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440(前) 安 保(アボ) “「船王後墓誌」に見る「青」地名”

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440(前) 安 保(アボ) “「船王後墓誌」に見る「青」地名”

ひぼろぎ逍遥、ひぼろぎ逍遥(跡宮)共通掲載

20170126再編集(20100409

太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


340-1

民俗学者の谷川健一といえば、『青銅の神の足跡』『白鳥伝説』などで著名であるこというまでもありません。古代史を探求する人々のなかにも、少なからずこの傍流の探求者の影響が底深く浸透していることについては否定することができないでしょう。

ただ、吐き気を催すような『東日流外三郡誌』偽書問題の空騒ぎでは、歳の功からか?学者諸氏の先頭に名を連ね祀り上げられたことでも知られています。はたしてそれが、誠実な学者の姿勢を示したものだったものか、ただの御用学者どもが尻尾を振った揃い踏みに加わったものに過ぎなかったのだったかは将来に待つこととし、ここでは、氏の業績として良く知られた地名の研究から話を始めることにしましょう。

氏は沖縄など南西諸島に数多く分布する奥武(オウ)島や青の音の付く地名の研究から、本土の「青」地名は古代まで遡る葬地ではなかったかとしたのです。

※奥武島は南城市、久米島、座間味村、名護市など


谷川健一の「青」論


 詳しくは氏の著作その他に当たられるとして、ここではその一端を引用します。


 …沖縄では青の島は死者の葬られた島につけられた名前である。習俗の中で葬制はもっとも変化しにくいものである。もし本土の海岸や湖沼に「青」を冠した地名があり、そこが埋葬地と関係があり、また、海人の生活をいとなんでいるならば、南方渡来の民族が移動して、本土の海辺部に定着した痕跡をたしかめる手がかりを得るのではないかと私は考えた。…


…たとえば鳥取市の西にあたる湖山池(こやま)の南岸には、青島が浮かんでいる。そこは縄文、弥生、古墳期にわたる遺物を出土している小島である。この湖山池には江戸時代に水が汚されるという理由から、火葬の灰を流すことを禁じた法令が出たといわれている。つまり、青島がかつては水葬の地であったことを暗示させる風習が江戸時代までつづいていた。湖山池より更に西の東郷池の浅津(あそうず)ではかつて墓のない村が八百戸もあり、火葬したのちに遺骨の一部を残して他の遺骨や灰を東郷池に捨てたという。田中新次郎はこれを水葬の名残と見ている。…


『日本の地名』(岩波新書)から“沖縄の青の島”


…対馬の西海岸にある青海(おうみ)という集落では、埋め墓は波打ち際にあり、詣り墓、供養する石塔は、すぐそばのお寺にある。したがって、死体そのものは波にさらわれていくのに任せるのである。…


近著『民俗学の愉楽』(現代書館)から“青の島とようどれ”


船王後墓誌と安保(アボ)


船王後(船氏王後)墓誌は江戸時代に柏原市松岳山古墳の墳丘上部から出土した約30cmの銅製の板で表と裏に一六二の文字が刻まれていますが、錆によって完全な判読は難しいとされています。ただ、裏の方は保存程度が良く、ある程度は読めるようです。

 この船氏は河内国丹比郡を本拠とする渡来系氏族といわれ、その王後は舒明天皇から冠位第三等の位を授けられたとされています。

 一応、現存する最古の墓誌であり、山城国の小野毛人の墓誌とともに注目されていることはいうまでもありません。

これに関して、東京古田会ニュースNO.13120103月)に古田武彦氏による「近世出土の金石文(銘板)と日本歴史の骨格」という論文が掲載されました。ただ、この趣旨は今回私が述べようとするものとは別のものになりますので、一般的な未読の方も考えて概略を紹介しておきます。


 その第二は、「船王後墓誌」である。大阪府柏原市の古墳から出土し、現在三井高遂氏の所蔵となっている。

 「惟船氏故 王後首者是船氏中祖 (中略) 即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也」の長文である。その中には三人の天皇と、当人船王後との関連が語られている。

