スポット032(前) 熊本人工地震について ② 震災ビジネス 個人の責任で書いたもの…当たり前ですが!
“ビジネスと化した仮設住宅ではなく温泉施設、遊休宿泊施設の政府による長期借り上げを!”
20160426
久留米地名研究会 古川 清久
車上生活とエコノミークラス症候群の問題が、さも、まことしやかに議論されていますが、緊急に準備されるべき仮設住宅が長期間提供されない事を神戸、東北 の経験から見越し予測した上で、已む無く車上生活に入っている方に対して、「体を延ばしましょう」とか「運動をしましょう」などと声を掛け、カウンセラー を県外からさえも派遣するなどといった事が行政の施策と言うのですから、ほとんど余計な“おせっかい”でしかなく、住宅の再建なり産業の維持なり雇用の確 保なり新設なり、行政にはもっとやるべきことがあるだろう!としか言いようがありません。
それができれば、長期的な将来への不安とか絶望といった事から派生する不眠や体の変調といったものは(震災により直接犠牲になった50人に対して震災外死は既に16人)自然に解消するはずなのです。
その前に、政府による緊急措置により安全に寝泊まりできる居住空間さえで提供できれば、短期的な課題=連続する余震に対する緊張、不眠、プライバシーの欠如による病変、不満、ストレス…などの解消は問題ないレベルに軽減できるはずなのです。
例えば、阿蘇谷、南郷谷(南阿蘇)の被災者に対しては、内牧温泉なり赤水温泉なり多くの温泉付きの宿泊施設(中には閉鎖され現在使用されてないものもあれ ば、温泉がストップしたものも、復活したものも…)があるのですから、そこを政府が緊急に二年なり三年なり、場合によっては五年なりの長期契約によって借 り上げて、被災者に優先的に住んでもらえれば良いだけの話であって、そこでの生活については、被災者自らで炊事当番を決め、搬送できずに処分せざるを得な い豊富な阿蘇の食材を利用して調理すれば良いだけの事なのです。
恐らく米などは全国から立ちどころに集まることでしょうし、大半の被災者は多かれ少なかれ農業者との関係は持っているためいつでも調達できるのです。
まず、温泉付きの施設があるのですから、エコノミークラス症候群はおろか、いっさいのトラブルは解消し数ヵ月後にはピンピンして自立への道を踏み出すこと ができる精神的な気迫だけは回復できる事になるはずなのです。問題は、住宅再建のための長期低利(無利息)の融資といった将来の再建なのです。
仮に無担保貸し付けとしても、実際に住宅が建てられた後に支払う事を条件にすれば、経済は循環し税収となってそのかなりの部分が国庫に戻っても来るのです。
既に阿蘇大橋の大橋梁は崩落しているのですし、恐らくトロッコ列車で知られた南阿蘇鉄道も、十年ほど前に流された高千穂鉄道と同様に見捨てられ切り捨てられ、二度と復旧される事はないでしょう(これはあくまでも推測ですが)。
さらに南阿蘇へのもう一つの大きな交通路であった俵山トンネルがどの程度の被害か不明ですが、現状で通れない以上、白水水源を始めとした多くの遊水池や地 獄温泉、垂玉温泉、栃木温泉、高森温泉…(切りが無いのでやめますが)など南阿蘇への観光客は物理的に入る方法が全く無くなっており(東の豊後竹田方面か らの阿蘇市への、また、草部、高千穂方面から高森への進入路は難を逃れた模様)、橋の復旧を考えると、最低でも今後五~十年間の南阿蘇観光は消失してしま う事になりそうなのです。
このため、これらの施設のうち、政府による長期間の借り上げの希望を聴かれる事になれば、恐らく全ての施設が手を挙げる事になるでしょう。
