スポット046 糸島市の桜井神社とは如何なる神社なのか? ② “アマネセールの岩戸神事“ 実見
20160703
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
桜井神社は十年ほど前に一度参拝したことがあるのですが、7月2日の早朝(4:00~)に岩戸神事が行われるからと誘われ、実質的には初見の神社と言える桜井に熊本を中心に二十名ほどで訪問する事にしました。
これは土曜日の朝まだきから夜明けに掛けての実見リポートという事になります。
現地集合のため、熊本市を12時半に出発し午前3時には着いていましたので神事が始まるには、まだ、十分な余裕がありました。
下の写真は神事が終わった後の夜が明け始めた時間帯ですが、真っ暗な中で、既に百人近い人が集まっていたのです。
なぜか、若い女性の参拝客が非常に多く、ハイヒールにボディコン・スーツといういでたちの方から明らかに何らかの小教団といったグループも居られ面食らってしまいます。
正直申し上げて、桜井神社の天の岩戸神事とは一体何なのか全く分かりませんでした。
天照大神、豊受大神が一段と高い桜井大神宮に祀られている事から、天照もいれば、明治期に縣社昇格のために周辺の神社をまとめた8社 の中に熊野神社もあることから、天の岩戸隠れの現場とも考えたのですが(言うまでもなく宮崎、鹿児島の神話は明治期に島津により捏造されたインチキ神話で すからと百嶋先生も言われていましたので…)、百聞は一見に若かずの謂いのとおり、神事が始まり神殿内に入ると、直ぐに、岩戸神社とは大型の古墳の玄室で あることが分かりました。
縁起を含む多くの掲示板があったことから見落としていたのですが、神事が終わって正面駐車場に正面の掲示板を見ると古墳である事も書かれていました。
古墳を開帳し一般人も含め参拝させると言う事は宮地嶽神社の巨大玄室でも行われている事であり違和感はないのですが、1610(江戸幕府成立十年後の不安定な時期)年に古墳の入口が開いたと言うのも奇妙な話で、実際には黒田が自らのルーツ探しでもしたのではないかとも考えてしまいます。
桜井神社の岩戸神事が始まると、宮司から氏子に至るまでが岩戸(古墳)の前に正座し、暫くすると、暗闇の中で犬吠えが始まり、動座、遷座の儀式(祀り)が行われ、御霊が移されたのではないかと思います。
そして、榊を奉納(千円以上)した方々が入れ替わり立ち代わり岩戸の中に入って行かれます。
私達二十名ほどもかなり早い方で、岩戸の中に入らせて頂きました。非常に天井の高いことから熊本県氷川町の大野窟古墳を思い出してしまいましたが、古墳、発掘考古学に関する知識はほとんどないに等しいことからこれは真に受けないで下さい。
ただ、元々は淀姫神社であり、その代表例である佐賀大和インターからも近い、佐賀市の淀姫神社=河上神社の祭神を「佐賀県神社誌」で見れば、興止日女神+大明神の二柱とされています。
これについては、百嶋最終神代系譜でも淀姫の兄である逆賊河上 猛(ヤマトオグナの熊襲退治の河上タケル)とされており、熊襲を思わせる古墳の在り様はあながち間違いでも無いように思えるのです。
話が重複しますが、「福岡県神社誌」でも「…加之肥前藩よりの奉賽者非常に多く現今も佐賀縣方面よりの参詣尚多し。…」とあり、もしかしたら、熊襲タケルの御霊、後裔の御霊が祀られていた可能性がないとは言えないように思います。
「熊襲タケルは殺された事になっていますが、実際には佐賀県神埼市広滝で許され、その一族は福岡市早良区西陣に移動されています…」云々と百嶋先生も話されており、ドキュメントも残されています。
神事が終わり、参拝殿の反対側小丘に鎮座する桜井大神宮に向かいました。
桜井大神宮 祭神:天照大御神(内宮)、豊受大神(外宮)
桜井神社の祭神は主祭神の神直日、大直日と八十枉津日神ですが、境内には岩戸神社と桜井神社があり、末社扱いの数社とは別に摂社として桜井大神宮 祭神:天照大御神(内宮)豊受大神(外宮)があるとされています。
と、言うことは、この二つの宮こそ伊勢の内宮、外宮の元宮であると考えられそうです。
また、この北側には伊勢の二見より大きな二見があり、この白い大鳥居と結んだ線が、この大神宮に乗ると言う話もあるのですが、実際に線を結ぶとどうも線は乗らず、天ケ岳山頂に向けられているようです。
当然にも、有名な天の橋立の籠神社、大江山皇大神宮、伊勢内宮、下宮の元宮だからこそ、二見があるのです。
以下に前回ブログの一部を再掲しています。
現在、神直日、大直日と八十枉津日神、天神地祗…を祀る神社とされています。
