356 日田市上津江町白草の年の神社
20160610
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
太宰府地名研究会の日田市天ケ瀬温泉五馬高原研修所から兵戸峠を越え熊本県の菊池、山鹿方面へと向かう事が多くなっていますが、その国道387号線を通るたびに「白草」(ハクソウ)と書かれた道路標識が気になっていました。
「白草」という集落ですが、念頭にあるのは当然にも「新羅」であり「伽耶」のイメージです。
そこで、菊池からの帰路、この集落に踏み入る事にしました。
安直に新羅や百済の痕跡が見つかるなどとは毛頭思ってはいませんが、未踏の地と言うものはフィールド・ウォーカーにはそれだけで心をざわめかせるものなのです。
まず、国道387号線自体が一般の方が通常利用する道路ではない上に、さらに数キロ入った山奥に一体どのような集落が存在しているのか興味津々でした。
すると、以外にも大きな谷に遭遇し、二〇戸以上の集落が息づいていたのでした。
ただ、このような隠れ里に好んで住み着く人はないはずで、何らかの事情があった様には思えるのですが、二~三キロ降れば、「都留」の集落があることから、そこからの開拓集落なのかも知れません。
この集落は「ハクソウ」と呼ばれているようです。
従って、新羅(シルラ)、草部(カヤベ)といったものと直結はしていない様に感じました。
ところが、面白いもので、白草は百草からの転化したものを認めるとしても、集落の中心地には「白草年の神社」が鎮座していたのでした。
お分かりでしょうか?百嶋神社考古学の者には、この神社が阿蘇高森の草部吉見神社(大歳神、春日大神、海幸彦、武甕槌命、正勝吾勝…)であることは大体の見当が付くのです。
従って、白草(ハクソウ)の半分、草部吉見の「草」は当たらずとも遠からずだったのでした。
確かに、旧上津江村教育委員会が書かれた集落と神社に関する由緒は尊重に値するのですが、「ハクソウ」という地名には違和感がある上に、咸宜園がある日田の事、無理して漢音の読みしたようで、本来は「シラクサ」だったのではないかという思いは払拭できません(どちらにせよピャクチェからはとおくない)。
ともあれ、このような文字通りの深山幽谷に二〇戸近い集落が存在している事に感動を覚えたのです。
年の神社、歳神社、年神社は肥後では良く見掛けるのですが、豊後、肥前、筑後となると、ほとんど、と言うより全く目に入らないもので、この地が如何に肥後に連続するエリアとしても、どのような情念で持ち込まれたものなのか、この神社の成立の経緯に対して、ついつい思いが馳せてしまいます。
現地の聴き取りを行わないままこのようなことを書くのは軽率の誹りを免れないのですが、ここに登場する相垣(間部)の一族が一から開拓し成立した集落なのか、それとも先行する小規模な集落が存在し拡大したものかは文面だけからは判然としません。
ただ、相垣姓は全国に25件と言う少なさである上に、分布を見ると大分が一番多く、次いで熊本、福岡となることから、肥後高森の草部吉見神社との関係は一応考えてもおかしくは無いように思えるのです。
最後に、百嶋神代系譜「阿蘇ご一家」をご覧いただきましょう。
彦八井耳が大歳神であることがお分かりになるでしょう。