スポット033 百嶋神社考古学(神代史)研究会の設立を!
20160510
久留米地名研究会(神代史研究班)古川 清久
日本の歴史学会、古代史学会、考古学会が単なる御用学でしかないという事実を知れば、九州王朝論者が多数派になることなどは決してありえないでしょう。
しかし書店を見ると、そこに並ぶ古代史本の大半は、最低でも邪馬台国九州説であり、九州王朝論に立つものが多数派であることは疑いようのない事実であり、この傾向はネット上の趨勢とも対応しています。
NHKが畿内と九州をさも平等に扱っているかのように装い「邪馬台国は永遠の謎ですね!」などと歯の浮いたような嘘まみれの締めくくりをしようとすると、並行して行われたTVのdボタンによる視聴者参加・投票を行なうと、九州と考えている人が9割になるといった現象が存在し、在野では九州説が圧倒的多数派であることが分かります。
それは、戦後史学に切り込んだ故古田武彦の初期三部作、中期三部作を筆頭に、それに連動する民間研究がかなりのところまで浸透したことが反映されているように見えるのです。
それは、ミネルヴァ書房から出された古田全集とも言うべきものが万単位のベスト・セラーとなったことに象徴されているでしょう。
ところが、これらを荷った九州王朝論の立場にある古代史研究者も「古事記」「日本書紀」(外にはないんだから…と通説派の用意した土俵でドン・キホーテ宜 しく素振りを始めるしかないのです)を基礎に九州王朝論の立場から解読し、なんとか整合性を求めようとする方々が大半なのです。
このような中、人生の全てを神社研究に投入した九州王朝論者の百嶋由一郎氏の言説は衝撃的でした。
これは、古田武彦の「『邪馬台国』はなかった」「失われた九州王朝」…の登場の衝撃に匹敵するものでした。
この65年間に亘る百嶋研究を僅かでも引き継ぐことが出来たことは幸運でした。
「書記はチョコットは正しいことを書いているが…」「古事記の95%は嘘です」…
歴代天皇の中には多くの臣下が格上げされ取り込まれ(これは藤原氏が権力維持のために配下の氏族を取り込もうと捏造したもの)縦長に付けたし挿入し引き延ばされているのであって、それをコンピュータ解析と称して(当時の郷土史家はコンピュータと聞いただけで神にでも遭遇したように考える方ばかりだっただけの事ですが)天皇の平均在位年を空想し何とか整合性を追求する芸当(軽業)まで登場するに至って、氏は「京都の方で法螺を吹いていらっしゃる先生…」とのお話はさらに刺激的なものでした。
最低でも欠史8代(これも良いとこ取りして何故か初代神武は実在としようとしているのですから恣意性は明らかですが…)、分かり易く、初代神武から第10代崇神までの10人は全て実在なのですが、そのうち九州王朝の王統は、神武、懿徳、孝霊、孝元、開化(高良玉垂命)であり、これ以外の第2代綏靖以下、開化天皇の臣下でしかなかった崇神など5代は、民族も、氏族も異なる臣下を挿入したものとした百嶋神社考古学は、漢籍を読みこなし、中国語を操り、中国大陸で400回飛行機に乗ったというフィールド・ワークから全国での徹底した神社調査によって九州の…という意味は列島の古代史像を浮き上がらせられていたのでした。
そのベースとなっていたのは、久留米の高良大社に奇跡的に残された「高良玉垂宮神秘書」(次ページに一部を掲載)であり、これに基づいて九州の古代史(と言うことは列島倭国の古代史)を描かれたのでした。
ここでお考えいただきたいと思います。
百嶋由一郎氏は自信を持って記紀の9割り方は嘘と明言されていました。
これ以外にも、「神武東征の神武は初代ではなく神武僭称第10代崇神天皇の事績で、初代神武は全国巡行を西回りで行っている。」
