398 航空戦艦「伊勢」と柳田国男
20160910
久留米地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
本稿は通説派に堕した久留米地名研究会HPからバック・アップ(避退)掲載したものです。
なんとも凄まじいタイトルですが、それなりの接点はあるのです。
レイテ沖海戦と言えば、南方への拠点フィリッピンの支配権を巡り日米が激突した事実上最後の艦隊決戦でした。
猛将小澤 治三郎(オザワ ジサブロウ)率いる囮艦隊(第三艦隊)がハルゼーの米機動部隊を北に吊り上げ、その隙を縫って栗田健男揮下の第二艦隊(第一遊撃隊)がレイテ湾に殴り込みをかけ、無防備の米輸送船団を撃破する(捷一号作戦)という乱暴なものでしたが、後に「謎の反転」として物議を醸す事になる栗田艦隊の三度の避退によって、企図された作戦目的を全く達成することなく、空母4隻、「武蔵」以下の戦艦3隻、重巡6隻、軽巡4、駆逐艦11隻を失うという決定的な敗北を喫して逃げ帰った無様な作戦でした。
戦史、戦記関係の識者の間でも、事実上、太平洋戦争の帰趨(敗北)はここで決したと言われています。
さて、小澤と共にこの危険な陽動作戦を受け持った一艦に航空戦艦「伊勢」(航空戦艦に関する説明は後述します)がありました。
その艦長は中瀬 泝(ノボル)でしたが、彼には非常に有名な逸話があります。
この作戦の真最中、撃沈された僚艦の乗員を回収するために長時間(十五分間)停船させ海上に漂う九十人を救出しているのです。
当然ながら作戦行動中であるため重大な軍規違反のはずなのですが、彼の人柄が良く分かる話ではあります。
画像はネット上の「ウィキペディア」から切り出したもの(これは艤装前の艦影)
例え軍規違反であったとしても、救われた人間の側にとっては神にも等しい存在だったはずであり、救出された乗員の父親だったのか、復員後の中瀬艦長に駅頭で一人の老人が取り縋って泣いた…と言う話も残っています。
実は、この中瀬 泝の父親こそ、柳田 国男が民俗学に乗り出す起点となった『後狩詞記』(ノチノカリコトバノキ)を書く際に柳田を案内したと言われる当時(明治四一年)の椎葉村村長中瀬淳(スナオ)氏だったのです。
これだけでも詳しく一文を書きたい素晴らしい話ですが、ともあれ、名将山口 多聞と並び称せられる小澤 治三郎も宮崎県の出身であった事を考えれば、同郷の信頼関係によるものであったと思えるのですが、それは思考の暴走になるでしょう。
思考の連鎖
ネット上に公開している「有明海・諫早湾干拓リポート」リポートⅢ、十二月号掲載の188.「2006年 栂尾神楽遠征紀行」において、宮崎県椎葉村の栂尾神楽のことを書きましたが、それを遡ること十年、民俗学者宮本常一が調査に入ったという土地を見たいという思いだけで初めて栂尾を訪ね、神楽の魅力に引き込まれていた時、観客の中で「椎葉村の出身者に戦艦の艦長がいた…」と話されているのを聴くとはなく聞き込みました(今思えば黒木勝実元助役だったのかも知れません)。
その時は気にも留めずにいたのですが、最近になってレイテ沖海戦に関するある戦記物を読んでいると、「捷一号作戦」において、空襲の恐れのある緊迫した海戦の最中に自らの撃沈の危険をも恐れず、多くの乗員を回収したという有名な話に登場する「伊勢」の艦長が宮崎県の出身者であったことに気付き、この中瀬艦長こそ、耳にしていた椎葉村出身の戦艦の艦長であった事を改めて知ったのです。
一方、リポートⅢ、十一月号掲載の 179.2006 熊本地名シンポジウム in 人吉 紀行 でふれた熊本地名研究会の「2006 熊本地名シンポジウム in 人吉」において、「椎葉地方の狩風俗」が江口司氏によって発表されます。
この江口報告には民俗学に興味を持つ者にとって非常に興味のある話が紹介されていました。
