532 但 馬 (中)
20171014改訂稿(20120211)
太宰府地名研究会 古川 清久
もう一つの例を考えましょう。佐用都姫の話です。
これも但馬の養父市の調査を終えた帰りの新幹線に乗る前の時間に見に行ったところです。
佐用都比賣神社
但馬ではありませんが、播磨の国に佐用町(たつの市の西)があり、佐用都比売神社があります。
神社縁起には、祭神を狭依毘売命(サヨツヒメ)として、ご祭神 狭依毘売命、又の御名市杵嶋姫命。相殿 素盞鳴大神・大国主大神・春日大神・八幡大神を合わせ祀。
創立は太古にて、続日本後記に『第五十四代仁明天皇嘉祥二年(紀元一五〇七年西紀八四七年)七月官社に預かる』と記されている。
更に延喜式内神明帳に『醍醐天皇の御世縁起式内社に預かる』と記されている。播磨風土記に讃容の郡と言う所以は大神妹背二柱、各競いて国を占めたまう時、妹、玉津日女命臥せる生鹿を捕えて其の腹を割きて、其の血を種とまく。
忽ち一夜の間に苗生いぬ。即ち取り殖えしめきここに大神、汝妹は五月夜殖るかもと勅りたまい、他処に去りましき。故に、五月夜郷と号ふ。神の賛用都比売命、今讃容の町田に有り。と記されている。古来当地方の開祖佐用姫大明神といい、昔は御神領地が七町七反もあり、宮祭されていたものであるが、豊臣の兵火にてことごとく焼失し、衰微したが、農業・商業・武術・安産・縁結・鎮火の神として広く信仰されて来た。(以下略載古川)兵庫県佐用郡佐用町本位田甲261
この宝珠の功徳により、佐用姫は不老不死となり、後に、竹生島へ赴き、弁天様(市杵島姫の別名でもあります)として祀られたのです。松浦にも「佐用姫伝説」がありますが、まず「万葉集」巻第五に五首
松浦県佐用姫の子が領巾振りし山の名のみや聞きつつ居らむ
遠つ人松浦佐用姫夫恋ひに領巾振りしより負へる山の名
山の名と言ひ継げとかも佐用姫がこの山の上に領巾を振りけむ
万代に語り継げしこの岳に領巾振りけらし松浦佐用姫
海原の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用姫
恋人が船で去っていくのを、袖を振って見つめる姫が、そのうち石と化してしまった…。
肥前松浦で袖を振るといえば、「肥前国風土記」にこんな話しがあります。
褶振の峰 郡役所の東にある、とぶひのある場所の名を褶振の峰という。大伴狭手彦連が船出して任那に渡ったとき、弟日姫子はここに登って褶をもって振りながら別れを惜しんだ。そのことによって名付けて褶振の峰という。さて弟日姫子が狭手彦連と別れて五日たった後、ひとりの人があって、夜ごとに来て女とともに寝、暁になると早く帰った。顔かたちが狭手彦に似ていた。女はそれを不思議に思ってじっとしていることができず、ひそかにつむいだ麻の糸をもってその人の衣服の裾につなぎ、麻のまにまに尋ねて行くと、この峰の沼のほとりに来て寝ている蛇があった。身は人で沼の底に沈み、頭は蛇で沼の岸に臥していた。たちまちに人と化為って歌っていった。
これは佐用姫伝説です。播磨の佐用町、佐用津比売神社が、松浦佐用(代)姫と同一であり、佐用姫伝説を持ち込んだ氏族が、九州北岸をルーツとしていることは明瞭に思えます。なによりも、呼子の田島神社には佐用姫神社まであるのですから。ただ、現在の肥前の唐津の佐用姫伝説は後代のものです。
詳しく調べていないので良く分からないのですが、なぜか、宗像大社はもとより、田島神社に於いても、佐用姫を市杵島姫とは別扱いにしているようです。
ここにはなんらかの古代史の暗闘を感じるのですが、この点、播磨の佐用都媛神社では「佐用都媛の又の名を市杵島姫命」として表面に出しています。
