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364 うきは市の正八幡宮初見 

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364 うきは市の正八幡宮初見 

20160706

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


以前、ひぼろぎ逍遥 280 行橋市の正八幡神社初見 に於いて「正八幡神社」が所謂、八幡神社以前の本物の八幡神社である事をお知らせしましたが、このルーツに近いものをお見せする事にしましょう。

北九州市から福岡県行橋市にかけて正八幡神社がある事は知られていますが、外には、川崎町など筑豊の田川郡、八女市の大籠、みやま市、筑後市、佐賀県の旧千代田町、山口県の秋穂…などに、この謎の八幡神社、八幡宮が存在しているのです。

と、その程度のぼんやりとした予備知識しかないまま、日田~久留米への旧道(バイパスができたからだけですが)を走っていると、うきは市にも正八幡神社あることに気付きました。

 勿論、最近手に入れた「山口県神社誌」を含め、このエリアの「佐賀県神社誌」「福岡県神社誌」を一から丹念に読めば分かる事ではあるのですが、時間とスケジュールに追われる毎日を送っていると、そういう訳にも行かず、このような間の抜けた話になるのです。

 いつも通過しているうきは市にも正八幡宮があったなどと今さら書くのは正直言って恥ずかしいのですが、ご紹介する事にしたものです。

ただ、重要なことですが、正八幡宮とは八幡宮以前の八幡宮であり、本来の八幡神とは博多の櫛田神社の主祭神である大幡主なのです。

勿論、大幡(絹で造られた大きな帆の意味)とは博多港を拠点にして活動していた武装商船隊の船の帆の事であり、その大きな帆を張った船を率いて半島、江南、インドシナへと船を操っていた八幡船(武装商船=実質的な海賊船=海軍)の事なのです。


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八幡船 ばはんせん


奪販,番舶,破帆とも書く。特に室町時代から戦国時代にかけて現れた海賊船一般をいう。後世倭寇の意味に用いられた。倭寇が「八幡大菩薩」の旗印を掲げたことに称呼の起源があるとされるが,確証はない。


ネット上の「ブリタニカ国際大百科事典」 小項目事典より



当然ながら、祭神は天皇ならぬ別王=応神天皇(ホンダワケ)とはされていますが、百嶋神社考古学では、ホンダワケは天皇扱いしないことはこれまで述べてきた通りです。


さて、「福岡県神社誌」によれば、祭神は 応神天皇、豊玉姫命、高良玉垂命、雷神罔象女(ミズハノメ)神…とあります。


境内社は秋葉神社しか見当たりませんが、貴船神社、秋葉神社、琴平神社、猿田彦神社二社、天満神社二社がある事になっています。

 ただ、雷神社(雷神)、水神社(罔象女)が大正期に合祀されている事が書かれています。

 すると、別王=応神天皇が祀られるようになったのは九州王朝が亡び高良玉垂宮が九州の宗廟を宇佐に譲った750年以降(「高良玉垂宮神秘書」)か1200年代の鎌倉以降のはずですから、本来の祭神は高良玉垂宮命、豊玉姫命となるはずです。

 では、正八幡神社が大幡主とは関係がないのではないかと言う方がおられるかも知れません。

 しかし、祭神をご覧ください。高良玉垂宮命、豊玉姫命とあります。

高良玉垂宮命は九州王朝の傘下の大幡主である以上当然として、豊玉姫命とは大幡主の息子である豊玉彦(ヤタガラス)と高木大神の長女である豊秋ツ姫との間に産まれたタゴリヒメ(宗像三女神のお一人)であり、山幸彦との間にウガヤフキアエズの命を産むことになるのです。

大幡主自身は祭神とはされていませんが、その孫が主祭神とされていることから正八幡宮であることは間違いない事になります。


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菅公と関係の深い鳥居の神額の鳥文字や鷽の狛犬(妙な表現ですが)ですが、それが置かれている理由は、道真公がスサノウ系とヤタガラス系の本流本家同志の結婚により産まれた一族だからです。


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正八幡宮を見る上では特に重要なのが境内社です 秋葉様=金山彦が鎮座されていました



