474 筑後にも長脛彦を祀る神社が存在していた “福岡県うきは市吉井町熊野神社”
20170419
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
2017年4月14日~16日に掛けて往復1100キロを二泊三日の行程で 島根県奥出雲町の4つのニギハヤヒ系神社調査を行ってきましたが、その過程で長脛彦の別名である天香香背男(アメノカガセオ)、星神香香背男(ホシノカガセオ)、香香背男(カガセオ)祭祀が出雲にも存在している事に気付きました。
そこで、改めてネット検索を試みると、これまで天津甕星祭祀は北関東のものとの認識でしたが、それが日田市の隣町のうきは市吉井町の賀茂神社にあり、九州でも福岡、佐賀、熊本に三ケ所、大分県に二ケ所存在している事に気付いたのでした。
なぜ、これがそれほど重要かを知って頂くためには、まず、長脛彦を認識してもらう必要があるでしょう。
長脛彦
『古事記』では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。安日彦(あびひこ)という兄弟がいるとされる。
饒速日命の手によって殺された、或いは失脚後に故地に留まり死去したともされているが、東征前に政情不安から太陽に対して弓を引く神事を行ったという東征にも関与していた可能性をも匂わせる故地の候補地の伝承、自らを後裔と主張する矢追氏による自死したという説もある。
旧添下郡鳥見郷(現生駒市北部・奈良市富雄地方)付近、あるいは桜井市付近に勢力を持った豪族という説もある。なお、長髄とは記紀では邑の名であるとされている。
ウィキペディア(20170419 07:20)による
島根県仁多郡奥出雲町亀嵩1284 湯野神社
祭神 大己貴命、少彦名命、迩迩藝命、事代主命
合祀 三保津比賣命、大年神、御年神、若年神、香香背男命、素盞嗚命、國常立命、國狹槌命、豐斟渟命、武甕槌命
香香背男を祀っている神社
福岡県浮羽郡吉井町大字福益1358 熊野神社摂社三光神社「天照皇大神 配 月讀神、天加賀世男神」
佐賀県鹿島市大字三河内丙1 三嶽神社 「廣國押建金日命 合 星神ほか」
熊本県阿蘇郡南小国町赤馬場2364 冠神社 「阿蘇大神 合 大年神、星神」
大分県佐伯市大字鶴望2421番地 星宮神社 「香香世男大神ほか」
大分県佐伯市大字守後浦44番地 産靈神社 「天香香背男神」
この長脛彦祭祀については、本物(神武僭称崇神ではない)のカムヤマトイワレヒコと衝突した、スサノウと櫛稲田姫との直系長子という栄えある逆賊の痕跡だけに、注目せざるを得ないのですが、三光神社が大阪の真田丸跡地にあることから、もしかしたら幸村贔屓により関西から持ち込まれた可能性もあり慎重に考えるべきかも知れません。
現在、この長脛彦祭祀については、南薩摩の坊津の船戸神社と北薩摩の出水市(旧野田町)の熊野神社を発見しており、ひぼろぎ逍遥(跡宮)から以下の二本をお読みください。
坊津の船戸神社の「船戸」は岐神(クナトノカミ)のクナトの置換えですね。
福岡県神社誌中巻252p~
「福岡県神社誌」によれば、祭神はイザナミ、速玉男命(大幡主)、事解男命(金山彦)、大山祗命ということになり(イザナミはイザナギと別れ大幡主のお妃となっています)紛れもない熊野神社です。
さて、懸案の長脛彦です。
そもそも1776年になぜ勧請されたのかが不明ですが、とりあえず起源が新しいとすれば、天加賀世男が元々は祀られていなかった事から一応謎は解けたことになります。
この三光宮という摂社を勧請した人々が、この天加賀世男神に所縁のある人々だったのかです。
神武天皇に対立した富の長脛彦を奉斎する人々は、スサノウと櫛稲田姫との直系の一族の後裔になる訳で、付近を見ると、福富小、中学校(福富:しこ名)があり、富永(吉井町)という集落がある事に気付きます。また、「福岡県神社誌」中巻213pの「賀茂神社」を読むと富郷が書かれており、古くは富郷と呼ばれていた事が分かります。
ここでは筑後で那賀須泥毘古、登美能那賀須泥毘古を探る基礎調査の一環をお知らせした事になります。
百嶋由一郎「三宝荒神系譜」神代系譜
そもそも櫛稲田姫は金山彦(瀛氏)と埴安姫(大幡主系白族)との間に産れていますから、長脛彦は瀛氏の正統後裔氏族であることが分かります。
その民族対立の結果、列島王権が成立していく事が分かります。
勿論、その氏族は中国や半島のように根絶やしにされる事は無く共存が図られていったのです。
研究目的で百嶋由一郎氏の資料(音声CD,系譜…)を必要とされる方は09062983254までご連絡下さい