480 海から追われた大山祗命 “大分県玖珠町の三島神社”
20170421
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
あまり知られていませんが、日田から宇佐への間に玖珠町(JR豊後森駅)があり三島神社があります。
それは、この神社が三島神社ではなく末廣神社と呼ばれているからかも知れません。
末広神社への参道ですが登城道路ですね
末広神社(三島神社) カーナビ検索 大分県玖珠郡玖珠町大字森864 ℡0973-72-4792
角埋山に角牟礼城があり森地名が存在する正に大山祗の本拠地です(意味は後述)
まず、大分県には所謂神社誌がないため、いつも見せて頂いているサイトからご紹介させて頂きます。
末廣神社(玖珠町森)【訪問日】西暦2009年1月11日
【場所】大分県玖珠郡玖珠町大字森864番【祭神】天御中主神、大山積神
末廣神社は童話の里で有名な玖珠町森の角群山麓に鎮座する。神社周辺は三島公園として整備されている。
神社正参道入口となる神社北側の清水御門。門に向かって左側の土手から年中涸れることなく清水が沸いていることからこの名で呼ばれる。豊後森藩久留島家は石高が少ないことから築城を許されずこの一帯を森陣屋として藩政を行っていたが、八代藩主久留島道嘉が神社改築を口実に城門に見立てたこの清水御門を始め、石垣や庭園、天守閣に見立てた二階建ての茶屋など大規模な造営を行った。
創始は慶長六年(1601年)、瀬戸内海水軍村上氏の流れを汲む久留島氏が豊後森藩一万四千石に移封された際、出身の伊豫国一宮で大三島に鎮座する三島宮(現在の 【大山祇神社】 )を勧請して藩の守護神としたのが始まり。明治五年に当地方で以前から祀られていた妙見宮を合祀、翌6年には社名を末廣神社と改称した。
拝殿に架かる神額。『日本総鎮守』とは、平安時代に朝廷から大三島の大山祇神社に下賜された号。本社の【大山祇神社】は古くより山、海を司るとともに戦の神としても崇められ、朝廷や武士から広く信仰された。…中略…本殿大棟には「折敷に縮三文字」の社紋。豊後森藩主久留島家も同じ紋を家紋としていた。以下…略載…
豊後森藩の久留島氏と言えば元は伊予の来島水軍の頭目であり、豊臣時代に一万数千石の大名となっています。
秀吉の朝鮮出兵時に水軍の将として出兵し李舜臣と戦い兄弟で戦死しています。
この来島氏は徳川時代に久留島と改姓し、伊予から九州の山中に移されこの豊後森の一万石ほどの小大名となっているのです。
どう考えても、豊臣政権下から始まる鎖国政策の延長上に海賊(水軍)を根絶し、徳川時代に入っても幕府が外国貿易を独占(鎖国)しようとしたことから排除された様に見えるのです。
熊野の九鬼水軍と同様に、久留島氏も海と切断された山奥に閉じ込められた事は間違いないようです。
さて、末廣神社ですが「ぐんさん物見遊山記」にも書かれているとおり、元は三島神社でしかなく、それも高々四〇〇年程度のもので、祭神にしても在地神は天御中主命(これについは現在も末廣神社の正面に妙見社があることからも分かります)は明治期に持ち込まれたもので、元は大山積神(大山祗命)が単独で祀られていた事が分かります。
では、参拝殿を見て頂きましょう。
当初、大三島に天御中主神(白族)祭祀はないと理解していましたので大山積神(越智族)との祭祀には多少違和感を持ちましたが、考えれば母神(父神はウマシアシカビヒコチ)であることから氷解します。
秋葉社は言うまでもなく金山彦であり輪遇突智命と書かれていますが、軻遇突智が輪遇突智と書かれているのは初見です。
しかし、豊後で宇佐八幡神宮の応神が絡んでいない神社は清々しい感じがします。
