292 北北東に進路を取れ! ⑫ 伯耆岩美から石見の石見へ、島根県太田市の物部神社
20160102
久留米地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久
石見は太田の物部神社と言えば、戦艦石見が頭に浮かんできます。正確に言えば、巡洋戦艦か一等戦艦と呼ぶべきかも知れません。
その手の話は当ブログの任務ではありませんが、物部神社の主祭神である宇摩志麻遅命(ウマシマジ)が、戦艦石見の艦橋に飾る?祀られていたからであり、関係なしとは言えないのです。
石見(いわみ)は、かつて大日本帝国海軍に所属した前弩級戦艦である。艦名は現島根県西部にあった日本の旧国名「石見国」に由来する。…
…本艦の前身はロシア帝国海軍のボロジノ級戦艦「オリョール(Орёл)」で、同国海軍の最新・最大の主力艦であった。バルチック艦隊の主力として日本海海戦に参加したが大破の末に降伏、日本海軍に鹵獲された。鹵獲時の本艦の浸水は酷く、日本海軍は1905年5月30日に舞鶴海軍工廠へ回航させて応急修理を行いつつ本艦を6月に一等戦艦「石見」と改名した。その後、7月末から1907年11月にかけて呉海軍工廠で本格的な大修理と戦訓に基づいた改装を行い、1908年11月に艦隊へ編入させた艦である。
ボロジノ級戦艦の3番艦として起工され竣工後すぐに第2太平洋艦隊(日本側の通称ではバルチック艦隊)に編入される。日本海海戦に参戦し1905年5月28日に大破状態で降伏した。他の鹵獲艦は佐世保港に回航されるが、損傷の激しい本艦のみが舞鶴港に回航され応急修理が施されることになった。6月6日付けで日本艦隊に編入され、「石見」と命名し一等戦艦に類別されたが12月12日には等級が廃止され戦艦となった。本艦の守護神として島根県大田市にある物部神社 (大田市)から宇摩志麻遅命の神像が奉られていた。この神像は後に物部神社へ奉納された。
「ウィキペディア」20160102 23:00 による
冒頭から話が横道にそれましたが、今回は島根県太田市の物部神社のお話です。
実は、頻繁に山陰に入っていながら、いつでも行けるとばかりに前を通過するだけで、参拝した事がない神社でした。
今回、帰路でも帰り着くだけという開放感から、多少重苦しいテーマである物部神社に足を向ける事にしました。
重苦しいと書いた理由は、まだ、物部氏の実体がつかめていないからなのです。
勿論、物部氏とは多くの民族、氏族の融合体による職能集団の総称であり、この物部神社も必ずしも全体ではなく、一部だと思えるのです。
スサノウ系、ニギハヤヒ系、阿蘇系、橘氏、紀氏、では、大国主系はどうなのか?
もしかしたら大幡主、ヤタガラス系もあり得ない話でもないのです。
御祭神宇摩志麻遅命は、物部氏の御祖神として知られております。御祭神の父神である饒速日命は十種神宝を奉じ、天磐舟に乗って大和国哮峯に天降り、御炊屋姫命を娶られ御祭神を生まれました。御祭神は父神の遺業を継いで国土開拓に尽くされました。
神武天皇御東遷のとき、忠誠を尽くされましたので天皇より神剣韴霊剣を賜りました。また、神武天皇御即位のとき、御祭神は五十串を樹て、韴霊剣・十種神宝を奉斎して天皇のために鎮魂宝寿を祈願されました。(鎮魂祭の起源)
その後、御祭神は天香具山命と共に物部の兵を卒いて尾張・美濃・越国を平定され、天香具山命は新潟県の弥彦神社に鎮座されました。御祭神はさらに播磨・丹波を経て石見国に入り、都留夫・忍原・於爾・曽保里の兇賊を平定し、厳瓮を据え、天神を奉斎され(一瓶社の起源)、安の国(安濃郡名の起源)とされました。
次いで、御祭神は鶴に乗り鶴降山に降りられ国見をして、八百山が大和の天香具山ににていることから、この八百山の麓に宮居を築かれました。(折居田の起源)
同社HPによる