extra006 宇佐神宮とは何か? ⑥ “御許山の大元神社とは何か?”
「ひぼろぎ逍遥」「ひぼろぎ逍遥」(跡宮)奥の院 共通掲載
20150406
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
宇佐神宮に、「大元神社遥拝所」があることはご存じでしょう。
大元神社は上宮東の御許山にあり、奥宮とも言われますが、祭神は比売大神三柱であり比売大神が降臨された神山とされています。
また、御許山山頂には磐座があり、禁足地となっています。
私も一度試みて撤退していますが、神社考古学研究班のある女性のメンバーが、勇ましくも、たった一人で探索してきたと凄い事を言っていました。
これが何であるかは全く見当が付かないのですが、一般には原始信仰の場であるとか、百済系の神が祀られているとか、三女神の降臨地であるとか色々な説が飛び交っています。
日本書紀巻は、原始、宇佐のこの地に祀られていたのは三柱の女神であったと云いたいのであろう。 御許山(大元山)の磐座は石の三柱である。この磐座信仰が原始宇佐の信仰であった。現在も大切にされている。 基本は御許山を水源とあがめる水神ではなかろうか。菱形池には霊泉と水分神が鎮座している。
興隆
宇佐神宮の由緒書きにも「宇佐の地方神であった八幡神が八世紀には朝廷と結びつき、国家神にまでになったと記されている様に、突如として躍り出た神であ る。 これは祭祀に関わった大神、辛嶋、宇佐氏の内渡来系とされる大神、辛嶋両氏のいち早い仏教との繋がりが奏功しているようだ。 加えて、九州南部の平定、大仏の造営に大きい寄与を果たした事によるものである。
聖 武天皇が大仏建立を決断しかねている時、宇佐八幡は託宣を下し、天神地祇を率い誘いて建立を成就せしめるであろうと、神々の先頭に立ったのである。 宇佐の地方神から南九州制圧で徐々に重きを持ってきたであろうが、多くの神々の先頭に立てたのは、仏教に帰依した最初の神であり、各神社も迷っていた事が あったからであろう。 迷いのないものは強いのである。それこ加えて香春の銅と鋳造技術の提供と云う現実的手段を持ち合わせていたのがこの宇佐神宮であった。大神氏は赤染氏を押 さえていたようである。 伊勢神宮と云えども銅を産するすべはなかった。
敬愛するHP「神奈備」より
玄松子のブログ
2012年10月29日・ 大元神社 (大分県宇佐市)=宇佐神宮の奥宮で三柱の比賣大神が降臨された神山に鎮座 http://t.co/wO4SXVWg
宇佐神宮の南東4Kmほどのところにある御許山山頂にある。JR西屋敷駅から林道が山頂まで続く。車でも登れるようだが、未舗装であり、林業の作業車が通れば、離合は難しい。よって、麓から5Kmの道を歩いた。
敬愛するblog「玄松子」より
さすがの「神奈備」「玄松子」両氏によっても判然としないのですが、一つの鍵を発見しました。
この御許山は「大元山」と言い、神代に三柱の比賣大神が降臨された神山で山頂には御神体とされる三体の巨石があるとされています。
また、御許山は別名「馬城峰」(マキボン)と呼ばれている事です。
マキボンと呼ばれている事を知ると、それが、温祚系(兄)ではない沸流(弟)系の扶余=温祚系百済の百済における王都が目支(国)マキ国と呼ばれていることを知ったからです。
この「目支」は纏向遺跡の「纏」「牧」「巻」…とも置き換えられますが、これに気付くと、大元神社の実体が沸流(弟)系百済の奉祭する、扶余系の祭祀であることが分かってくるのです。
その百済系渡来民の存在を示す大元神社と天皇家がどう繋がるのかは、今後のテーマになるのですが(敬愛する鬼塚英昭氏が言うように挿げ替えられた明治天皇が百済系の隠し玉の大室寅之祐なら分かり易いのですが、ここでは八世紀に始った天皇家の話です)、その入口として、一九一四年生まれで韓国国立公州大学客演でもあった故渡辺光敏氏の宇佐神宮に関する説の一部を「古代天皇渡来史」から紹介します。