柳田の椎葉での調査活動(行動)について研究され、「日本民俗学の源流-柳田 国男と椎葉村」を残された故牛島 盛光氏が“田山花袋の研究者から、柳田と田山への書簡の中に柳田の椎葉での行程が書かれている”という事を知り、一九九一年、黒木 勝実(元椎葉村助役)氏に調査を依頼したところ、同氏は館林市の田山花袋記念館において田山と柳田との書簡の中に自分の父親でもある黒木 盛衛(中瀬 淳の後を引継いだ次の椎葉村村長)氏の家に泊まったという事実を発見した事が明らかにされました。
実は、黒木氏とは人吉の地名シンポジウムに引き続き、再び栂尾神楽でもお逢いしていました。
その黒木氏に引き合わせて頂いたのが、八代河童共和国大統領の田辺 達也氏だったのですが、良くゝ考えれば、初めて栂尾神楽を見るためにこの地を訪れた時にもこの黒木氏と話をしていた事を最近思い出しました。
さて、私にとってさらに驚く事が分かります。
再び話を中瀬艦長に戻しますが、この中瀬 斥が、いったい椎葉のどこの出身であったかについて前述の黒木氏にお尋ねしたところ、直ちに、上椎葉ダムによって半分が水没させられた椎葉村小崎の竹の枝尾の出身であったと教えて頂いたのです。
そして、その父親こそ、人吉の熊本地名研究会で発表された、柳田 国男が泊まった椎葉村村長の中瀬 淳(中瀬艦長の父親)であったのです。
武雄、八代、椎葉という人脈と、熊本地名研究会、柳田民俗学、栂尾神楽、レイテ沖海戦の中瀬艦長という奇妙な思考の連鎖がトライアングルを形成した瞬間だったのです。
航空戦艦
さて、前稿をネット上に公開したところ、“航空戦艦とは何か”という質問が舞い込みました。“こう言って来たのが若い人ならば仕方がない”と一応は無視したはずでしたが、私より一つ上のかなりのインテリから言われただけに、今回、一文をもって補足することにしたのがこの小稿です。
私としては普通に知られているという認識だったのですが、どうもそうではなかったようです。
想像するに、航空戦艦(正式にこのような艦種があったわけではなく、あくまでも戦艦であることは言うまでもありません)が、一から建造されたものではなく、改装型の艦である事、また、「伊勢」「日向」ともに、その後も目立った戦功がなかった事がほとんど知られていない理由かと考えます。
もちろん、かなり古い話になりますが、大映の映画「海底軍艦」に登場する架空の空飛ぶ戦艦などであるはずはなく、いわば航空母艦と戦艦の合の子で、前半分が戦艦、後ろ半分が航空母艦という異型ながら、それなりに強力な攻撃力を持った堂々たる戦艦だったのです。
結果、終戦まで「伊勢」、「日向」の二艦が実戦配備されましたが、激戦とは言えニ艦ともレイテ沖海戦(捷一号作戦)の囮部隊になった程度で敗戦まで生き延び、最後は米艦載機の攻撃を受けて沈没し呉港内に着底したまま占領軍を迎えたのでした。
「伊勢」、「日向」は多少改装への経過が異なりますが、基本的には「扶桑」型の「山城」に次ぐ三番艦、四番艦であり、三六サンチ砲を搭載する三万六千重量トンの堂々たる戦艦だったのです。
それが、急遽、航空戦艦に改装された理由は航空母艦が不足したからに外なりません。
この辺りについては正確を期すために、手元にある『日本海軍艦艇ハンドブック』多賀一史(PHP文庫)を引用することにします。
・・・昭和十七年、ミッドウエー海戦で主力航空母艦四隻を失った海軍は、緊急対策として使用頻度の低い戦艦及び一部の巡洋艦の空母改造を計画した。特に日向が砲塔爆発事故で五番砲塔が使用できない状態だったために、まず伊勢型の航空戦艦化が実行された。
十八年八月に、改造工事は完成したが、当初予定していた搭載機瑞雲の生産が間に合わず、広い格納庫を利用して輸送任務などに就いていた。・・・
確か航空戦艦はイギリス海軍だかフランス海軍だかに先例が一つあったと思いますが、実は、この時、既に戦艦の時代は終わっていたのです。
対艦巨砲主義に基づくアウト・レンジ戦法は、第一次世界大戦直後から暫くの間は確かに正しい戦法だったのですが、究極のアウト・レンジ戦法としての航空戦力による対艦攻撃が既に登場していたのです。
つまり、敵の弾が全く到達しない距離を絶えず維持しながら、長距離砲で一方的に敵艦を叩く大艦巨砲攻撃それ自体は非常に理に適っていたのですが、時代は既にさらにその長距離砲が全く届かない場所から航空機によって破壊力のある攻撃を行うことが可能になっていたのです。
