288 北北東に進路を取れ! ⑧ 敦賀市の気比神宮 1/2
20151231
久留米地名研究会 古川 清久
敦賀と言えば、まず、気比神宮が頭に浮かびます。
30年前にこの神社の前を通過した事がありますが、参拝は今回が初めてとなります。
最初に目に飛び込んできたのは左ではなく右三つ巴の神紋と五七の桐の神紋でした。
まずは、同社の公式HPからご覧ください。
御祭神 御神徳
伊奢沙別命(いざさわけのみこと) ※衣食住・海上安全・農漁業・交通安全
仲哀天皇(ちゅうあいてんのう) ※無病息災・延命長寿・武運長久
神功皇后(じんぐうこうごう) ※安産・農漁業・海上安全・無病息災・延命長寿・武運長久・
音楽舞踊
応神天皇(おうじんてんのう) ※海上安全・農漁業・無病息災・延命長寿・武運長久
主祭神 伊奢沙別命は御食津大神(みけつおおかみ)とも称し食物を司り、また古くより海上交通、農漁業始め衣食住の生活全般を護り給う神として崇められている。神 功皇后、応神天皇はまた漁業に対する御神徳著しく、古来五穀豊穣、海上安全、大漁祈願が行われ、現に農漁海運業者の崇信が極めて篤い。神功皇后は安産の神 として霊験あらたかである。仲哀天皇・神功皇后・日本武尊・応神天皇・武内宿禰命は無病息災延命長寿、また神功皇后・玉妃命は音楽舞踊の神である。
由緒沿革
伊奢沙別命は、笥飯大神(けひのおおかみ)、御食津大神とも称し、2千有余年、天筒の嶺に霊跡を垂れ境内の聖地(現在の土公)に降臨したと伝承され今に神籬磐境(ひもろぎい わさか)の形態を留めている。上古より北陸道総鎮守と仰がれ、海には航海安全と水産漁業の隆昌、陸には産業発展と衣食住の平穏に御神徳、霊験著しく鎮座さ れている。仲哀天皇は御即位の後、当宮に親謁せられ国家の安泰を御祈願された。神功皇后は天皇の勅命により御妹玉姫命(たまひめのみこと)と武内宿禰命 (たけのうちのすくねのみこと)を従えて筑紫より行啓せられ参拝された。文武天皇の大宝2年(702)勅して当宮を修営し、仲哀天皇、神功皇后を合祀されて本宮となし、後に、日本武尊を東殿宮、応神天皇を総社宮、玉姫命を平殿宮、武内宿禰命を西殿宮に奉斎して「四社之宮」と称した。明治28年3月26日、神宮号宣下の御沙汰により氣比神宮と改められた。延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)に「越前國敦賀郡氣比神社七座並名神大社」とあり、中古より越前國一ノ宮と定められ、明治28年、 官幣大社に列せられ、一座毎に奉幣に預ることとなった。当神宮の神領は持統天皇の御代より増封が始まり、奈良時代を経て平安朝初期に能登国の沿海地帯は当 神宮の御厨(みくりや)となった。渤海使(ぼっかいし)が相次いで日本海沿岸に来着したので神領の氣比の松原(現国定公園・日本三大松原)を渤海使停宿の 処として、天平神護2年(766)勅によって松原客館が建設され、これを、氣比神宮宮司が検校した。南北朝争乱の延元元年(1336)大宮司氏治は、後醍醐天皇を奉じ金ヶ崎城を築いて足利軍を迎え奮戦したが利あらず一門ことごとく討ち死し、社領は減ぜられたが、なお、二十四万石を所領できたという。元亀元年(1570)4月大神司憲直等一族は越前国主朝倉氏の為に神兵社僧を発して織田信長の北伐を拒み、天筒山の城に立籠り大激戦を演じたが、遂に神宮寺坊は灰塵に帰し、48家の祠官36坊の社僧は離散し、古今の社領は没収され、祭祀は廃絶するに至った。慶長19年(1614)福井藩祖結城秀康公が社殿を造営されると共に社家8家を復興し、社領百石を寄進された。