同氏は朝鮮語、中国語にとどまらず、南方系の言語にも精通し、古代史研究者の中でも取分け際立った異彩を放っています。
氏は近畿天皇家が百済であるとはっきり言い切っておられ、 これからも分かるように権力に尾を振る御用学者などでは全くありません。まだ良く分からないのですが、御許山(オモトヤマ)にこそ、宇佐神宮最大の秘密= 日本古代史最大の秘密があると考えるのは、和気清麻呂が、何故、伊勢神宮ではなく、わざわざ九州の片田舎でしかない宇佐に御託宣を仰ぎに来たのかを解明で きない限り、古代史の解明は全くできないと考えるのです。
さらに言えば、百済と現天皇家が直結(九州王朝への接ぎ木)しているからではないかと考えているのです。今のところ宇佐神宮については故百嶋先生の説を軸に通説とは別の考えを持っていますが、当方も当惑しており見当が付かないでいます。
ただ、大元神社については、宇佐神宮の元宮ではなく近畿大和朝廷成立(七世紀)より前に九州の王権内で有力となった百済系傍系氏族の降臨伝承地との考えを持っています。とりあえず、ここでは、敬愛する渡辺光敏氏の説をご紹介しておきます。
大元神社(オオモト)は宇佐神宮の元宮ともされ、650メー トルほどの御許山(おもとさん)の頂上近くにあり、「大元山」「馬城峰」(マキボン)ともされる比売大神が降臨した神山です。山頂には御神体としての三体 の巨石があると言われています。ただ、大元神社から上は禁足地であり容易には確認出来ません。今のところ、現地を踏んでいないこともあり、韓国国立公州大 学校客員で「古代天皇渡来史」「天皇とは」ほか十冊近い研究書を残した渡辺光敏氏の説を追っています。
渡辺氏は「宇佐神宮で大元山が聖山になっているように天皇家ゆかりの三廟は岩座が神体であるから石上では神社はなく拝殿だけで、高庭の後ろには二つ山(二上山)があって、それはノインウラの絵に同じと言える。」としています。
読まれていない方には全くお分かりにならないと思うのですが、氏は温祚ウンジョ(弟)系と二派に分かれた沸流(兄)系の百済が半島から降臨し、それが大元神社となり、当然にも宇佐神宮に繋がっているとされたのです。
邪馬台国九州説でも単純な畿内説でもなかったのですが、略系図にある沸流(ビリュウ)系百済が畿内に入り天皇家になったとし、ノインウラのそれとした山上祭場磐座も天皇家の高御座(タカミクラ)と考えておられたのです。
この渡来した百済については、過日『百済の王統と日本の古代』(不知火書房)を世に問うた九州古代史会の兼川 晋氏も渡辺氏と同様に仇台系百済も加えたさらに詳しい検討を加えていることも紹介しておきます。
山陰地方に分布する大元神社
最後に大元神社についてお話しておきます。
島根県益田市から浜田市周辺に数十社分布しています。
さらに、現地には白村江の敗戦後四百隻の百済船が入ってきたという民間伝承があります。
言うまでもなく、その百済系避難民、亡命人が奉祭していた神こそ大元神社、大本神社に思えるのです。
倭の五王はもとより、九州王朝が百済と深く繋がっていた事は兼川 晋の研究でも明らかですが、それが何時の時点で近畿天皇家に簒奪(収斂)されるに至ったのか、その鍵を握るのがこの宇佐八幡宮と考えています。
ただし、そこに、百済が深く絡んでいることだけは間違いがないでしょう。
既 に、九州王朝=筑紫野君の支配がこの宇佐のハート・ランドである院内、安心院に及んでいたことは三女神社でも明らかですが、百済にとどまらず、高句麗、新 羅、秦の臣民、流民、これら大量に抱え込んだ半島からの流入者の力が増大し、何時しか、江南からの先住権力者であった熊襲の流れとも言える九州王朝の勢力 を上回る時点で権力の移動が起こったと考えられるのです。
一例ですが、益田市の大元神社をご紹介しておきます。