390 2016年真夏の津山の神社探訪 ⑧ “津山市賀茂町の賀茂神社”
20160828
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
津山市の最も奥の集落である阿波(アバ)で車中泊した翌朝、同市の中心部を目指して県道6号線を下る(上るが正しいですか)と、草加部、吉見、加茂、綾部、黒木、田熊…と気になる地名が並んでいます。
最低でも、加茂は確認すべしと、みまさかかも駅前の地図で見つけた加茂神社を見せて頂く事にしました。
大山咋命が主神として祀られているようであることから、一目、上賀茂系の神社との印象を持ちました。
この神様は、阿蘇の草部吉見と宗像大社の市杵島姫との間に産れた、言わば、瀛氏の王子様のような性格を持った神ですが、その子として神武僭称贈)崇神天皇が登場することになります。
大山咋命とは、松尾大神、山王宮、日吉宮、日枝神社の神様でもあるのですが、同時に出雲の佐田神社の神でもあるのです。
それを伊勢神宮の系統は猿田彦の事だとして、とんでもない言いがかりを持ち込んでいるのですが、この神社ではそれを排し、津山市加茂町公郷猿田彦の加茂神社は摂社として別神であることが明示されているとも見えるのです。
参拝殿本殿
本殿の御祭神を見ると、イザナミ、イザナギがセットになっており、大山咋が主軸筆頭に掲げられ大国主が後塵を拝している事から、賀茂社でも上賀茂系の神社であることが分かります。
五七、三五でもない桐紋は古くは使われていたようですが、菊水の紋章と併せ考えれば、御祭神にある崇道天皇に関わるものかも知れません。
崇道天皇とは早良親王の事のようですが、真庭~津山に掛けてこの人物の話が良く出て来ます。
早良親王(さわらしんのう、天平勝宝2年(750年)? - 延暦4年9月28日(785年11月8日))は、奈良時代末期の皇族。光仁天皇の皇子。生母は高野新笠。桓武天皇、能登内親王の同母弟。追称は崇道天皇(すどうてんのう)であるが皇位継承をしたことはないため、歴代天皇には数えられていない。
母方が下級貴族であったために立太子は望まれておらず、天平宝字5年(761年)に出家して東大寺羂索院や大安寺東院に住み、親王禅師と呼ばれていた。天応元年(781年)、兄・桓武天皇の即位と同時に光仁天皇の勧めによって還俗し、立太子された。当時、桓武天皇の第1皇子である安殿親王(後の平城天皇)が生まれていたもののまだ幼少であり、成人前に即位当時に既に45歳を迎えていた桓武天皇が崩御して幼帝が立つ事態を回避するために早良が立てられたとみられる。また、皇太子にも関わらず早良親王が妃を迎えたり子を為したとする記録が存在せず、桓武天皇の要求か早良親王の意思かは不明であるものの不婚で子孫が存在しなかった(早良の没後に安殿が皇位を継げる)ことも立太子された要因と考えられている(長谷部将司説)。
だが延暦4年(785年)、造長岡宮使・藤原種継暗殺事件に連座して廃され、乙訓寺に幽閉された。無実を訴えるため絶食し、淡路国に配流される途中に河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死した。
ウィキペディア(20160829 0730)による
祭神では味鋤高日子根命が分かり難いと思いますが、ウガヤフキアエズの別称であり、豊玉姫と山幸彦の間に産れた大矢口がその人となり、そのお妃は鴨玉依になります。
一方、その神玉依姫は大山咋のお妃でもあることから、下賀茂神社にも配慮された、また、高木大神系にも配慮された配神となっているようです。ここらが、吉備、美作の面白い所でしょう。
境内摂社の一つに養老神社が在りました。少彦名命と阿蘇系の級長津彦命、級長津姫命が一緒に祀られている事は奇妙ですが、神殿に大国主が残されている事から考えると、この神社の本来の祭神は大国主命、少彦名命であり、もしかしたら、大国主だけが残され、草部吉見=武甕槌=級長津彦命、級長津姫命が摂社に落とされた可能性も見て取れます。ここでは級津(シナ)=支那の話はやめておきます。
境内摂社には菅原道真の天満宮と事代主の美保社もありますが、以下の二つをご紹介しましょう。
足名椎命、手名椎命は、櫛稲田姫の御両親ですから金山彦と埴安姫(大幡主の妹)ですね。
猿田彦は味鋤高日子根命の父神であり、同時に物部の中核部隊のニギハヤヒであり山幸彦であることはこれまで述べてきたところです。