この時の本殿は流れ造りを代表するもので明治39年国宝に指定されたが戦災(昭和20年7月12日)により境域の諸建造物とともに惜しくも焼失した。その後、昭和25年御本殿の再建につづき同37年拝殿、社務所の建設九社之宮の復興を見て、祭祀の厳修につとめたが、近年北陸の総社として御社頭全般に亘る不備を痛感、時代の趨勢著しいさ中、昭和57年 氣比神宮御造営奉賛会が結成され「昭和の大造営」に着手、以来、本殿改修、幣殿、拝殿、儀式殿、廻廊の新設成り、旧国宝大鳥居の改修工事を行ない、平成の 御代に至って御大典記念氣比の杜造成、四社の宮再建、駐車場設備により大社の面目を一新。更に国家管理時代の社務所が昭和20年の戦火で焼失し、その後敦賀区裁判所の庁舎を移築、長く利用してきたが、老朽化により已むなく解体、平成23年6月大社に相応しい格式ある総木造社務所が新築落成した。
以上同社縁起
では、日本武尊、応神天皇、玉姫命、武内宿禰命が合祀(?)される前に祀られていた伊奢沙別命=笥飯大神とは如何なる神(人物)でしょうか?これが、今回のテーマです。
始めに結論を申上げておきます。この気比神宮に祀られている気比大神とは、ツヌガノアラシト後の贈)崇神天皇だと考えられます。故百嶋由一郎氏も以下のように話されていました。
…草部吉見の呼び方は草部(かやべ)と呼ぶが、伽耶即ち、朝鮮半島との関係はその出自としての関係はまったくございません。ゼロです。それは草壁吉見(支那津彦、海幸彦)さんが、縁組によって高木の大神の配下・系統に入ったからです。それで伽耶、朝鮮半島にも当然行かれた。そしてこの方のお子さんである大山くい(佐田大神)のみことのお名前は、くまかぶとあらかしひこ(熊甲安羅加志ヒコ)です。この名前を解説すると、“熊甲”は熊本県甲佐、“安羅”は日本のいくつものグループが安羅に任那としての出先を持っていた安羅は地名です。 “加志”は梶取のことです。すなわち、熊本の甲佐出身の安羅にいる舵取という意味です。そして海幸彦(支那津彦、草部吉見)、大山くい(熊甲安羅加志ひこ)、さらに大山くいのお子さんが敦賀の式内社気比神宮にお祭りされているツヌガアラシト(天の日槍、素戔鳴尊、贈崇神天皇)です。近くではそれを見ようと思えば、久山町山田にある審神者神社です。船の航海を天に御伺いするシャーマンで船の舵取りです。すなわち、海幸彦(草部吉見、支那津彦)、大山くい(熊甲安羅加志ひこ)、贈崇神天皇(ツヌガアラシト、天日槍、素戔鳴)と3代に渡って朝鮮半島と縁のある方々で、舵取りをなさっている。…
「神社伝承から見る古代史 百嶋由一郎先生の世界--- もう一つの神々の系譜 ---」 牛島稔太のHPから
では、敬愛する「玄松子」氏からも教えを請いましょう。
笥飯(けひ)の宮、笥飯大神とも呼ばれた神社。主祭神・氣比大神は、別名・伊奢沙別命といい、また、御食津大神とも言われている。
『古事記』仲哀記には、以下の記述がある。建内宿禰命が、太子(誉田別命、後の応神天皇) を連れて、禊に訪れた時。当地に坐した伊奢沙和気大神が、夜の夢に出現し、「吾が名を御子の御名に易へまく欲し」と告げた。さらに、「明日の旦、浜に幸す べし。名を易へし幣献らむ」。翌朝、浜へ行くと、鼻の傷ついたイルカが浦いっぱいに集っていた。これを見て太子は、「我に御食の魚を給ひき」、つまり、神 が太子のために、食料の魚を下さったと感激した。そして、その神の名を称えて、御食津大神と名づけ、それが気比大神である。鼻の傷ついたイルカによって、浦が血で臭かったので、その浦を「血浦」と呼び、角鹿(つぬが)となった。
