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スポット 041(前) 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! ①

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スポット 041(前) 6.26 甘木朝倉「田神社探訪トレッキング」での驚愕すべき発見! ①

20160626


久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久


 6月末の集中豪雨の間隙を縫って、太宰府地名研究会、玄海地名研究会合同の神社トレッキングを行いました。

 梅雨の期間中のトレッキングは野外の環境から天候に左右される事が多く、実際に決行できるかどうかは直前まで分かりません。

 このため本気で案内する事も出来ず、大雨の中、傘を刺してでも参加しようという意志堅固な参加者がいれば良いと少人数を覚悟し取り組みました。

 それほど案内はしていませんでしたが、15人規模の「田神社探訪トレッキング」が始まりました。


以下は、その時配布したトレッキング用の資料です。

 基本的にはカーナビで廻れるように住所を明記し車での移動中に交差点などでグループが切断されたり、行方不明が出て逸れても目的地に到達できるようにしています。


ところが、ところが、同行の企画責任者であるN氏からの提案により二つの田神社が加えられたため、急遽、予定のコースを逸れて二つの田神社を加える事にしたのですが、筑前町、朝倉市の境界に近い大己貴神社(朝倉郡筑前町弥永6973)の傍にある田神社(天神社)で衝撃的な事実を知ることになったのです。これは、その伏線になりますので、そのつもりで読んで下さい。

 しかし、その前に新たに分かってきた事実を先行してお伝えする事にします。

 次にご覧に入れるのは現段階での、7月用のチラシであり、トレッキング資料です。

 遠方の方にはどのような場所か見当が付かないと思いますので、付近の地図を出しておきます。



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田神社の祭神である大幡主+大山祇の第二世代(子)が大国主命であり、その本拠地がここなのです

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sp41-4鹿児島限定と考えられている田神様(タノカンサー)については、これまでにも ひぼろぎ逍遥(跡宮)として、083タノカンサーの正体とは何か?“甘木公園の田神様(タノカンサー)福岡県朝倉市甘木から”217 甘木に二つ目のタノカンサーを発見した!(共通掲載)として書いていますが、二つ目、三つ目の田神社を発見したことから、今回改めて「福岡県神社誌」上中下を調べてみると驚愕すべき事実に直面したのでした。


sp41-5ざっと目を通しただけの荒いカウントですからその範囲で理解して頂きたいのですが、「田神社」として幟を揚げた神社は甘木インター南の朝倉市甘木草水に一社(旧村社)が存在しているだけなのですが、愕くことに、無格社として朝倉郡を中心に同郡だけでも40社近くが拾えたのでした。

今回はこのリストを公開する紙面がありませんので村社として掲載されている一社を紹介するだけに留めますが、これを基礎資料として今後の調査を考えたいと思っています。

鹿児島のタノカンサーが甘木朝倉になどあるはずがない!とお思いの方は多いと思いますが、詳しくは、blogひぼろぎ逍遥(跡宮)のバックナンバーをお読み頂くとして、百嶋由一郎先生は“「田神様」(タノカンサー)は大幡主と大山秖の二神による擬神体を成していた”と言われ
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ていました。

今回、朝倉郡だけでも40社近い無格社を発見した事によってその実体がある程度掴めた事にはなるのですが、その先にどう考えても隠されている(九州王朝の発展期に於ける南九州経営の事績か?)のではないかという新たな謎が浮上してきたのでした。

朝倉市甘木草水の村社は、表向きには「菅原神」を主神としているようですが、社名が「田神社」、境内社として五穀神社(埴安命)とあります。このため、元は主神として田神社(埴安命)が祀られていたことが丸分かりになっています。

大幡主の妹は埴安姫ですから、埴安命とは大幡主以外は考えようがありません。

ここでも故)百嶋由一郎氏の説の正しさが証明されつつあるようです。

九州の現場には、まだまだこのような驚愕すべき事実が痕跡を留めているのです。

藤原が捏造した「古事記」「日本書紀」をそのまま鵜呑みにする方々には決して見えてこない事実です。

文献、フィールド、考古学、神社、海外史書…とバランスの取れた研究が必要であることが分かります。

中でも戦前の反省とかから徹底して無視されているのが神社研究なのです。


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百嶋神社考古学勉強会、太宰府、玄海合同地名研究会のスケジュールについてはblog「ひぼろぎ逍遥」に公開します。




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sp41-11右は朝倉市甘木公園の金毘羅宮参道に鎮座する田神社です。これが一社だけなら見過ごすのですが、実は朝倉市小隈の原田八幡宮にも同様の田神社が確認できるのです。故)百嶋先生は南九州のタノカンサーは、博多の櫛田神社の大幡主と大山祇の二柱の神が田の神様の正体とされていました。

その実体の確認が今回のテーマです。併せて、佐田大神こと大山咋神の安心院からの転勤地である朝倉市佐田町の高木神社の摂社に「瀛津比売」の表記が確認できますので皆  で確認しましょう。ここにも忌部、卜部、役の人々が住み着いていたのです。


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南九州のタノカンサーは甘木、朝倉の田神様

(実は博多の大幡主と大山祇命)が起源!


 原田八幡宮(朝倉市小隈560or648?


同社は、嘉麻市大隈に対応するような印象を与える小隈集落に鎮座する八幡宮です。

表面上は宇佐八幡宮が幅を利かせるようになる鎌倉以降(1200年~)の八幡宮と考えられますが、その基層には別の神様がおられるようです。付近には平塚川添遺跡がある事から、この重要な遺跡に関与するする集落であることは容易に想像が付きます。付近には古墳もあります。

ネットには何も出て来ません。当方のリポートがそのうち出てくる程度で、あまり注目されていない神社であることは分かります。だからこそ田神社が残されているのかも知れません。

「福岡県神社誌」によれば、祭神は神功皇后、応神天皇、武内大臣とあり、田神様の片鱗もありません。

それどころか、境内社摂社としても三柱神社(イザナギ、天忍穂耳尊、イザナミ)、高木神社(高皇産霊尊)、菅原神社(菅原神)とあり、田神様の痕跡は全く拾えないのです。

にも拘らず、ここには田神様が祀られているということはどういう事でしょうか?

一つの可能性として、圃場整備の際に合祀された可能性ですが、社を構えた移転も一般的には考えにくいことから、田神様の信仰圏の存在は否定できないように思えます。

そして、思わぬことに三つ目の田神様が、追加で入れた松尾神社がそれであったことが分かってきたのです。


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