20160102
久留米地名研究会 古川 清久
帰路、9号線で兵庫県から鳥取県に入ると、そこは岩美町ですが、これも石見の国(島根県西部)の置き換えと考えれば分かり易いかもしれません。
伯耆の国の中の石見の国といったところです。当然にも、太田、大谷といった地名が拾えます。
ここに、岩井という地名があり、湯かむりの奇習の残る岩井温泉があり、三十年ほど前に某旅館に泊まった事もありますが、それ以来、この地には何度も足を向けるようになりました。
そもそも、久留米にとって岩井という地名は岩井の乱(磐井の乱)の逆賊磐井を思わせるからです。
さて、ここには御湯神社という非常に気になる神社があります。
カーナビ検索 鳥取県岩美郡岩美町岩井141 御湯神社
この神社が、兵庫県養父市大屋町を中心に10社ほど分布する御井神社(兵庫県養父市大屋町宮本字高尾481、豊岡市日高町土居字天神228、豊岡市宮井字大門215…)という神社群と同じ系列の神社であると気付いたのは五年ほど前でした。
勿論、そのルーツは、久留米高良山那、高良大社のお膝元、味水御井神社以外には考えようがありません。
それは、大国主命を出雲の人と考える「古事記」による近畿大和朝廷のトリックを見破らない限り不可能なのですが、大国主命は宗像大社の本当の祭神であり、九州王朝の中期を支えた重要な臣下であったあった事を知ること無くしては理解できない世界かも知れません。
あくまでも、出雲の国は国譲りの結果移動した転勤先の様なものであり、本来の活動領域は九州だったのです。
同社由緒書
祭神は御井神(大国主命の御子)、大己貴命(大国主命の別名)、八上姫命(御井神の母神)、猿田彦命(天孫降臨の先導役の神)とありますが、ここで、百嶋由一郎最終神代系譜をご覧いただきましょう。
関係者を出しましたので、お考えいただきたいと思います。
「古事記」でも大国主命には多くのお妃がいることになっており、それを真に受けるかはともかくとして、同社縁起によれば八上姫命と大国主命との間の御子が御井神とされています。
この八上姫命は「嫡妻の須勢理比売命を畏れた」女神とされますが、百嶋由一郎神代系譜(阿蘇ご一家)では、八上姫は市杵島姫(須勢理比売)と書かれています。
少し分かり難いのですが、「古事記」は5%しか信用できないとする百嶋神社考古学としては、その「古事記」の記述そのものに引きずられる必要はありません。
御 井神の候補者を下照姫とするか、その入婿のウガヤフキアエズと考えるかはありますが、同社縁起に猿田彦が出てくる以上、百嶋先生は、猿田彦は山幸彦=彦 火々出見=ニギハヤヒとしますので、先妻の異父男子と後妻との実娘と併せ四柱が祭神とされており、整合が認められることになります。
また、境内社の藤ケ森神社の別雷神も直ぐに贈)崇神天皇=ツヌガノアラシトと丸分かりですから、阿蘇草部吉見=海幸彦系にも配慮した配神とも見えるのです。
普通は、境内社を排除された本来の神と考える事が多いのですが、この場合、むしろ勝利者側(近畿大和朝廷)への水路を開いた崇神系が敗者とは思えないため、ここでは本来の神々が近畿大和朝廷から最も遠い僻陬の地で奇跡的に残されていたと考えたいのです。
まず、御湯神社とは数多くある温泉神社の類ではないかと思われる方も多いのではないかと思います。
事実、名湯岩井温泉があるのですからもっともであり、温泉神社の祭神を五十猛=山幸彦と理解している事から縁起の猿田彦とも繋がりそうです。
ただ、養父市大屋町の御井神社との繋がりを考える方がより分り易いため、その方向で仮説を進めて行きたいと考えています。
言う、行くは「イウ」「ユウ」、「イク」「ユク」とも読み(呼び)変えられます。
これは、母音が連続するのを回避するために子音の「Y」音が入れられたものですが、 どちらが古い形かと言えば、御井(ミイ)母音を重ねる方だと考えられそうです。その後、母音の重なりを嫌う民族、氏族の言語の支配力が高まり、御井(ミ イ)から御湯(ミユ)への変化が起こったものと考えます。
国指定史跡完全ガイドの解説いわいはいじとうあと【岩井廃寺塔跡】
