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437(前) 勝沼ワインの里の大善寺 

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437(前) 勝沼ワインの里の大善寺 

20161204

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久

 

“ぶどう寺にはなぜ「国宝ぶどう薬師」像があるのか?”(上)


以前、ひぼろぎ逍遥(跡宮)において、甲州ワインで有名な ぶどう寺 が、まぼろしの九州王朝宮廷舞とも言われる筑紫舞で知られる福岡県福津市の宮地嶽神社と同様の三階松の神紋であることなどをお伝えしました。


213 勝沼ワインの里の大善寺 ② “大善寺の全国的傾向”

212 勝沼ワインの里の大善寺 ①“山梨県甲州市勝沼町勝沼の五所神社の神宮寺”


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そもそも、「ぶどう」と言う言葉自体に心が揺り動かされます。

 まず、「ぶどう」が本来の和語(実はそんなものは架空のもので実際には存在しないのですが…)、大和言葉(天照=卑弥呼の時代畿内大和はただの辺境の地であり方言地帯)と置き換えてもよいのですが、そういった響きを持ちません。

 「スイカ」でさえも「西瓜」と同様にシルク・ロードから伝わった西方の果物(瓜)であることは受け入れられているにも関わらず、「葡萄」が外来語であることはあまり触れられてはいません。


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この「葡萄」という外来語、それもかなり古い時代に持ち込まれた言葉であることは容易に想像が付きますが、ギリシャ語説、ペルシャ語説があり未だはっきりと確立した定説を見ません。

一応、ネット上でほとんどの説を読ませて頂きましたが、神社研究の面から言えば、どうせトルコ語かペルシャ語辺りだろうと思っていましたが、ペルシャ系言語budauが持ち込まれているとすると符合する面が多々ある事から、とりあえずはペルシャ語起源という線で考えて見たいと思っています。

 そもそも葡萄の種や稲の粒や小麦の粒などといった小さなものは、戦略物資として禁輸し取り締まる事などできません。

 戦略物資とされた絹織物の原料を造る蚕でさえ冠だか髪の中に隠され何時かは持ち出されてしまったのですから(ホータン王に嫁ぐ中国の王女が、冠の中に蚕と桑の種を隠して持ち込んだという逸話)、どんな荒れ地でも乾燥地帯でも、否、乾燥地帯ほど僅かな水さえあれば甘く実を付ける葡萄はステップロードといった乾燥地帯に生きるの民にとってはこの上もなく有難い果物だったに違いなく、シルク・ロードから列島に進入してきた人が生きるために携えなかったとは到底思えないものの一つだったはずなのです。


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イランの有名な果物と言えばザクロ。初秋のこの季節、市場のみならず道路脇には、ザクロを荷台に山積みにした小型トラックが多く見られるようになる。ザクロはペルシャ語で「アーナール」。

そして、アーナールと共に、秋になると「ペルシャの市場」に登場するのがアングール(ブドウ)である。

イランは知る人ぞ知るブドウの名産地。イランでは約30種類のブドウが市場に出回っている。生のブドウの実も勿論だが、ミックス・ナッツに含まれるレーズンもなかなか美味である。

イランへブドウが伝わったのは古代ペルシャ時代、エジプトから。

そして、シルクロード、中国を通って葡萄は我が国へともたらされた。

実は日本語の「ブドウ」という名前、ペルシャ語が語源だということをご存知の方は少ないのではないだろうか。ただ、ペルシャ語とは言っても、古代ペルシャ語、である。

アケメネス朝時代、ペルシャ帝国のフェルガーナ(現在のウズベキスタン)地方で、「ブータウ」と呼ばれていた品種が中国へともたらされ、中国で音写された「葡萄」という名前が、日本語にも採用されたのである。

シルクロードを通って古代のペルシャから日本へもたらされたものは、伝統・文化を見ても数多くあるが、広義の意味でのペルシャからもたらされた食材も、古代の文化交流の跡のひとつであろう。

またブドウと言えば、ワイン。有名なシラーズ・ワインは、イラン南西部の都市シーラーズにちなんで付けられた。シーラーズはもともとブドウの産地として有名で、イスラーム革命(1979年)前にはワインの名産地としても知られていた。

アルコール類が完全にご法度である現在のイランでは、シーラーズ産のブドウは、ワインの原料として海外へ輸出されているそうだ。


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良いものだと分かれば、良い品種ならばなおさら「種」は一世代でたちまち拡散します。

所詮、四六時中見回り個人で独占する事などできないからです。

 特に、干しブドウは有難いもので、黄檗宗僧侶の僧侶河口慧海の「チベット旅行記」を持ち出すまでもなく、旅行に最適な携行食でもあったのです。

 では、勝沼にブドウを持ち込んだのはいかなる人々だったのでしょう。

 その前に、勝沼に於けるぶどう栽培はいつまで遡れるのでしょうか?