市杵島姫が姫大神で多少は嚙んでいるのですが、やはり、愛媛の大三島の大山祗神社が九州のど真ん中に持ち上げられた事から応神が進出する間がなかったのでしょう(この時期には応神の権威などない)。
さて、ここまではどなたも理解して頂ける話ですが、ここから先は部分的にも百嶋神社考古学に触れた方でなければ理解して頂けない禁断の領域に入る事になります。
百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
ウマシアシカビヒコチは政治的配慮で隠されていますが、祭神の二柱(黄枠)と五社殿の五柱(青枠)が、大山祗系(実はトルコ系匈奴)と瀛氏、白族、スサノウ系の重要な神様が揃い踏みとなっています。
詳しく見て行けば、この配神にも来島一族にとってはもっと深い意味があるような気がするのですが、今のところ分かりません。
この話はここまでですが、大山祗系が実はトルコ系匈奴(ウマシアシカビヒコチ=伽耶金海の金越智)であるという事を百嶋先生から聴かされています。
同氏は熊本県現和水町の江田船山古墳出土の鏡(象嵌太刀ではない)の文字(金石文)の解読から、この鏡を造った一族(典曹人…)がモンゴル高原から進出してきた人々である事を書き遺しています。
そして、室、諸、群、無礼、牟礼…がそのメルクマールとなる事に気付いておられたのです。
久留米の高良大社が鎮座する高良山はかつて高牟礼山と呼ばれていましたし、日向や薩摩から豊後大野一帯、周防の防府市一帯、国東半島…とこの「群」地名が数多く分布しており、これがシルクロード一帯で使われた集落、砦、村…に当たる概念でそれが村となっている事までもが見えて来るのです。
そこで、冒頭の地図をご覧ください。来島一族が持ち込んだ後発の地名なのか、元々あった地名なのかは不明ですが、角埋(ツノムレ)山に角牟礼(ツノムレ)城が築かれているのです。
久留島(来島)一族は肥前(長崎県)の彼杵郡大村藩(現大村市)にも入っていますが、この大村湾、大村藩自体が「群」(ムレ、ムロ、ムル、ムラ…)地名の「村」である事がお分かり頂けるでしょう。
ここは、捕鯨の基地でもあったのですが、それ自体がそもそも来島水軍の統制の取れた軍事行動(艦隊行動)としての操船でもあったのです。
だからこそ競艇大村ボートも置かれたのですが、ここで面白い事に気付きます。
競艇発祥の地、大村競艇と言えば思い出すのは競艇日記の蛭子さん(今はバス旅タレント)ですね。
彼は天草牛深の出身で長崎の商業高校を出てガロで漫画家としてデビューしますが、百嶋神社考古学では恵比須さんは事代主命(古々代ヘブライ)になります。
まさに恵比須顔
静岡の三島神社は大山祗から事代主に替わりまた併祀されたのですが、恵比須さんの下剋上と表現されたのも百嶋先生でした。
最後に大山祗と言う山の神様が何故伊予の大三島に祀られたのか、しかも、それがトルコ系匈奴とはとお考えの方がおられると思います。
実は大三島の大山祗神社にも痕跡があるのですが、博多の櫛田神社の大幡主命という海人族を支配する神と陸上戦を支配する馬を使う大山祗との擬神体を形成しており、海軍と陸軍の統合軍の意味も備えていたのです。従って配下には海人族が支える構造が存在していたのです。
なお、ひぼろぎ逍遥 スポット088 大山祇神社史料が伝える孝霊天皇 安城市 山田 裕
をオンエアしています。これはメンバーの山田 裕氏による 伊予の三島の大山祇神社の精緻な研究ですので関心をお持ちの方はお読み頂きたいと思います。
祭神として松尾社(大山咋)があることは気づきませんでしたが、また、参拝することもあるでしょう
天御中主命と大山積神とは母と子に当たり、現在も、末廣神社正面に天御中主命を祀る神社が存在します。
研究目的で百嶋由一郎氏の資料(音声CD,系譜…)を必要とされる方は09062983254までご連絡下さい