473 山口県美祢市厚保の神功皇后神社
20170417
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
高速は関門橋周辺のみの利用で、往復1100キロを二泊三日で走り抜き 島根県奥出雲町の4つのニギハヤヒ系神社の調査を終えて九州に戻る途中、JR美祢線の厚保(アツ)駅、中国自動車道美祢西ICに近い神功皇后神社を見せて頂きました。
下関の忌宮の勧請神社でありそれほど古い神社ではない事は直ぐに分かりました。
それは、境内に古い神様が残されていない(摂社、末社、分社…)事からも明らかです。
ただ、神殿脇に天満宮が残されている事だけが気になります。
菅原道真はスサノウ(実際には長脛彦)系と大幡主(実際にはヤタガラス)系の本家同志により産まれていると百嶋由一郎氏は話されていましたが、この一帯には後者に関連する地名がかなり拾えることから、この天満宮が先行して存在していたところに忌宮の神々が持ち込まれたものと思われます。
当の忌宮も、本来は忌=瀛(イン)部の神社なのですが(九州王朝最後の天皇である若宮も祀られている)、その構造がそのまま持ち込まれ、とりわけ道真を祀るとする天満宮が神殿脇に摂社として残されたもののように見えるのです。
この神社自体にはこれといった謎はないのですが、この神社の前には古代官道が通っていたと考えられます。
詳しく触れるつもりはありませんが、恐らく九州王朝の古代官道の延長と思われるものが、この地から東と北に延びていたようです。
これについては、ひぼろぎ逍遥446~450で概略を書いていますが、この山口県下にもその痕跡があるのです。
一つは九州で筑後から肥後に掛けて数多く拾える古代官道地名の「車路」「車地」に対応する「車地」がそのまま国道2号線に存在するのです。
このことは、国道2号線は九州王朝の古代官道をベースに造られている可能性があるのです。
美東町の「鞍掛」も官道地名なのですが、これは時代もコースも異なるようです。
そこで、JR美祢線の厚保(あつ)駅に置かれた掲示板をお読み頂きましょう。
話が拡散して申し訳ないのですが、どうも気になるのでコメントを加えておきたいと思います。
「阿」は湿地の意味で「津」は交通位置を示す地名であったあったようだ。と書かれていますが、「阿津」(アツ)自体が湿地を意味していると考えます。
関東に、世田谷、渋谷、保土ヶ谷、日比谷…と「谷」と書き「ヤ」と発音する地名が数多くある事はどなたもお分かり頂けるでしょう。関東の台地の浸食谷の湿地がヤツ、ヤチなのですが、この厚保も厚狭川の氾濫地であり「ヤツ」と呼ばれてもおかしくない地形です。「阿」ではなく「阿津」が湿地なのです。
この「谷」(ヤ)地名は、本来、「ヤツ」「ヤッ」「ヤッツ」「ヤチ」「ヤト」…と呼ばれるもので、後に「ツ」以下の部分が省略され脱落したものでしょう。
ただ、「ヤツ」(YATU)が「アツ」(ATU)と発音されていたもしくは転化(変化)したものに思えるのですが、「アツ」→「ヤツ」なのか?「ヤツ」→「アツ」なのか?は、なお、不明です。
それは、関東の「ヤツ」地名が鹿児島でも拾えるからです。
一例ですが、 鹿児島県出水市野田町下名の「屋地」(ヤヂ)です。
島津氏には下向説、土着説もあり、関東系の敗残者が島津に墜ちた可能性もあるのですが、鹿児島県のヤツ、ヤチ…地名はそれほど少ないものでもなく、むしろ南から北、東へと展開した可能性も考える必要性があるのです。
この「厚保」の隣には「伊佐」(鹿児島県伊佐市)という地名もあり、薩摩との関係も意識せざるを得ません。そもそも、美祢市の「美祢」も佐賀県の旧「三根」郡に対応しますし、九州との関係は濃厚です。
10世紀の延喜式に「阿津」(アツ)とあり、「厚保」となったのは後の事である。「保」は公地の行政単位の庄、郷、保とあり、その保で後に「厚」を後で加えものであるという。
も違和感が付き纏います。
福岡県小郡市大保に「大保」があり、飯塚市「大分八幡宮」があり、大分「だいぶ」と読み太傅(天子の師傅となる官)の事である。すなわちここは天子の養育に携わる府が置かれた場所である(「大伝府」)。
太宰府は言うまでもない訳で、大保(オオホではなくオオフと呼んでいた可能性もあるのです。
仮に「保」が行政用語としても、「厚保」の「厚」は「阿津」の「阿津保」では三文字になるため、所謂、好字令により「阿津保」は「厚保」と換えた可能性を考えてしまいます。
JR美祢線厚保駅は「あつ」駅と呼ばれているのです
九州の「車路」地名をご紹介しておきましょう。勿論、これ以外にもあります。
PP「駛馬」(はやめ)“ はやめは古代の駅? ”から(上) 宇部市の2号線「車地」(下)