甲州(ぶどう)

甲州種の原産地はヨーロッパであるとされ、日本での甲州種の発見時期には甲州市勝沼地域の上岩崎・下岩崎を発祥とする2つの伝承がある。

一方の説は、文治2年(1186年)上岩崎の雨宮勘解由(あめみやかげゆ)という人物が、毎年327日に行われる石尊祭りに参加するために村内の山道を歩いていたところ、珍しい蔓草を発見したとする説である。雨宮勘解由はこの蔓草を家へ持ち帰って植えたところ、5年後に甘い果実がなったという。もう片方の説は雨宮勘解由に遡ること500年あまり、奈良時代の大僧行基がこの地に大善寺を建立した際に、ぶどうの木を発見したとする説である。これらの種が現在の甲州種であるとされている。ヨーロッパ原産の甲州種がこれほど古くからこの地区にあるのかなど、謎の部分が多い。江戸時代初期の甲斐の医師である永田徳本が、現在行われているぶどう棚による栽培法を考案したと言われている。

戦国期には日本におけるぶどう栽培を記した宣教師日記があるものの、考古学的には盆地西部の大師東丹保遺跡から中世の野生種ぶどうが出土した事例があるのみである。甲府城下町からは栽培種ぶどうが出土しているが、考古学的な栽培種葡萄の移入経緯は解明されていない。文献史料においては江戸期には葡萄をはじめ桃、梨、柿、林檎、栗、石榴、銀杏(または胡桃)の甲州八珍果と呼ばれる内陸性気候に適応した果樹栽培が行われ地域産物として定着しており、荻生徂徠『甲州紀行』などの紀行文や『甲斐国志』などの地誌類には勝沼がぶどうの産地であることが記されており、食の図鑑である『本朝食鑑』や農学者としても知られる佐藤信淵らの紀行文中でも甲州物産の第一に挙げられている。

江戸時代の長者ランキング「日本長者分限帳」天保7年(1836年)には西の前頭に甲州の大金持ち、大金屋善四郎がぶどうで財を成したとあるが、日本テレビ「木曜スペシャル」による調査では郷土史などで名前を発見することはできなかった。

また、俳人松尾芭蕉は「勝沼や 馬子も葡萄を食ひながら」の句を詠んでいる。正徳年間の検地帳によれば栽培地は八代郡上岩崎、下岩崎、山梨郡勝沼村、菱山村のごく限られた地域であったが、江戸など都市部を市場としてぶどうや加工品が生産され、甲州街道を通じて荷駄で江戸へ搬送された。江戸後期には栽培地が甲府近郊に拡大し、明治には殖産興業により産業化する。

ウィキペディア(2016 1306による


ぶどう寺のご住職のお話によると、この記事も部分的に混乱しているところがあるとのお話であり、雨宮勘解由の話にしてもぶどう寺の境内地との事であり、もう少し詳しく調べる価値(必要ではなく)があるだろうと思います。

 一般的には、米こそが主要作物であり、その増産にやっきになっていた藩政時代にぶどうの生産が推奨されるなどあり得ない話であり、ましてや山国の甲斐の事、その事情はさらに大きいはずで、とてもぶどうの生産などと考えてはいたのですが、ぶどう寺を行基が造ったという話、その時代まで栽培種のぶどうが勝沼の地に息づいていた事、水捌けのよい傾斜地(通常の作物の適地ではない事)を合わせ考えると、最低でも八世紀前後まで十分に辿れるのではないかと思うものです。

 そう考えるのは、大善寺が行基の時代に建立されたという話が本当であれば、その時に御本尊のぶどう薬師=薬師如来像がなかったなどとは考えにくいのであって、寺があるから御本尊が造られるのではなく、御本尊があるからこそ雨風を遮る覆いを掛けようとするのが道理であるからです。

 少なくとも、ぶどう寺=大善寺が建立された時点では特にぶどうを意識し民衆に豊かさと惠とを伝えようとする思想と、それを体現した甘いそれこそぶどう糖を与えてくれる薬師如来像が造られたと考える事は理に叶う事のように思えるのです。


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