『日本書紀』垂仁天皇の条には、意富加羅国の王子・都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)、またの名、于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)が、当地、笥飯(けひ)の浦に到着し、角鹿と名づけたとある。
都怒我阿羅斯等は、白石から生れた姫神を追って日本へ来たともあり、その姫神は、比売語曽社に祀られている。
『古事記』・応神記では、天之日矛(天日槍)が、阿加流比売という赤玉から生まれた姫を追って来たとあり、都怒我阿羅斯等は、天日槍と同一視されている。
これらの伝承により、主祭神・氣比大神に関しても、仲哀天皇説や、都怒我阿羅斯等説、さらに天日槍説などの異説がある。
以上のことから、氣比大神は、海人族による朝廷への服従のシンボル、特に、海の幸の献上から、食物の神霊を祀った神であったものが、海人族を通して、半島との交流が盛んになると、半島神へと、その性格を変えていったと見ることもできるだろう。
大宝2年(702)、勅命により、仲哀天皇・神功皇后を合祀し、後に、日本武命(東殿宮)、応神天皇(総社宮)、玉妃命(平殿宮)、武内宿禰(西殿宮)の本殿四隅に四ノ宮として祀られ、祭神七座となった。
ここで、玉妃命(神功皇后の妹)が、白玉の姫を追った都怒我阿羅斯等、赤玉の天之日矛を連想させる。
社伝では、氣比大神が、この玉妃命に神懸り、神託によって、神功皇后が三韓平定を行なったとある。
境内にある角鹿神社祭神は、都怒我阿羅斯等であるが、角鹿国造の祖・建功狭日命であり、都怒我阿羅斯等とは無関係とする説もある。
また、境内の遺址である土公については、当社の東北方向に、聳えている天筒山(171m:祭神の霊跡)の遥拝所であり降臨地。あるいは祈祷所。あるいは当社の古殿地。あるいは古墳。あるいは経塚など、
諸説あって、よくわからない。
霊亀元年(715)。藤原武智麻呂が、霊夢により氣比神宮寺を建立した。これが、神宮寺の初見と言われている。
祭神を、天日槍と考えると、但馬國一宮・出石神社との関連が考えられる。
ともに、日本海側の大社であり、半島に関係がある。神紋も、同じ。
以上「玄松子」
同社縁起には702年以前のこととして(当然ですが701年以前の九州王朝の時代です)、「仲哀天皇は御即位の後、当宮に親謁せられ国家の安泰を御祈願された。神功皇后は天皇の勅命により御妹玉姫命(たまひめのみこと)と武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)を従えて筑紫より行啓せられ参拝された。文武天皇の大宝2年(702)勅して当宮を修営し、仲哀天皇、神功皇后を合祀されて本宮となし、後に、日本武尊を東殿宮、応神天皇を総社宮、玉姫命を平殿宮、武内宿禰命を西殿宮に奉斎して「四社之宮」と称した。」と書いています。
登場人物は、高良玉垂命の正妃である神功皇后を筆頭に全て九州王朝の臣下です。
だからこそ、「神功皇后は天皇の勅命により御妹玉姫命(たまひめのみこと)と武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)を従えて筑紫より行啓せられ参拝された。」と書かれているのです。
権力に思いっきり尾を振る学会通説派は、欠史8代は架空とするのが権威者の条件とばかりに義務とさえ理解していることからこれも容易には理解されない事は十分承知していますが、「天皇の勅命により」の部分も、仲哀死後の神功皇后を正妃とした高良玉垂命事藤原により勝手に第9代とされた開化天皇以外考えようがありません。というよりも、むしろ良く残されていた史実にさえ思えます。
