、結局、警告も教訓も生かされずに災害が繰り返すだろうとしか思えません。
このためこのような拝金主義と無責任体制への侮蔑のみに留め、純粋に地名研究の立場から古代への探査へのビームを伸ばすことにしたいと思います。
詳細な検討は今後行うとしても、面白い事実に気付きました。
まず、「鬼怒川」は古くは「毛野川」と書かれ、「上毛野」、「下毛野」という大分県の耶馬渓一帯の地名と対応する上に、鬼怒川の東にはこれまた氾濫を繰り返してきた「小貝川」が流れているのです。
しかも、「小貝川」は古くは「子飼川」と書かれていた様で、「子飼」と言えば、熊本市の白川沿いに掛る橋が「子飼橋」であり、古代には蚕を飼っていたと言われる「子飼」という地名であるのです。
仮に、「絹の川」「絹川」があり、蚕を飼う「子飼川」があったとすれば話は旨い訳で、先ほどの上毛野、下毛野という大分県の耶馬渓の地名と併せ考えれば、肥後から豊前に掛けての人々が遠い古代に進出した痕跡地名に思えて来るのです。
既に、「常陸国風土記」に見る「杵島ぶり」の話は九州からの「建借間命」の進出を思わせるものであることは前のブログでも触れています。
古老の話によりますと、崇神天皇の時代に、東国に住む凶暴な賊を平定するため、建借間命(たけかしまのみこと)を派遣しました。(…中略…)そこには、夜尺斯(やさかし)・夜筑斯(やつくし)という二人を首領とする賊たちが穴を掘り要塞を造って住んでいました。彼らは命の軍隊が来ても降伏せず、手向かいました。建借間命が軍勢を差し向けると、賊は逃げ帰って要塞を閉ざしてかたくなに抵抗しました。
そこで建借間命は賊たちをおびき出すために、策略を思いめぐらしました。まず勇猛果敢な兵士を選び出し、これを山の隅に隠れさせ、兵器を 作って備えつけました。それから海岸に船や筏を組んで、雲のような大傘を張り広げ、虹のような旗をなびかせました。そして天の鳥琴と天の鳥笛を美しく鳴ら して肥前の国(現在の佐賀県・長崎県)に伝わる杵島曲を、七日七夜も奏で歌い舞ったのです。
そのうち、賊たちは賑やかな音楽にひかれて要塞から皆出てきて、浜辺いっぱいに浮かれだしました。その時建借間命は、騎兵に命じて要塞を閉 ざさせて退路を断ち、後ろから襲撃して、ことごとく賊の仲間を捕らえ、同時に焼き殺してしまいました。 「常陸国風土 記」より
「杵島の唱曲(きしまのうたぶり)」2014-05-15 00:52:24 | 「潮来・茨城の歴史」
より
今回の鬼怒川の洪水騒ぎについては、被災者の方には非常に申し訳ないと思うのですが、“また、愚かな事が繰り返された”といったといった感想しかありません。
元々、人が住み着くべきではない土地に住み着いたことが全ての誤りであり、このような危険極まりない低地に住宅の建設を認めたのが誤りであ り、行政はとうの昔に危険性を十分に把握していたのですから(後から作られたものであってもハザード・マップは水没の危険性を指摘していたのでした)、江 戸時代の行政であれば住居の建設は認めていないはずであり、そもそも危険性を知っている地元の百姓は水田にはしても住居は建てていなかったはずなのです。
この地に古くから住んでいた人は、いつも洪水になる土地であるという事は語り継がれ十分知っていたのであり、古来、安全な所の一等地には古社が置かれ、今も豪族の末裔といった方々が好(高)地を占拠し安全に暮らしているはずなのです。
愚かしいのは、常総市役所をこのような低地に置いたことです。
無理して合併したのであれば、長期的展望を持った行政の中枢を得るべきだったはずなのですが、またもや大失敗、大失態を演じてしまった(シマッタ)ようなのです。