このことに早くから気付いていた人間(大西 瀧治郎・・・ほか)もいたことはいたのですが、結局入れられることなく、八八艦隊建設以来の幻想と利権に凝り固まった軍の腐敗官僚どもによって軌道は修正されることなく対米戦争完敗にひた走り、最後は航空戦力の重要性を早くから訴えていた大西に特攻を指揮させるに至るのですから、日本の軍部というのは組織的にも何の役にもたたないくだらないものだったのでしかなく、恐らく現在の国土交通省や農水省の官僚どもと同様のものだったのでしょう。
仮に「大和」や「武蔵」を造る資源を航空母艦と大量の航空兵力に振り向けていれば、戦況は全く違ったものになったかも知れないのですが、私は帝国海軍を支援する者でも、日本という国家を熱愛する者でもないため、事実以外には全く興味はありません。
考えるに、実質的に第一次世界大戦をパスした日本軍は、陸軍を中心に新兵器、新戦術による劣勢を精神主義で補うという傾向に堕落し、比較的柔軟であった海軍においても既に官僚主義に腐食され、新しい時代に柔軟に適応できる組織ではなくなっていたのです。
話は、ここまでとしますが、最後に私が少年時代にこの航空戦艦に対して持っていた印象を申し述べて終わりにしたいと思います。
航空戦艦と言わずとも、伊号400潜においてさえも、確かにカタパルトによって発艦は可能なのですが、着艦はできるのか?不便ではないのかという不安を最後まで拭えませんでした。そして、実際、フロート機でもなければ着水回収はできなかったのです。
もちろん、別に小型の軽空母(補助空母)などを随伴すれば問題はなかったのかもしれません。
しかし、元々、日本軍には兵員を大切に扱うという伝統がなく、実質的にも既に帰還率は下がる一方であり、真面目に考慮されなかったのです。
それ以前に、有名な“マリアナ沖航空戦の七面鳥撃ち”によって大半の航空戦力を失うなど、完全な特攻の時代に突入していたのでした。
宇垣 纏の四航艦による非合法の航空支援は行われ、それだけに「大和」揮下の特攻艦隊の乗員は涙したと言われていますが、最後は航空支援もつけずに大和を沖縄に出撃させたことは、日本では戦艦による特攻さえも行われたことになるのです。
そのような国が日本であり、その統帥権を持った最高戦争指導者は、恥さらしにも自決もできずに長寿を全うしたのですから、つくづくこの国とは自国民を全く大切にしない国であることが分かります。
改(艤)装装後の艦影
当然ながら、これは現在もなお変わりありません。
今回は全く地名の話になりませんでしたが、上椎葉のような大型のダムの底に沈んだ土地にも、多くの歴史、社会、集落、人生、地名があったのであり、このようなものにも目を向けて頂きたいと思うばかりです。
この中瀬艦長の生家がどこかを知りたくて黒木氏にさらに詳しく教えて頂きましたが、この小崎の竹の枝尾という土地は、毎年神楽を見に行く栂尾ほどではないものの、よそ者にとっては秘境であることには変わりなく、五ヶ瀬からのトンネル経由はあるものの、人吉盆地からの道が最悪の道であることも手伝ってなかなか足が向きません。
それでも、悪路がお好きな向きには国道265号線で訪ねられてはいかがでしょうか。
本稿はネット上に公開している「有明海・諫早湾干拓リポート」の号外「有明臨海日記」に掲載した 135.航空戦艦「伊勢」と柳田国男(20061130)、152.航空戦艦(20070104)の原文を大きく変えることなく民俗学的論考として再編集したものです。
今を去ること百年前、明治41年1908年に民俗学者の柳田 国男は法制局参事官として椎葉村に入り『後狩言葉記』を世に問います。まさに日本の民俗学が誕生した瞬間でした。その後、宮本常一は柳田が入らなかった椎葉村栂尾の調査に入ります。
宮本常一が調査に入った秘境中の秘境椎葉村栂尾神楽の大神唱教(上左)
同じく柳田国男が調査に入った菊池氏の亡命地米良の銀鏡(シロミ)神楽(上右)