これは阿蘇谷でも同様で、豊後竹田方面から国道57号線で入るルートは、先年の土砂災害で補強されていたためか通行が可能であり東からの交通路は確保されているようです。
しかし、楼門が崩落した阿蘇神社に参拝する観光客がいるとも思えず、例え東からの交通網が残されていたとしても客足の落ち込みを五分の一にとどめる事さえも絶望的な状態なのです。
現在の阿蘇への進入ルートは瀬ノ本高原から大観峰、ミルクロードで笹倉から阿蘇へ、笹倉から広域林道草部高森ルートを含め入る事は十分に可能ですが、こと 観光に関しては絶望的で、これらの温泉施設と観光産業を存続させるためにも、政府借り上げによる被害者、救援者、災害復旧業者への長期の住居提供が阿蘇の 産業を支える鍵なのです(災害復旧工事の従業員宿舎としての安定的な利用が唯一の期待になるはずです)。
ところが、それでは困る人々がいる事から、簡単に実現するとは考えられないのです。
つまり、震災をビジネス・チャンスと考える死の商人どもを操る連中が蠢いているのです。
仮設住宅、住宅設備、生活資材を提供する業者、全国から集まる膨大な額の義援金を、直接、商売にしたい多くの企業や提携する政治家が口を開けて待っている のであり、そういった企業に多くの官僚どもが天下りし、人の不幸につけ込み旨い汁を吸おうと待ち構えているのが見えてしまうのです。
この政府による宿泊施設の長期借入契約は阿蘇に限らず適応できるはずであり、益城町、熊本市でも同様で、まず、多くの温泉施設は過剰供給気味に整備されています。
宿泊施設にしても、既に旅館、ビジネスホテル、民宿が山ほどあるのですが、これらの施設の大半が阿蘇観光を主軸とする熊本観光の壊滅によって、周辺部を含めて危機に直面しているのです。
それが、非常に抑制気味に報道されている「見なし仮設住宅」の制度であり、仮設住宅の建設よりもむしろそちらを最優先にすべきなのです。
早く手を打たなければ、希望を失った老人の病死、自殺、続く未来を奪われた若年層の自殺が後を追う事になるはずです。要はスピードなのです。
戦前にも事例のある陸軍省による旅館の長期借り上げ
かつて、戦時下の日本に於いても、箱根温泉、別府温泉、嬉野温泉、我が武雄温泉も…など多くの事例がありますが、不足する戦傷者、戦病者の病棟として、軍 部が一括して長期で借り上げ(当時は借り下げと言っていたようですが)緊急時に対応した事例は幾らもある訳で、既に客足が退いて久しい日奈久温泉、湯ノ児 温泉のような遠隔地でさえも手を挙げるところは幾らも出て来るはずなのです。
このような話の途中で不謹慎かも知れませんが、「陸軍よもやま話」風の話として、一部には陸軍が遊郭を長期で「借り下げ」たという勇ましい話も聞き及んでいます。
そこで、娼妓が炊事係りや下働きにでもなったのかについては詳しい事情は不明です。
熊本市内でも勤務先、家族の事情(通院、通学)に合わせ、北の菊陽温泉、菊池温泉、山鹿温泉、菊鹿泉、植木温泉、玉名温泉…、益城に近い南となると宿泊の できる温泉施設は確かに少ないのですが、全く無い訳ではないので、日帰り施設を中心に南北に振り分け、遠距離の希望者にも希望を聴き、植木温泉は勿論の 事、菊池温泉から日奈久温泉ぐらいまでは十分に分宿させる事は可能なはずなのです。
問題は衣食住の「住」が確保できれば、後は自活の援助をすれば良いだけで、援助を役人どものビジネス・チャンスとすべきではないのです。
農業者は「住」を確保さえできれば後は農機具の援助でしょうし、益城町も被災者の大半はサラリーマンのはずですから温泉地に限らず、民間のアパートの長期借り上げで問題は解決するのです。
数例ですが、近いエリアから別府鉄輪と湯平温泉の例でご紹介しましょう。