「16代仁徳天皇(「高良玉垂宮神秘書」では第17代とするこれは福岡県下の天皇の代数が一つ増えてることと対応し、神功皇后が天皇とされた可能性を示唆している)が九州王朝系の事実上最後の天皇(若宮神社の祭神)。」
一旦このような世界を知れば、九州王朝論者の研究に於いても「記」「紀」を金科玉条の如く聖典として崇め拝跪し描かれた内容の大半が、所詮は藤原不比等の 仕組んだ罠(近畿大和に帰着するブラック・ホール)に始めから落ちていることになり、半ば、不比等の手のひらで踊らされていることになるのです。
既に、古田武彦氏の人生を掛けた研究を踏まえ、現在、九州王朝論者でも孤高を守り抜いた佃収氏が古田武彦を凌駕する研究で最先端を走り続けておられます が、この事実を全く知らず、古田全集で満足されている九州王朝論者が非常に多く、やはり古代史の世界でも視野の狭窄を感じざるを得ません。
やはり、天才とは市井に埋もれ表舞台には立てないものなのかも知れません。
さて、ここまで分かってくると、近畿大和に邪馬台国が存在したなどとするアクロバットにも似たお伽話=デマは言うまでもなく、崇神の東征を神武の東征と考えた東遷説を含め、九州王朝論者にしても同時代に九州王朝系の傍系分派の畿内進出として描いているのですから、8世紀初頭まで存在した九州王朝本体を描き出したものの、崇神の畿内進出を九州王朝の高良玉垂命・神功皇后(皇宮皇后)の臣下による拡大とは考えられなかったのです。
そして、百嶋神社考古学では、その後、仁徳による二度に亘る九州王朝東遷が行われるのですが、その後の展開は百嶋先生があの世に持っていかれ未だ謎に包まれているのです。
既に、考古学、は考古学協会に体現される利権集団によって関西系公共工事の下請けと堕落し事業費の大半を畿内で消費することを目的に、邪馬台国九州説、九州王朝説を排斥し真実に蓋をしてしまっています。
戦後、歴史研究のもう一つの柱とされた文献史学も九州のフィールドを無視し「記」「紀」を拝跪する構造では将来的展望は全く閉ざされています。
久留米地名研究会は、地名研究を看板としていましたが、それは表向きで、実質、九州王朝論の立場からの古代史の研究会でした。
しかし、これまでの事を理解するならば、次のステップ、次の研究に踏み出さない限り展望は一切開かれない状況に陥っているのです。
百嶋講演を久留米、太宰府、菊池…で開始した当時、かく言う私自身、百嶋氏の話があまりにも荒唐無稽に思え重要性は感じたものの補足的な取り扱いに留め、従来の九州王朝論の立場からの古代史研究に追われていたのが実情でした。
しかし、その間にも、百嶋研究の重要さを感じていた熱心な研究者が育っていたようで、百嶋神社考古学勉強会には、現在最も熱心に神社を調べようとする意欲と力量を付けて来た最良の人々が集結しつつあるようです。
古代の九州は間違いなく列島の歴史の中心地でした。
そのため、現在もまだまだ調べる価値のある神社、神社伝承、文書が残されています。
戦後、無視され放置されたが故に手つかずで残されている神社研究こそが、九州の、ひいては列島の古代史を解き明かす鍵を持っているものと考えられます。
従って、重要な部分で覆い隠されている古代の九州を描き出すためには、百嶋研究を武器に切開して行く以外に方策はないと考えています。
三年前に行なおうとして実現できなかった宮地嶽神社に於ける百嶋神社考古学研究会を行いたい!実現したい。それに先行してネット上に百嶋神社考古学(神代史)研究所を設立し、ブログ単位で多くの神社研究者を終結させたいと考えています。賛同される方は09062983254まで。
純粋な研究目的で百嶋神社考古学に関する神代系譜、音声データ、手書き資料のスキャニング・データを必要とされる方は、同じく09062983254までご連絡ください(随時対応可能)。