播磨はともかくも、少なくとも但馬においては、その一国の名さえも左右するほどの規模で九州北岸の海人族が入り、他の地名から見ても北部九州の人々が大規模に入っているように見えるのです。ここで、本題の但馬に話を戻します。
養 父
「養父」と書き「ヤブ」と読みますが、養父と言えば、佐賀県鳥栖市の中心部に「養父」町があります。
「但馬に行きなさい。あそこには北部九州の地名がたくさんありますよ、それに、九州弁を話す人もいっぱいいますよ・・・」というアドバイスをしてくれたのは、前述の百嶋先生でした。
ただ、その一言だけに唆され、但馬に入ったのはちょうど一年前の暮れでした(2011年)。
この百嶋先生からの指示である但馬の調査と併せ、養父市の「天子」(宮)地名の調査に入ったのでした(養父の場合はアマコ、ゴと呼ばれていますが)。
新幹線を姫路で降り、たつの市在住の元古田史学の会メンバーのN氏の車に拾ってもらい一路但馬に向かいました。
京都にも天使神社(天子の名を憚るとして変えたものか)があったようです。
現地も踏みましたが、今は五條天満宮とされています。
名古屋、千葉県、茨城県・・・他にもあるようですが、現地を踏んでいませんのでここではこれ以上のことは言えません。
現在まで佐賀県の五社を始め百十を超える天子宮、天子社、天子神社を確認しています。ここに上げたものはほんの一部ということになります。その後も調査が進んだことから、現在まで250~300ほどの天子宮、天子神社、天子社…を確認しています。
次は養父市で最も重要と考えている御井神社です。
養父市大屋町の御井神社
最初の目的地は兵庫県の養父市でした。
これは今なお続けているフィールド・ワークの「天子宮」調査のために同市八鹿町の「天子」という大字名から付された交差点を確認し、その正面にある屋岡神社(これも恐らく天子宮の一つだったのでしょう)を見るためのものでしたが(この「天子」は室町戦国大名の尼子氏に因んでか「あまご」と呼ばれますが)、まずは、肥前国養父郡の「養父」と但馬国の「養父」市を実感した瞬間でした。
そもそも、平成の大合併以前の佐賀県三養基郡の郡域は、旧肥前國三根(みね)養父(やぶ)基肄郡(きい)郡を起源としたものであり、この三郡を合併して三養基郡としたものだったのですが、当時も郡役所は鳥栖町に置かれ、郡名は三郡の頭文字を取ったものでした。このため、当時の郡域は、現在の鳥栖市全域も含んでおり、養父町はその痕跡ということになるのです。
養父市八鹿町の屋岡神社の調査も早々に、次に向かったのは養父市大屋町でした。かなり内陸部に入った山間の小平野といった趣の土地ですが、この地に鎮座するのが、何と御井神社です。
久留米の人々にとって「御井」とは、高良山の麓の「御井」町であり、朝妻の湧水池で有名な味水御井神社の「御井」であり、天台の古刹の御井寺の「御井」が直ぐに頭に浮かんでくることでしょう。
もちろん、近江八景に詠まれた三井寺の鐘の音も、恐らく、久留米の御井寺の移動と考えていますが、ここではふれないことにします。
この御井神社は大屋町の中心地と思しき集落の背後の小山の上に鎮座していました。
田野も宗像に近い手野(テノ、タノ)の地名移動ですね
兵庫県養父市大屋町宮本の御井神社 これは福岡県の旧御井郡の地名移動と言えるでしょう
小型の四駆でもなければとても上がれそうもない急坂でしたので、雪の残る中、凍えながらもゆっくり参道を登りましたが、深い森の中に多くの社殿を持つ大社が鎮座していたのです。
後で地元の方に話を聴くと、“養父市、豊岡市一帯にある御井神社の中心の社”とのこと、まさに、御井の神の中枢に足を踏み入れたことを知ったのです(その後も数回訪問しています)。