No887 はがき文 あれこれ
鉄輪にも陸軍病院の病棟
療養中の兵隊から秋田の同僚へ
終戦の年の昭和20年3月31日の日付印がある文面で、差出人の住所は「大分県別府市鉄輪 小倉陸軍病院別府分院 鉄輪病棟十二寮」となっている。戦争中に北浜の旅館が借り上げられて海軍病院の傷病兵を収容していたという話は聞くが、鉄輪にも陸軍の傷病兵がいたのだろう。ちなみに小倉陸軍病院別府分院は現在の社会福祉会館の裏手(青山小学校の下)にあった。戦争が激しくなると、陸軍病院も海軍病院も多すぎる傷病兵を収容できず、市内あちこちの旅館を借り上げていた。
宛先は秋田県の秋田銀行本荘支店御一同様となっており、差出人は元々この支店の行員だったわけだろう。さぞかし望郷の思いが募っていたことと想像される。なお「傷のためペンが持てない」と書いているので、指を負傷していたのだろうか。
「前略雪国秋田もそろそろ春めいて来た事でせ う。当地別府ももうすっかり春景色の気持のよい気候です。皆様には如何お過ごしでせうか。銀行もこの半年余りでさぞ色々変った事でせう。私の傷も段々良く なり軽傷です故、他事乍ら御安心の程。私の留守宅もさぞ色々御厄介になって居る事でせう。今後共よろしくお願ひ致します。傷のためペンを使ひ得ず鉛筆書に て失礼。」(注・句点は補った)
なお、「検閲済」というスタンプもあり、検査した係だろうが3人分の判も押されている。
景観特性に関する研究
石丸裕佳子1・大森洋子2・外尾一則3
1非会員 佐賀大学大学院 工学系研究科都市工学専攻(〒840-8502 佐賀市本庄町1番地)
E-mail:11577005@edu.cc.saga-u.ac.jp
2正会員 久留米工業大学教授 建築・設備工学科(〒830-0052 福岡県久留米市上津町2228-66)
E-mail: omori@cc.kurume-it.ac.jp
3正会員 佐賀大学大学院教授 工学系研究科(〒840-8502 佐賀市本庄町1番地)
E-mail: hokao@cc.saga-u.ac.jp
(3)昭和時代
昭和8年には,それまで湯平温泉の代表的源泉,金の湯・銀の湯は特定の温泉所有者によって管理されてきたが,共同 浴場はその源泉と共に全部村有となり,村条件に基づく温泉使用料の納入で誰もが平等に使用できるようになった.今日全国でも珍しい共同浴場の無料開放がこ の時から始まった.昭和初期までは賑わいを見せていた温泉場も戦争の拡大と戦況の悪化に比例して極度の不振に落ち込んでいった.昭和20年に陸軍は湯平温泉を大分陸軍病院の分院とすることにし,全旅館を陸軍が一括借上し,一切の湯治客を排して,多いときは800名の患者が収容されていた.終戦までのわずか5ヶ月の短い期間ではあったが,温泉場入り口に衛兵が立ち,出入りを厳しくチェックしたために入場客は全部追い返され,温泉場としての営業は完全に停止した.これが敗戦の虚脱感と相まって湯平温泉が他の温泉地よりも戦後の立ち上がりを遅らせた大きな要因になった.昭和25年の朝鮮戦争の勃発による軍需景気で観光慰楽型の温泉地利用が多くを占めるようになり,湯平も慰楽型の観光地要素が強くなっていった.
その後湯治場としての需要が減り,内湯を持つ温泉旅館に変わってきた.しかし,旅館の老朽化が進み,湯布院温泉や黒川温泉の台頭により徐々に客足が減少した.
これが立ちどころに実施できるのが阿蘇なのですが、どうせやらないでしょう。
急いでやらなければ何の意味も無いのに、期待もできない気休めにもならない怪しげなカウンセリングでさも一生懸命に取り組んでいる様に見せ掛けているだけなのです。