397 太宰府観世音寺北東の日吉神社 ②
20160909
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
日吉神社についてはふれましたが、肝心の太宰府観世音寺に関しては皆さんにお知らせしておくことがあります。
これは、九州王朝論者の中では半ば常識化している事ですが、この観世音寺とは九州王朝の国寺であった可能性があり、九州王朝の消滅後(白村江戦敗戦後)に解体され筏として組み直され畿内に運ばれ法隆寺の五重塔外になったのではないかという話があるのです。
勿論、この説を提起されたのは「法隆寺は移築された」を世に問われた米田良三氏です。
15年も前に公刊されたものですが、未だに色あせることなく九州王朝論者の間ではバイブル的な響きを保っています。
差し障りがあるといけませんので、詳しくはそちらを読まれるとして、本来の法隆寺の五重塔の芯礎は現存していますので、太宰府天満宮とか九国博ばかり足を向けずにたまにこちらにもおいでになり、古代を考えて頂きたいものです。
米田説の中には、観世音寺の裏手にある僧坊跡なる礎石についても京都の三十三間堂として移築されているというものがありましたが、その礎石もそのまま残されていますのでご確認ください。
そもそも、戒壇院の裏の高い方に僧坊が置かれるという事自体が解釈的にはおかしく、宝物庫、宝物倉といったものならばいざ知らず、僧坊として住居に使えば、穢れた水が流れ込むはずで、事実、金堂西に造られた池に汚水が落ちる事になるのです。
当時もあったかどうかは別として、清浄な僧とは言え汚水を落す事にはなり、坊は下流に置かれなければならないはずなのです。解説、解釈はトンチキ。
当時、水はどこから流れて来ていたかと言えば、日吉神社を見れば分かります。
戒壇院、金堂裏手に残された礎石群
はじめに
第Ⅰ部:法隆寺の封印を解く
第1章:解体修理工事報告書の内容
第2章:解体修理工事報告書の三つの事実
第Ⅱ部:日本文化の華・観世音寺の運命
第3章:観世音寺はいつ・だれが造ったか
第4章:その後の観世音寺
第Ⅲ部:日本の原風景・たい(イ偏に妥)国の姿
第5章:たい(イ偏に妥)国とはどのような国か
第6章:考古学的成果の再検討
第7章:ふたたびたい(イ偏に妥)国について
第Ⅳ部:日本の天才・上宮王の業績
第8章:法隆寺の仏像
第9章:創建観世音寺金堂の仏像
第10章:正倉院御物の検討
第11章:たい(イ偏に妥)国の宗教
あとがき
建築家である著者が古田武彦氏の所説に触発されて書いた書。圧巻は第Ⅰ部の法隆寺の西院伽藍の解体修理報告書の内容を建築家の目からつぶさに検証したところ、金堂と五重塔の部材には、はっきりと一度解体して再度組みなおしたあとが数多く見られ、それが一部分の修理などでは理 解できない、建物の根幹部分にも及んでいる事を検証した部分。著者はこの検討結果をもとに、古い絵図などとの比較検討の結果、現法隆寺の西院伽藍は太宰府観世音寺の金堂と五重塔を解体し移築したものである事。そして其の際に建物も向きは元のものとは違った向きに建てられるとともに、 内部もかなり改造された事を証明する。
太宰府観世音寺を建てたのは九州王朝の上宮法皇(隋書たい国伝のアメ ノタリシホコその人)であることは古田氏の著書に詳しい。
(なお著者は第2書である「建築から古代を解く」【新泉社・1993年刊】で京都の三十三間堂は太宰府観世音寺の三十三間堂を移築したものであることも論証している)
「教員のための社会科学習参考書籍集」より
出版当時、飛びついて読ませて頂きましたが、古田史学の会内部では賛否両論が飛び交っていました。
仏教が隆盛を見せた時代、九州から山陰では何故か多くの廃寺が出現します。
しかも瓦は出るものの木片等は全く発見されず、どのように考えても奇妙でした。
ただ、60年程度で、瓦は劣化しますので葺き替えは必要ですし、木材は解体され補修されるのが通例です。
このタイミングで、随時、放置された寺院の建物が解体され筏で瀬戸内海を渡り、新たな首都圏に再建されたという考えはリーズナブルで、木材が発見されない事の説明も付くのです。
有名な島根県下府廃寺、鳥取県の加上淀廃寺、岩井廃寺、行橋市の椿市廃寺、佐賀の大願寺廃寺…と十数か所の廃寺跡を見て来ましたが、これが九州王朝の資産の再建と見るか強奪と見るかは問題でしょう。
それはともかくとして芯礎は元より、多くの礎石もそのまま放置されているのです。