鳥取県岩美郡岩美町岩井にある塔跡。蒲生川右岸の山裾に位置する白鳳(はくほう)期創建の廃寺塔跡である。旧岩井小学校の玄関前には巨大な凝灰岩製の心礎が残っており、地元の人たちはそれを「鬼の碗(わん)」と呼んでいる。これは三重塔の心礎で、長径3.64m、上面に1辺1.4mの正方形の柱座がつくられ、その中央に直径77.5cmの柱孔があり、柱孔の底には直径20cmの舎利孔がうがたれている。この大きさから、塔の高さは31mにもおよぶと推定される。また、付近からは蓮華文の軒丸瓦(のきまるがわら)と布目瓦が出土している。塔心礎を中心に塔跡が、1931年(昭和6)に国の史跡に指定された。1985年(昭和60)に発掘調査が行われ、伽藍(がらん)の配置などの詳細は不明だが、金堂と法起寺(ほっきじ)式伽藍配置の寺があったと考えられている。平安時代に当寺から移されたとされる木造薬師如来立像(重要文化財)が、岐阜県延算寺にある。JR山陰本線岩美駅から日交バス「岩井温泉」下車、徒歩約10分。
「コトバンク」による
鳥取県(伯耆、因幡)には、淀江、岩井など白鳳期とされる多くの廃寺が確認されていることから、九州年号の「白鳳」期には既に九州王朝がここまで進出し、版図としていた!と、考えています。
それを今に伝えるかのように城之崎温泉のある豊岡市には今津、養父市には朝倉、小佐(日佐)…といった北部九州の地名が大量に拾えるのです。
そもそも、この岩美町の隣の兵庫県新温泉町には、二日市温泉、七釜温泉、赤崎、前原神社、香椎神社と九州の地名や九州の地名を残した神社が拾えるのですから。
兵庫県養父市大屋町の御井神社
兵庫県の但馬地方に御井神社があります。
この但馬という地名も宗像大社の大字田島の地名移動であることは、まず、間違いないでしょう。
神額に式内「御井神社」と書かれています。ただ、この神社がある場所をお分かりになる方はまずいないのではないでしょうか。
兵庫県の日本海側、但馬の国は養父市大屋町という奥まった山村です。
この神社は旧養父郡内に相当数あり、大屋町という名の通り、中心的神社のようです。
この他にも、広く山陰一帯に美伊神社(余部)、御湯神社、(鳥取県岩井廃寺跡、岩井温泉)三井神社…といったものが分布しているのです。
さて、九州王朝論者にとって「御井」と聞いて頭に浮かぶのは、公開講座が行なわれている久留米大学御井キャンパスの「御井」であり、近江八景「三井の鐘」の三井寺ですが、この三井寺さえも高良大社の麓、天台宗の古刹御井寺が移動したのではないかと考えています。
九州王朝の近江遷都が取り沙汰される中、但馬の御井神社が九州王朝と全く関係がないとは考え難いように思えます。
そもそも、久留米市の目と鼻の先、佐賀県鳥栖市の中心部に養父町があり(明治には養父郡養父町)、現在でも旧三根、養父、基肄の三郡をもって成立した三養基郡が残っているのです。
そして、但馬が宗像大社の大字田島からの地名移動と分れば、志賀直哉の「城之崎にて」の城之崎温泉さえも、基山の一帯の人々の移動であり、それを支えたのが宗像の海人族ではなかったかと考えられるのです。
「ひぼろぎ逍遥」054 但馬の御井神社とは何か 以下をお読みください。
この但馬地方に北部九州の地名が確認できるという事と御井神社の存在を中心に、故百嶋由一郎氏は“九州王朝が滅んだ後、かなりの人々が対馬海流に乗って日本海沿岸を北上し但馬に入っている。
そして、それを援助したのが橘一族であった様だ…“といった話をされていました。
考えれば、船以外に大量の兵員、物資輸送ができなかった古代において、但馬から男鹿半島、十三湊…は、奈良、大阪からは、九州より遥かに遠い避退するには最適の領域だったはずなのです。
百嶋先生は、御井神社の事しか言われていませんでしたが、但馬の神社調査も頻繁に行われていた様で、多くの神社の祭神、摂社の配神からどのような氏族が入っているかを十分にお分かりだったようです。
当方も遅れ馳せながら、但馬に二つの若宮神社を発見し、高良玉垂命の御子を祀っているものと考えており、今後、調査を進めたいと考えています。
この九州王朝崩壊後の但馬以北への避退というテーマは、地名、言語、神社、廃寺…などを持って蘇らせることはある程度可能ではないかと考えています。
既に、「数年前に九州王朝は但馬に避退した!」というテーマで長文を書いては見たのですが、まだ、納得が行かないため、地名研究会のHPにも、また、「ひぼろぎ逍遥」、「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)の二本のブログとしてもオンエアしていません。
いずれ、整理した上で公開したいと考えています。
それまでの間、興味をお持ちの方、特に九州の方には、但馬と筑前、豊前、肥前の地名に多くの対応が認められることを検証されては如何でしょう。