 辛丑(641)十二月三日が「庚寅」。夫の死。戊辰年(668)が妻の死。干支との関係から、「時限」が特定できる。ところが、関連する天皇名は

 ①(おさだ)宮 ②等由羅(とゆら)宮 ③阿須迦(あすか)宮 

 の三天皇であるが、従来当てられてきた三天皇(敏達・推古・舒明)とは、ピッタリ"対応"はしていない。たとえば、阿須迦天皇は推古でなく、舒明に当てざるをえない、等である。

 その上、致命的なのは三天皇間の用明・崇峻・皇極・孝徳・斉明・天智(585671)等の天皇名がすべて「無視」されている点である。この銘版は「天皇名と当人との対応」が主眼である点から見れば、不可解である。

 さらに、当の船王後が「大仁」にして「品第三」という顕官であるのに、日本書紀に一切その名が出てこないのである。

 以上、2例とも「同時代史料」としての銘版は(金石文)と、日本書紀・続日本紀が一致しないこと、この事実は何を物語るか。他でもない。日本書紀・続日本紀の側の「造作性」と「虚構性」をしめす。この帰結以外にはない。 


2009103日 近世出土の金石文(銘版)と日本歴史の骨格 古田武彦


同日 東北大学文学部で行われた日本思想史研究会10月例会で報告(『年報日本思想史』第9号に、収録予定。) 


 さて、古代史よりも地名や民俗学に関心を寄せる者として、また、地名研究の側面から古代史に近接しようとする者として、この古田論文に書かれていた原文にしばし釘付けとなりました。驚いたのは、大変失礼ながら先生の論旨である記紀の矛盾などではありません(その点についてはただただ傾聴するのみです)。

私の関心事は、「即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也」の「安保」とは墓、墓所、葬地を意味しているのではないかという一点でした。六〇年安保の安保ですから、勢い、安らかに保ちとか解釈しそうですが、そのような意味ではないように思うのです。 

若輩者による我流の読みとしては、「即ち安保(アボ)をなす。万代への霊基は牢固(しっかりしていて)にして、永劫(未来永劫までの)の宝地なり」となるのですが、当然にも動詞は「為す」となり、同時につくるという意味を持ってもいます。

要するに、ここに書かれている「安保」とは文の流れからしても、墓、聖地の意味ではないかと考えたのです。

 では、安保(アボ)を本当に墓所と葬地と考えられるのでしょうか?

実は、実際に安保という表記の地名があるのです。一般的に、青地名は日本海側に特に多く、山口県長門市仙崎港沖の青海島、丹後半島は舟屋で有名な伊根の青島(アオシマ)、福井県小浜市の蒼島など数多く認められますが、「アボ」と読める地名を九州で数例を確認しているのです。ご紹介しましょう。


安 保(アボ) “天草上島と長崎市香焼に残る古代の葬地名”


奇妙な地名対応


長崎市香焼町の東海岸に安保(アボ)と梅ノ木という地名があります。

ところが、熊本県の天草上島の不知火海に面した旧栖本町、倉岳町の境界にも、阿房(アボ)、阿保(アボ)と梅ノ木という同様の地名群が存在するのです。

まず、表記は異なるもののアボと呼ばれる全く同じ地名が離れた場所にあり、同様に複数の関連地名が近接してある場合、ただの偶然として済ますことはできません。 


長崎市香焼町 東海岸一帯の安保(アボ)、梅ノ木「長崎県広域・詳細道路地図」昭文社


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※ 昭文社の道路マップを使用していますが、著作権の問題があり、解像度を極限まで落としています。


天草上島の南海岸、旧栖本町、倉岳町境界の阿房(アボ)、阿保(アボ)、梅ノ木

同じく「熊本県広域・詳細道路地図」昭文社


440-3

このあまりにも不思議な地名対応についてひとつの仮説を立てました。まず、…

1)阿房、阿保、安保と表記されるものの、等しくアボと呼ばれていることから、恐らく、谷川健一によって提唱された葬地としての青(アオ)地名であり、古くは水葬がおこなわれていた土地、場所と考えられるのではないか。 