付近には「白土」という地名もある事から、金山彦の一族がおられる事は分かっていました。

これについては、ひぼろぎ逍遥 230 白川伯王家源流の神社初見 “飯塚市鹿毛馬の厳島神社(安芸の宮島のルーツ)”外をお読みください。

363 八幡古表神社(吉富町)の殷の鳥居 

20160629


太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


2014年の秋でしたが、求菩提山手前の日吉神社の撮影を終え、翌日、中津市の手前にある吉富町に向かいました。古代史の世界ではかなり有名な八幡古表神社の例大祭があることを思い出したからです。

古代史に関心をお持ちの方ならどなたもご存じの、操り人形による「傀儡相撲」が奉納される吉富町の八幡古表神社(中津市の古要神社も同様の「傀儡相撲」が奉納されます)ですが、過去、何度か同社に訪れていますが、祭り(御神幸祭)を見るのは今回が初めてです。

しかし、有名な細男舞・神相撲(傀儡子舞)は、四年に一度オリンピックの年の夏に行われるだけで、今回は見ることはできません。そのうちに機会があれば見たいと思っています。

吉富町は中津市と豊前市の間の海岸部というより山国川河口の左岸にありますが、この古表神社も、一目、古代には島か岬だったようなところであり、神聖な沖合の島か岬に置かれたものだったように思えます。

今回、八幡古表宮を訪れた理由はお祭りもありますが、百嶋先生が言われていた「古表も古要も古いと置き換えてはいるものの、実は胡人の『胡』が本当なんです。…」という話を自分の目で実感するためでした。

そのことだけでも、豊前一帯が、かつて、新羅、伽耶から雪崩れ込んできた秦人(秦の支配を嫌って半島に逃げてきた多くの異族を含んでいた)の居留地であったことを思わせます。

つまり、表面上は豊予水道に展開した安曇系の海人族の神社には見えるものの、その祭神から分かる通り、その上に君臨していた神とは、実は四十柱神(古表大明神)であり、さらにその上に聳えていた九州の王権の痕跡を探ることでした。


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八幡古表神社の裏参道の大鳥居(瀛の鳥居) カーナビ検索 福岡県築上郡吉富町小犬丸353-1


 御祭神 息長帯姫尊 虚空津比売命(神功皇后の妹豊姫) 


朝7時半には着いていたと思いますが、豊前から中津方面に向かったことから裏から入ることになりました。普通はこのような場合でも表に回って境内に入ることにしていますが、早速、胡人の痕跡を発見したことからそのまま入内することにしました。

 直ぐにはお分かりにならないと思いますが、百嶋先生から聴かされていた殷(中国殷イン王朝)の鳥居が目に飛び込んで来たのでした。

 この形式の鳥居はたまに目にするものです。

小馬鹿にされそうですが、ユダヤ・イスラエル系と言うより、はっきりイスラエル系と言いたいのですが、私が住む佐賀県の八天神社の正殿前の鳥居の形式もこれに該当します。

 厳島神社の鳥居は縦に支えとなっていますが、それと異なり横向きに広がる鳥居の形式がこれなのです。

 裏参道を少し入ると、元宮ではないのですが(元宮は各々別のところにあったはずです)、古い古表宮がそのまま残されていました。ご覧のとおり、ここにも殷の鳥居があるのです。これで、この鳥居が思い付きで造られたものではなく、古くからの伝統を持つ形式であったことが分かるのです。


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左は古表神社の殷の鳥居、右も佐賀県嬉野市谷所の八天神社の殷の鳥居(瀛の鳥居)です


 両方の鳥居に共通しているのは鳥居上部の浮き袋状の丸い輪ですが、これは、彦山山岳修験の特徴であり、ここにもその影響が認められます。境内でも参拝殿の外側では早くも御神幸の準備がたけなわでした。多くの山車の周りを揃いの法被を着込んだ数百人の氏子が、“今や遅し”と出番を待っていました。過去、二、三度訪れた時は、殆ど場所を確認した程度の事で落ち着いて見ることが出来なかったのですが、今回は今日一日のメインのテーマと心づもりしていましたので、いろんなものが見えてきました。


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 この古表、古要の二社についてはいずれ詳しく書きたいと思いますが、まだ調査中です。

 一般的に「胡人」とは古くはシルクロードのソグド商人を、後にはペルシャ人一般まで胡人とされます。

 この延長上に、数社ある飯塚市の許斐神社が「このみや」と呼ばれている事を考えていますが、今回は、殷の鳥居(瀛の鳥居)をご紹介するに留めます。


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