334 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ④ “庄原市東城町川鳥の八幡神社”
20160502
ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
タイトルは、真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く としていますが、未だに広島県に留まっています。
既に参拝した神社は10社を超えていますが、全ての神社のリポートが書ける訳でも、書く価値があるものでもありません。
一早く真庭、湯原の神社について書きたいのですが、この神社までは触れておく必要があり、触れておく価値があるようです。
広島、岡山の山中には多くの小平野がありますが、ここもその一つで、少しばかりの小山や小丘を越えただけで、かなり開けた山上楽園とも言うべき平野が広がっていました。
同社由緒に書かれている事ですが、地図の領域は川鳥村だけを示しており、まずは、この8倍のエリアがこの八幡宮の影響下にあったことが推察されそうです。
創立年代不詳。往古より現境内の裏山(宮山と称す)中腹に山の神と して祀り来り、文和元年(1352年)に宇佐八幡宮の御分霊を勧請したと伝える。当社は奴可郡の3八幡宮の一つとして、川鳥村、森村、田殿村、菅 村、山中村、始終村、未渡村、田黒村の八ケ村の大氏神と称していた。なお、 明治22年に6村合併により出来た八幡村の名の由来となる。また、昔より 社領 50 石ありしを福島正則に没収されたが、今も神田と称えて不浄を禁じ る地が残っている。神社の向い4~5町の所には『鳥居が段』と称する地名 が残り、往昔の鳥居のありし所という。その付近に存する小仏堂は、朝日山 万松寺と称し、かっては当神社の別当寺であったという。
森村は ひぼろぎ逍遥 343 真庭、湯原から蒜山高原へ中国山地の奥深く ③ “庄原市東城町飯盛山直下森の白髪神社”で取り上げた白髪神社のある集落です。
当初からこの地域に八幡宮があることに多少の違和感を抱いていたのですが、古くから八幡神のエリアだったとは到底考えられません。その前にまず同社の縁起をご覧いただきましょう。
八幡宮が進出するのは鎌倉政権成立からだいぶ経った後(1352年)の事のようですが、それ以前はと言えば、8ケ村ごとに異なった神を奉祭していた事が想像できます。
従って、この川鳥村に限って言えば、本来の神は大国主命、大歳神、国司神であったと考えるべきなのでしょう。
神額には大歳宮とあります 境内摂社として村荒神(三宝荒神)も
ただ、国司神社は中国地方に散見されますが、ほぼ、大国主命を祀るものと理解しており、重複を意識せざるを得ません。しかし、川鳥村に、各々の名で大国主命を祀る別の社があったとも考えられることから、あまり細かい事には拘わらないでおきましょう。
さて、大歳神ですが、当ブログを長期間お読みになっている方にはお分かりと思いますが、阿蘇の草部吉見神=武甕槌命=春日大神=彦八井耳=支那津彦…であり、「古事記」のインチキ神話で大国主命に国譲りを迫った神とされるものです。
ただ、神殿の配置を見たとき、この神社の本来の神は大山祇命だったと理解しました。
それは、八幡神他(宮司と30分あまりお話ししましたが、神殿に大国主命は移されていると言う事でした)が祀られているその背後にもう一つの境内摂社が置かれている事そのものが本来の神が誰であるかを示しているのです。