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316 山岳修験の聖域彦山北宮の豊前坊再訪  “福岡県添田町高住神社“

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316 山岳修験の聖域彦山北宮の豊前坊再訪  福岡県添田町高住神社“

        20160408


久留米地名研究会(編集員) 古川 清久


まず、北部九州において彦山の説明は不要でしょうが、北宮となると多少説明が必要になるでしょう。

ケーブル・カーで参内できる彦山中宮は知られていますが、そこから北宮と考えるとどこにあるかの見当が着かなくなるのです。この北宮はあくまでも彦山山頂の上宮から見た北宮=豊前坊の意味なのです。

この豊前坊の出先が佐賀県杵島郡白石町(旧有明町)にも稲佐神社に隣接して存在しますが、全国の山岳修験の震源地がここであった考えています。


316-1

高住神社の主祭神は豊日別命といい、豊前と豊後の国を人格化させた神であるとされています。五穀豊穣、牛馬安全などの国造りの基盤となる農耕の神の一面を持ち、また一説では猿田彦神と同一神であるともされてい
316-2ます。
しかしこの主祭神以上に有名なのは、日本八大天狗の一人であり、九州の天狗の頭目とされる豊前坊天狗であり、この神社に祭神の一柱として祀られています。神社のある英彦山は九州随一の修験道の修行場であり、その関連から天狗の住む聖地とされたと考えられます。

東林寺天満宮神主ブログより


 英彦山と書いて、「ひこさん」と読み、天照大神の御子・天忍骨尊(日の御子)を祀る神社。昔は「彦山」のみを用いていたが、享保十四年(1729)、霊元法皇よ
316-3り、天下に抜きん出ている霊山として「英」の美称を許され、英彦山と書かれるようになった。創祀年代は不詳だが、一説に、継体天皇二十五年(531)、魏の国の僧善正が、山 中で修行中、猟師・藤原恒雄と遭い、殺生の罪を説き聞かせた。だが、恒雄は、その戒めを聞かず猟を続け、一頭の白鹿を射た。その時、3羽の鷹が出現し、鹿 に檜の葉に浸した水を与えると、鹿は蘇生して逃げ去った。その光景を見た恒雄は、鹿が神の化身であったと悟り、善正の弟子となって上宮三社を建立したとい う。その後、当社は衰退していた、弘仁十年(819)、法蓮が、ある日この山で、飛来した鷹の
316-4落とした羽に「日子を彦と改めよ」と記されているのを見、勅命を得て、当山を再興した。以後、西国修験道の拠点として、「嶺に三千人の仙人あり」と呼ばれるほどの霊場となったが、明治の神仏分離に際し修験道廃止となり、英彦山神社と改称。昭和五十年、英彦山神宮となった。

神紋は、「鷹の丸に二引」。開山説話や中興説話に登場する鷹が用いられているのだろうか。


英彦山神宮略誌 

御由緒

英彦山は、古来から神の山として信仰されていた霊山で、御祭神が天照大神の御子、天忍穂耳命であるところから「日の子の山」即ち「日子山」と呼ばれていました。
 嵯峨天皇の弘仁十年(八一九)詔により「日子」の二字を「彦」に改められ、次で、霊元法皇、享保十四年(一七二九)には、院宣により「英」の一字を賜り「英彦山」と改称され現在に至っています。
英彦山は、中世以降、神の信仰に仏教が習合され、修験道の道場「英彦山権現様」として栄えましたが、明治維新の神仏分離令により英彦山神社となり、昭和五十年六月二十四日、天皇陛下のお許しを得て、戦後、全国第三番目の「神宮」に改称され、英彦山神宮になっています。

御神徳

天照大神の御神勅により、この地に降臨された天忍穂耳命は、農業生産の守護神として、また鉱山・工場などの産業の守護神として崇敬されています。

敬愛する「玄松子」による


恐縮ながら、長々と引用を続けさせて頂きましたが、彦山中宮と北宮(高住社)の性格が把握できず、自問自答を繰り返し苦悶しています。


316-5

同社縁起


神紋はどちらも鷹丸に二引で足利尊氏が彦山を支配した時代の名残を残しています(?)。

彦山中宮は天忍穂耳(天忍骨尊)を主祭神としますが、一方の高住神社は上記のとおり五柱の神が祀られています。

勿論、百嶋神社考古学をご存知の方には、四柱目の「火須勢理命」=海幸彦=阿蘇高森の草部吉見神

であり、彦山大神宮中宮の天忍穂耳命と同一神である事はお分かりのはずです。

 従って高住神社の五柱の一神は中宮と対応している事になるのです。

 さらに掘り下げれば、豊日別大神は豊玉彦(博多の櫛田神社の大幡主=白日別の御子でありヤタガラス)であり、天照大神、天穂明命(山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦)、少名毘古那命の配神となっているのです。

 また、五柱の中央に「天穂明命」が配されており主祭神とも見えるため、東林寺天満宮神主ブログ氏が、また一説では猿田彦神と同一神であるともされています。」と書かれている事とも対応するように見えるのです。

 結局、海幸系(中宮)、山幸系(北宮)の対抗関係も認められそうですが、まだまだ謎解きは端緒に着いたところでしかありません。


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神殿は岩窟の奥深く納められているのでしょう


 今回一つだけ理解できたことは、岩窟の中に神殿を設ける事に気付いたことでした。

「玄松子」氏も、「魏の国の僧善正が、」…北魏僧・善正が開山の意味)と書かれていますが、熊野権現も北魏渡来ともされています。勿論、『彦山流記』によれば、彦山は「北魏」から震旦国の王子晋が彦山の磐窟に下り、四十九窟を開き金剛童子をおいたとします。四十九窟の痕跡は未確認ですが、中国敦煌莫高窟からのイメージが蘇り、豊前の耶馬渓を含め、シルクロードの石窟寺院様式の延長上に、鮮卑系の豊前の石窟様式を確認し納得したところです(ただし、それ以前にも草部の彦山は存在したはずです…)。

しかし、四~六世紀の北魏の時代に彦山が成立したとするのは大間違いで、北魏の影響は上から覆い被さって来たもので、既に海幸山幸の時代(百嶋神社考古学では二~三世紀)以前には何らかの勢力が教線を張っていただろうことは想像に難くないところです。


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※クリックで拡大表示されます


百嶋由一郎最終神代系譜(みたらし団子)高住神社の五神をご確認ください。少名毘古那命は大己貴の隣にあってもよさそうですが、何故か、百嶋神代系譜には登場しません。ただ、大幡主の影響下にあった人である事はこの配神からも多少は分かります。



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※クリックで拡大表示されます

百嶋由一郎手書きデータ 初期014ファイル(DVD)「善正善見」より


神紋の「鷹丸に二引」の「鷹羽」(高場、田川…)はシルクロード上空の天を遊弋する「鷹」をシンボルにしていることが見えてきました。

この辺りに来ると、百嶋先生の知識の奥深さに敬服せざるを得ません。

生前、「大学教授の話が幼稚園程度にしか見えない」と言われていた事が思い出されます。


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