370 キッコーマン醤油と博多の櫛田神社の大幡主
20160713
太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久
奇妙な題材ですが、徐々にお分かり頂けるものと考えています。
まず、九州は地場の醤油の占有率が高く、しばらく前までは“関東のキッコーマン醤油でも中々入って来られない”といった話を聞いていました。勿論、資本力に物を言わせて現在ではかなりのシェアを取りつつあるようです。
(日本の味 醤油の歴史 より)
1990年のデータですが、最近の状況はスーパー・マーケットなどでご存じのとおりです。
さて、「キッコーマン」の社名は、亀甲(神紋)紋章に由来しているだろうことは想像できそうです。
世界で知られる醤油のブランドです。
千葉県野田市で400年前から醤油を続けてきた醸造家が、最上級の醤油に「亀甲萬」の印を付けました。
大正6年、その醸造家を中心として「野田醤油」が誕生しました。
昭和39年に亀甲萬のブランドを冠して「キッコーマン醤油」となり、昭和55年には「キッコーマン」となりました。
元々、千葉県の野田市で400年前から醤油を続けてきた醸造家連合が、最上級の醤油に「亀甲萬」というブランド名を付し、亀甲萬としたのが始まりと言われていました。
ただ、何故、亀甲紋を採用したかは知らなかったため、ネット検索を行うと、に答が出て来ました。
前身となる野田醤油は醤油で有名な千葉県野田市を源とします。
野田醤油の祖先が千葉香取神宮の氏子総代の一人であり、その神宮の神域を山号で「亀甲山」と言ったため、「ツルは千年、カメは萬年」という亀にちなんだ「万歳の仙齢」にあやかって組み合わせ「亀甲」に「萬」を入れものを茂木家の家紋としたようです。ちなみに「山号」とは寺院の名前に冠する称号のこと。
寺院は山にあることが多く、その山の名前を山号としたとか。 「比叡山・延暦寺」や「高野山・金剛峰寺」など。亀甲山・香取神社といわれる亀甲山は、山の形状から呼ばれ始めたようです。?
もう一つ、ウィキペディアで確認すると、
現社名は、前身8家の合同による野田醤油会社創立に際し醤油統一商標「亀甲萬」とする。前身の1つ、茂木佐平次家の用いた商標「亀甲萬」は香取神社の亀甲と「亀は萬年」をかけたとされる。あるいは、元々の考案者は第4代鈴木万平であり、譲渡されたという説もある。
と、出て来ました。他にも同様のコメントが複数出て来ますので多分これで良いのでしょう。
では、亀甲紋章で再度検索してみましょう。
亀甲紋
日本には、海亀が卵を産んで海に帰るときに酒を飲ませて帰すという。これは亀がめでたい動物で、海の化身と考えられていたからだ。家紋のなかで亀甲紋が格別な扱いをされているのはそのためだ。亀甲紋は出雲大社、厳島神社、香取神宮などの神紋ともなっている。昔、香取神宮の氏子に醤油造りの名人がいた。業を始めるとき、神紋と名前の一字「萬」を合わせて屋号にした。キッコーマンである。
香取神社も亀甲紋を使っているのは間違いないようですが、実際には左三つ巴、五七桐紋がネット上にも出て来ます。今年中に香取には行きますので確認したいと思っています。
さて、話はここから始まります。
一般的には亀甲紋のルーツは出雲大社(大国主)に始まるといった話が横行していますが、とんでもない誤りで、この中で最も年かさの実力者である博多の櫛田神社の主祭神の大幡主なのです。
理由は極めて簡単です。
大国主は大幡主の長女であるアカルヒメ(スサノウが追い掛けた…)の娘である市杵島姫をお妃にした
いわば入り婿であり、大幡主の配下で活動したからこそ「主」(ヌシ)という称号を使っているのです。
厳島神社も当然ながら大幡主の傘下にある上に、宗像大社の本当の祭神も実は大国主命なのです。
では、香取神社はどうでしょうか?
祭神は、経津主大神(フツヌシ) 別名を伊波比主神/斎主神(イワイヌシ)、斎之大人(イワイノウシ)としますが、お分かりのようにこちらも「フツヌシ」と「主」という称号を使用しているように大幡主の傘下にあるのです。
しかも、斎之大人(イワイノウシ)について、大人を「ウシ」と呼んでいるのです。
「オ」=O音を「ウ」=U音で発音しているのは九州方言(大分県北半部を除く)の特徴であり(大事=ウウゴト、ホウヅキ=フウヅキ、トガ=ツガ…)、この神様が九州の御出身であることが分かるのです。
経津主大神とは山幸彦=ニギハヤヒ=猿田彦…の事であり、こちらも大幡主の傘下で活動していたのです。
そして、「香取大神」=山幸彦の競争相手であった海幸彦こそ「鹿島大神」(武甕槌命)その人なのです。
これらの亀甲紋章を使う一族の御主人こそ大幡主だったのです。
百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
亀甲紋章が出雲大社=大国主命が起源などと恍けた話をしている方は神代の一割も理解しておられないのです。
亀甲紋章を使う神々は全て大幡主の親族、姻族、臣下なのです。
話はさらに広がります。
大幡主は八幡舩(バハンセン)とも八幡船(ハバンセン)とも言われる大きな帆(強い絹の帆)をふんだんに使った外洋船を使い、シナは元より、インドシナ、半島へと武装商船隊を率いて活動していたと百嶋先生は話されていました。
八幡とは応神天皇(別王)などの事ではなく、大幡主こと本物の八幡=正八幡神社の事なのです。
そもそも醸造業とは、穀物を船倉に閉じ込めいつしか発酵が始まり、腐り始める事から海運業者の中から始まったと言われています。
密閉された空間=船倉、穀物倉=亀甲と塩(大幡主の別名は塩槌翁であり製塩業者でもあるのです)、そして大量の穀物を集積、運搬できる大幡主こそ、醸造業者の元締めでもあったのです。
大幡主傘下の経津主大神が千葉に鎮座していることと、野田の醤油にそれなりの因果関係を見出すのは私だけでしょうか?
大幡主が渡海したインドシナにはタイのナンプラー、ベトナムのニョクマム、青森のハタハタのショッツル…醸造業とは穀物搬送船の腐敗(発酵)した船倉から始まったのです。
そもそも船の所有者を船主と言いますが、それも大幡主の「主」からきているのです。