2)近接する梅ノ木という地名は、この水葬が禁止され埋墓に切り替えられたものではないか。

3)梅ノ木地名は、青地名が単独で存在する場合は、水葬地が同一の場所で埋葬墓に切り替えられたとも考えられるが、近接して並存する場合は水葬地が埋葬の不適地であったため別の地を求めた可能性もあり、水葬と埋葬が並存した時期があったとも考えられる。

4)アボは青(アオ)地名の変化形であり、粟、安保、安房、阿保、阿房、檍…と表記されている。当然にも同じ言語文化や葬送儀礼を持った民族集団が移動したと考えられる。


アボと梅ノ木


もしも、この想定が正しければ、既に久留米地名研究会で“高良岬の麓から”33.青木(アオキ)として書いた青地名の説明が必要になってきます。それは同稿を読まれるとしても、青と言えば、当然にも大家谷川健一を無視することはできません。谷川氏は安保(アボ)という表記のアオ地名を取り上げていないため、阿房、阿保を含めたアボ地名なるものは地名研究にも先例がないものであり、未知の分野に入り込んだことになります。

 また、アボと梅ノ木(恐らく埋ノ木)の組合せはあまりにもできすぎた話ですが、この例は外にもあるようです。もとより、単独での梅ノ木地名は多くの例があるのですが、宮崎県小林市と高原町の境界に蛇行して流れる辻ノ堂川左岸の小林側に阿母ケ平鉱泉があり、右岸の高原側に梅ノ久保という地名があるのです。ここではこのような地名対応がほかにも存在していることだけをお知らせしておきます。


天草の阿保、阿房


アオではなく、アボと呼ばれる地があることは、江ノ島(現長崎県西海市)のアボ鼻や屋久島の阿房(ここには粟生という地名もあります)を始めとして知っていましたが、前述の天草の阿保も釣りで何度も訪れていたところから以前からなじみのある土地ではありました。

しかし、最近になって長崎市香焼の安保がアボと呼ばれていることを地元教育委員会に確認し、さらに、両方に梅ノ木があることに気づいて以降、一刻も早く現地を踏み確認したいという思いにかられていました。

二〇〇九年夏、ようやく機会を得て佐賀から有明海大迂回のコースで天草上島に向かいました。

阿保、阿房は直ぐに見つかります。まず、地図を見ると、旧栖本町側に阿保というバス停があり、阿房は旧倉岳町側にある地名のようです。

現地に着いて直ぐに傍らの家を訪ねて数人のご老人からお話をお聴きすると、

 阿保は入江の西側通路沿いにあり栖本町の集落である

 二十年ほど前までは入江東側の倉岳側にも数戸の家があった

 阿保は漁業権のない集落で、船大工、漁具作り、鉱泉を沸かして訪れる漁師などから湯銭を取っていた

 湾奥には農業を行う家が数戸ある

 一人の老女から「嫁いだ頃、昔は刑場だったという話をお爺さんから聴いたことがある」という話を採集した。

と、いったことが確認できました。八十歳近いご老人からの話ですから、今のうちに採集しておかなければ、恐らく十年程度で散逸する話ですから非常に貴重です。

ここで重要と思うのは、恰好の入江のある集落であるにも関わらず、漁師は全くいない、つまり、漁業権をもたない集落であったという事です。

谷川健一の『日本の地名』にも、「地先の海の権利は地元の漁民がにぎっており、…」

(ソリコ船に乗ってやって来た人々)と、ある種の差別を受けた漁師集落の話が出てきますが、そのような人々であったからこそ、辺鄙な村境にしか住むことが許されなかったのであり、不要になった土地だったことが推察されたのです。そして、決め手は全くないものの、この地が、かつて、水葬が行われていた場所ではなかったかという想いが一層深まったのでした。

次に梅ノ木に向かいました。梅ノ木(埋ノ木)が水葬を禁止された後の埋葬地であるという推定はあまりにも安直で信じがたいものですが、なによりも現地を見るべきでしょう。

しかし、実際のところ驚きました。小高い小丘に濃厚な墓地があったのです。聴取りはこれからですが、確信は一層強いものになったことだけは申し上げて良いと思います。


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