行政の長がこのような平和感覚では、始めから危機管理を期待することなど凡そ無理なのであって、行政自体が救援を求めてしまわざるを得なくなっているのでした。
増してや少しでも安い土地を求めてギリギリのローンでようやく得たマイ・ホームを流された方々はお気の毒としか言いようがありません。
安い土地は元々売れない土地だから今まで残っていたものであって、だからこそディベロッパーはこれ幸いとばかりに住宅や宅地を供給したのであって、危険には目を瞑り金儲けを優先させたのでした。
民衆は、中古住宅でも良いから安全な場所を選択するべきだったのです。
行政に頼らず、一切期待せず、一切信ずることなく、自らの頭だけで物事を考え、自らの居住地を選択するべきなのです。
不動産業者、ニュータウンのディベロッパー…は営利しか考えていないのであって、元々、人が住み着いていない、住み着いてはならない土地であった事などは知っていても黙して語らないはずです。
今回も、警告地名としか考えようのない「鬼怒川」は、古くからの伝承や地元の知恵を一切顧みようとしない拝金主義によって、せっかくの次世代への警告は一切警告となることなく鬼の冷笑にしかならなかったのでした。
「広島」、「鬼怒川」の場合と同様に、再び、第二、第三の大規模災害は間違いなく起こることになるでしょう。
このように繰り返される馬鹿げた現象に一喜一憂することなく、ここでは地名そのもの問題を考えて見ましょう。
今回、おぼろげながら持っていた薄いイメージに対して、改めて古代常陸国に九州から進出した人々がいた事を確信するに至りました。
その一つが、茨城県の古河(コガ)市に見られる古賀(古河)地名の存在です。
既にこの事については久留米地名研究会のエース永井正範氏が「古賀」地名としての常陸の「古河」地名の存在を指摘していましたが、このほぼ 九州限定の「古賀」地名と対応する常陸の「古河」地名とは、河道を変えた旧河川の跡地である「古川」と同様、「古賀」地名の原形であろうと考えられるので す(「古河」は好字令によって「古賀」と変わった713年以前の地名か)。
通説は、ほぼ、九州限定の「古賀」地名に対して「空閑」(クウガ)を想定していますが、河の流れが洪水によって変わり、残された元々の旧河道を「古河」(コガ)「古川」(フルカワ、フルコウ、フルコ…)と呼んでいた可能性が高いと考えています。
従って、「古賀」という古(イニシエ)のめでたいという意味の好字は茨木の古河(コガ)が原型ではないかと考えるのです。
と、すると、「古賀」地名の集中する場所(例えば古賀市、太宰府…)も河川氾濫の常襲地帯であり危険な低地なのです。
太宰府の「通古賀」は北陸出身の旧帝国大学の長沼某教授が始めて「古賀」地名に遭遇したことから「遠ノ国衙」と思い込み、教育委員会も含め 「トオオノコクガ」説がまことしやかに語られていますが、貝原益軒も「トオルコガ」としており、「通古賀」の周りにも多くの「古賀」地名もあり、それこそ とんでも説が一般化しているのです。
こうして、氾濫地名としての「古河」、「古川」も「古賀」という好字に変えられ、「遠国衙」トンデモ説に変えられ警告の意味が忘れられて行くのです。
詳しく読みたい方は、「久留米地名研究会」のHPから、027「通古賀」(トールコガ)“通古賀はトウノコガと読むべきか?”を検索して下さい。
平成27年台風第18号による大雨等に係る被災状況図(平成27年9月11日午前)
内閣情報調査室では、台風第18号 による大雨等に係る被災状況について、情報収集衛星によって必要な情報を収集し、関係省庁に提供しております。この度、今月9日に公表した、大規模災害時 における情報収集衛星画像に基づく加工処理画像の公開の考え方に基づき、被災地域の加工処理画像等を公表することといたしました。
内閣情報調査室より