なお、右は久留米高良大社に残された「高良玉垂宮神秘書」(コウラタマタレグウジンヒショ)の一部です。
特に、これには神功皇后の二人の妹の話が出て来るのですが、「豊姫」と呼ばれており、気比神宮の「玉姫」とは名前が異なっています。
しかし、ここでは正史に記述の無い神功皇后の妹の話が登場するだけでも、この気比神宮に残された伝承が真実である事を意識せざるを得ないのです。
何故なら北部九州から豊の国(古代に於いては周防から豊前豊後が豊だったのです)に掛けては神功皇后伝承に満ち溢れているからです。
「玄松子」氏は、「主祭神・氣比大神に関しても、仲哀天皇説や、都怒我阿羅斯等説、さらに天日槍説などの異説がある。」と、客観的かつ冷静に保留されていますが、我々、百嶋神社考古学に触れた者には、「意富加羅国の王子・都怒我阿羅斯等」とは、大伽耶からやって来た、後に藤原により格上げされた後の第10代贈)崇神天皇=都怒我阿羅斯等であり、気比大神と考えています。
生前、百嶋先生は、“崇神は遥かに年下の高良玉垂命=第9代開化天皇、神功皇后御夫婦に九州で仕えていた…”と話しておられたのです。
そして、九州から進出した安曇(宗像)系、阿蘇系の人々がいた事は 287 北北東に進路を取れ! ⑦ 敦賀市の気比神宮への道 で書いた通りです。
これまでにも、五七の桐、三五の桐は開化天皇、神功皇后(仲哀天皇の妃が神功皇后だとされている事だけで鼻から否定される方はお読みになる必要性も価値は一切ありませんので…)御夫婦の神紋であることはこれまでにも何度も書いてきました。
さて、初期(つまり、近畿大和朝廷が幅を効かせる前)の気比神宮においても宇佐神宮同様に九州王朝の影響下にあったはずであり、どうもその痕跡らしいものがあるようなのです。
それには、境内摂社などを詳しく検討する必要がありますが、初見の神社では簡単な作業ではありません。
しかし、遠方からも、気比神宮解読のための切っ掛けとなりそうな部分を次のブログで提案させて頂きます。
その前に、一つだけ頭に入れておいて頂きたい事があります。
それは、兵庫県豊岡市の出石に気比神社が、また、筑豊のど真ん中、福岡県飯塚市の幸袋に許斐神社(このみや)があることです。
この二つの神社も恐らく敦賀の気比神宮と同じ性格を持った神社だと考えられるのです。
豊岡市の気比神社の天日槍命(アメノヒボコ)はスサノウの事であり、飯塚市の許斐神社も主祭神は本来、スサノウのはずなのです。
しかし、神話が輻輳しというか混乱し、スサノウとも五十猛=ニギハヤヒ=山幸彦とも解釈できるように扱われているような印象は絶えず着き纏います。
スサノウは新羅の王子様ですし、百嶋神代系譜から言えば、スサノウと、大山祇と大幡主の妹である埴安姫との間に産まれた神大市姫との間に産まれた伊勢外宮の豊受大神をお妃としたニギハヤヒ=山幸彦は、スサノウの権威を惹く神とは言える事から、スサノウ、ニギハヤヒが同一視されたのは考えられそうな事ではあるのです。
気比神社 兵庫県豊岡市出石町宮内99
出石八前大神、天日槍命
許斐神社 福岡県飯塚市赤坂430
祭神 素盞嗚命、大己貴命、稻田姫命、大屋津姫命、五十猛命、抓津姫命
いずれも敬愛するHP「神奈備」による
このため、敦賀の気比神宮の主神とされる伊奢沙別命(イザサワケノミコト)とはスサノウの命を意味しているはずですが、それを摂社として排除し(と言っても消すことはできない)、その領域の最後の支配者となったのは、やはり第10代とされた贈)崇神天皇ではないかと考えるのです。