193 天ケ瀬温泉五馬高原研修所周辺の遺跡
20150330
久留米地名研究会 古川 清久
地名研究会の研修所の準備を含め多大なご協力、ご寄附を頂いた福岡県田川郡在住メンバーのN氏は、簡単に言えば、所謂、古墳マニアですが、現在、郡内にある未確認の巨大古墳を何とか確認したいとの思いで計画を進めておられます。
そのN氏が来られたため、しばらくはブログを書いていたのですが、五馬高原の古墳を確認しようと思い立ち、午後二時から外に出ることにしました。
彼が確認したかったのは、五馬高原でも南側の出口地区にある小丘でした。以前、車で熊本県の菊池方面に移動中に、彼が「あれは古墳じゃないか…」と叫んだものでした。
自分としては、一応、旧「天ケ瀬町誌」で粗方の遺跡については目を通していた事から、“ここにはそんなものはないはずだ…”との先入観があり、その時はいい加減な対応をしていたのですが、今回は実際に足を運んでの実見となったものです。
現地は、「今時…?」との思いのする農林省所管の中山間ほ場整備事業が始められており、「消滅して行く集落のお百姓さんに借金だけを残す事にしかならないものを…」と考えを深めましたが、そんなことはともかくとして、その工事でむき出しになった石の並びを見て、彼は古墳の葺き石ではないかと考えたのでした。
私には只の法面の保護用の積石にしか見えなかったのですが、彼の眼にはそう映らなかったのでしょう。
現地は、文化財に指定された茅葺の印象的な社殿を持つ老松神社の正面にある小丘であり、その頂上には小さな祠が置かれ、付近には数基の墓も並んでいるところです。
N氏が言うところの古墳の条件、神社、墓、祠、集落の要地、玄室用の石材の痕跡、築成の跡…と条件は揃っているのでした。
やはり現地は踏むべきです、登ってみればなんでもなかったのです。
旧「天ケ瀬町誌」には記載されてはいなかったものの(その時は気付いていないので)、史跡「幡磨塚古墳」との表示があったのです。また、この標柱には、「付近一帯、土器、石器の散在地にして中国遺跡と称す」(中国遺跡とは現地の云いか?)と書かれ、出土物や状況から察して古墳だったのでした。
まさに、たくさんの古墳を日常的に見ているという感性、観察眼の鋭さには正直感心したところです。
私は、現在の考古学会のいい加減さや利権構造に対する嫌悪感が先に立ち、穴堀考古学に対しては全く信頼を置いてない以上に、侮蔑の方が先行しているのですが、彼はグーグル・アースを駆使して、古墳を空から発見し、現地を踏むという作業を繰り返して来たのでした。
まさに、そのような観察経験によって鍛えられた眼こそが、現場では一番役に立つ事を知らされたのでした。
会には、吉田宮司、伊藤女史、荒川事務局長、内倉顧問…と穴掘り考古学に詳しい人が多いのですが、また、別の側面から穴掘り考古学にアプローチするメンバーが新たに加わった思いがしています。
現地には多くの石が残されており、玄室を構成していた石材だった事を思わせますし、一部は石棺の蓋だったようなものも認められ、崩壊した古墳もしくは破壊された古墳であっただろうことは確実だったのです。
直ぐそばにある古社老松神社
この遺跡が古墳だったとして、直ぐそばにある古社老松神社を考えれば、この神社を奉際していた氏族こそが、この「幡磨塚古墳」の被葬者の一族であったと考えられます。
と、ここまで書いて、再度、旧「天ケ瀬町誌」を読みなおすと、ほんの僅かですが記載されていました。
どうやら読み飛ばしていたようでした。
二 古墳時代の天瀬地区 として、「一方、播磨塚は、径一五㍍余。マウンド上に石棺の残欠とみられる石があり、立地上からも古墳の可能性が考えられるものであるが、断定するには少し精査を要するものである。」とだけ記載されていました(102p)。
なお、この未確認の古墳の所在地の小字は大字出口字播磨園とされています。
播磨は直ぐに兵庫県と思いがちですが、筑紫野市の針摺(ハリスリ)との関連も念頭に置くべきでしょう。
摺るとは磨く事と同義であり、古代の針摺の人々が播磨に移動したと考えていますので、どうしてもそのような観念が抜けず、この地はもしかしたら中継地だったのではないかと考えてしまうのです。
老松神社を奉祭する氏族は、普通は菅公の一族とするものですが、百嶋神社考古学では、菅公はナガスネヒコ系と大幡主→豊国主(ヤタガラス)系との政略結婚の氏族である事から、そのどちらの氏族が老松神社の主力であったのかがまだ不明です。
老松神社の本殿には三体の男神が祀られており、一応、菅公が祀られているとすると残りの二体は誰なのでしょうか?
境内に残された摂社と思われるものには奇妙な神紋が残されています。
藤原一族の危機に際して道真の祟りを恐れ全国に天満宮を祀った際に排除された菅公の祖先神と見たいのですが、この話はもう少し調べてまた別の機会にしたいと思います。
「金」は金山彦でしょうか?それとも阿蘇の金凝彦でしょうか(付近には金凝事神社があります)?
神紋は奇妙です。
右半分は一見菊紋のようですが、ひまわり(ユダヤか?)かも知れません。左半分は三五の桐で神功皇后の神紋の様です。
この神紋の意味は全く不明です。お分かりの方はぜひご教授ください(09062983254まで)。
今後とも付近の散策も続けます。