まず、「福岡県神社誌」中73~75pには、「加之肥前藩よりの(恐らく佐賀川上の淀姫神社~/古川)奉賽者非常に多く現今(昭和19年当時/古川)も佐賀縣方面よりの参詣尚多し」「今を距る事三百十有余年、後水尾天皇の御宇寛永六年工を起し同九年に竣工せしものにして是即現在櫻井神社の建物なり。神位一位社号を與土姫大明神と崇称せしも明治二年櫻井神社と改称せり」とあるように、元は佐賀県の淀姫神社(川上の淀姫、三瀬村無津呂の淀姫外肥前国外に十数社)が筆頭社として含まれていた事が分かります。
ここにも、三重県の伊勢と同様に猿田彦神社がありました。
草部吉見=海幸彦と別れた伊勢外宮様=辛国息長大姫大目命は猿田彦=山幸彦=ニギハヤヒと生涯添い遂げます。このため、桜井神社の傍にひっそりと、分離して物部の中心である山幸が隠されているのです。
ただ、現在の配神を見る限り、境内社、摂社、末社にも淀姫の片鱗もなく、今は、この系統の神々(淀姫=豊姫、川上猛)が消されている事が分かります。
驚かれたでしょうが、百嶋神社考古学 では、淀姫(豊姫)は逆賊河上タケルの妹としますので(これが明治期の県社昇格に絡んで消された理由と考えられそうです)この兄妹の父親は表筒男命=ウガ ヤフキアエズであることから、住吉三神の一神(表筒男命)として僅かに痕跡を留めているようです。
恐らく、この神社の基層には先行して 末社扱いとなっている須賀神社の信仰圏があり、その上に、境内神社扱いとなっている岩戸神社(大綿積神)が、次に、春日神社(健御雷之男神、天児屋根 命…)が、次に金毘羅神社が、最期に、黒田によって武内宿祢系統が被せられていったものと思われます。勿論、誰もが祀られている事から完全に消された淀 姫、河上猛系統は別として、多くの権力の交代によって、実際には誰が祀られているのかが見えなくなっているようです。
ただ、昭和63年現在でも主祭神は神直日神、大直日神とされていることから、これが如何なる神であるかが分からなければ、最も重要である桜井神社の基本的な性格は見えないことになります。
百嶋由一郎最終神代系譜
詳しくは「福岡県神社誌」を読まれるとして、この神社の性格を考える上では、黒田入府以後の武内宿祢以下…は除外して良いでしょう。重要なのは明治二年までは筆頭社が淀姫神社と呼ばれていた事です。
従って、江戸時代までは“大和朝廷に逆らったとされる逆賊河上猛の妹で安曇磯良(表筒男命)の夫である淀姫”を祀る事も許されていたという大らかさが見えるのです。
この安曇磯良の父はウガヤフキアエズであり、そのまた父が山幸彦(ニギハヤヒ)であることを考えると、明治以後、何故か山幸系が排除されている事が見て取れるのです。
淀姫の夫であった表筒男命の父であるウガヤフキアエズのお妃こそが同社の主祭神である「神直日」(実は鴨玉依姫)という事になるのです(淀姫の義理の母親)。
ただ、鴨玉依姫は、後に草部吉見神と宗像の市杵島姫との間に産まれた大山咋(阿蘇国造=速甕玉命)松尾大神=日吉神社=日枝山王権現を大恋愛の後次の夫とします。
この大山咋神(出雲佐田大社の佐田大神)こそがもう一人の主祭神とされる「大直日」になるのです。
ここまで見てくると、海幸系と山幸系の対抗関係まで浮き上がってくるのですが、この事については糸島半島に関わる非常に面白い神事が絡んでいる事から、関心をお持ちの方は、ひぼろぎ逍遥 152ヒョウカリイライ “福岡市西区 西浦(ニシノウラ)の白木神社”の「馮河黎来」をお読み頂きたいと思います。
また、“淀姫(佐賀市大和町川上)が逆賊川上猛の妹などという話は初めて聞いた”という方は、長文になりますが久留米地名研究会のHPから31「淀姫」をお読み頂きたいと思います。
糸島半島では、今も幾つかの神社で、馮河黎来(ヒョウカリイライ)の掛け声のもと、山幸彦(ニギハヤヒ=伊都の長官 爾支/ニキ)側の氏子から、海幸彦(阿蘇草部吉見)側を非難する神事が続けられています。
両者のお妃であった鴨玉依姫の神霊を争う「玉競り」ですが、この半島からの玄関のような地は、神代の実力者同士(海幸、山幸)の確執があった領域と考えられるのです。
そのことからも、両者の勢力は拮抗しており、その均衡の上に表看板を淀姫神社として山幸側の顔を立て、実体としては海幸系に寄った大山咋、鴨玉依の二神としていたバランス感覚も読み取れるのですが、神社誌を読む限りは、どの段階で昭和63年当時の祭神が成立していたのかは不明です。ただ、淀姫神社を筆頭とし、西宮神社、久保神社、谷熊野神社、末松神社、木浦神社、熊野神社、天満宮の8社の合祀集合により縣社桜井神社が成立した事が分かります。県社設立のために8つの神社の神事、祭事が持ち込まれ、結果的には分からなくなっていますが、その何れかに天岩戸神事が続けられていたのだと考えられそうです。
なお、百嶋神社考古学の神髄である講演録音声CD、手書きデータDVDが必要な方は09062983254まで。