そもそも、大屋という地名も、分家に対する本家、一族の中心の意味を持たされたものであり、まさに、大屋町とは御井の神が住む中心との意味を持たされているようです。
権威ある神様サイト「玄松子」にも、「大屋谷十二ヶ村、建屋谷十四ヶ村の総社として崇敬された神社で、岩井牛頭天王社とも称していた。」…
御祭神 御井神
配祀 脚摩乳命 天穂日命 素盞嗚命 手摩乳命 熊野橡日命 田心姫命奇稲田命 天津彦根命 天忍穂耳命 市杵島姫命 活津彦根命 湍津姫命
配祀 大屋彦命 大屋姫命 抓津姫命(神社明細帳) とあります。
脚摩乳命はアシナヅチ=金山彦、手摩乳命はお妃の埴安姫、熊野橡日命はイザナギと別れた後のイザナミ、田心姫命は宗像三女神のお一人、天津彦根命は日子坐命、天忍穂耳命は草部吉見=武甕槌=鹿島大神、宗像三女神のお二人ですが、活津彦根命は活玉依姫の息子か夫神ではないかと思います。
ここにも宗像神、櫛田神社の神をはじめとして、九州でなじみの深い神々が出てきます。
もはや疑うことはできません。この「御井」と「養父」は九州からのものであり、但馬國も養父郡も他の要地の地名もそっくり持ち出されたものであることが分かってきたのでした。
さて、養父市、豊岡市を流れる円山川を少し下ると、志賀直哉の「城崎にて」で著名な城崎温泉がありますが、こうなるとこの「城崎」さえも肥前國の「基肄」郡から付されたものに見えてきます。そう思うのは、城崎温泉のロープウェーが掛かる山の裏側の谷に城崎町「今津」という地名までがあるからです。
もはや、思い込みは押しとどめることが出来なくなりました。福岡市西区「今津」の人々が遠い古代に移り住んだとしか思えないのです(糸島半島には、今宿、今山、今津が並んでいます)。
もちろん、これだけでは納得されないでしょうが、そこから少し遡れば同じ円山川左岸に「二見」(糸島半島に「二見ケ浦」がありますね)があり、さらに豊岡市の中心に近づけば「二日市」「八社宮」(はさみと読みますが、有田の南に長崎県「波佐見」町がありますね)という地名まで拾えるのです。
そして、中心部には、「千代田町」(旧三養基郡)、「若松」町(北九州市若松区)…があるのです。
他にもありますが、豊岡市日高町に「浅倉」、「吉井」(吉井町)「佐野」(甘木市)「岩井」(これは九州では消されていますが)が、養父市にも八鹿町「朝倉」があります。
面白いのは、豊岡市でも京都に近い出石蕎麦で有名な出石方面には「荒木」(久留米に「荒木」がありますね)以外思い当たるところがありません。やはり、大国主の膝元ではないからなのでしょう。ここで、少し目先を変えます。
家紋サイトの一つ「武家家伝」によれば、「朝倉氏は開化天皇または孝徳天皇の後裔といわれている。はじめ日下部を姓としたが、平安時代末期に但馬国朝倉に居住し朝倉氏を称したことに始まるという。」とあります。また、九州王朝論の関東の拠点の一つ東京古田会の会報、NewsNo.84にも、
日本家紋総鑑は、物部氏には触れないが、ある興味深い記述がある。「木瓜紋を用いた代表的な氏族は日下部氏、伴氏、紀氏である。」高良大社のご神紋が木瓜紋で、水沼の皇都に君臨した天子の姓が紀氏とする福永仮説は、ここでも偶然とは言いがたい一致を見る。
さらに、「武家で?紋を最初に用いたのは越前国の朝倉氏で、『日下部系図』には朝倉太郎が白猪を退治して頼朝より木瓜紋を賜ったとある。…この使用氏を見ると当時、ほとんどが西国の諸豪であり、…織田氏が木瓜紋を用いたのも、朝倉氏から受け継いだものである。」(傍線は福永)
と、九州王朝論者の福永晋三氏(「神功皇后紀を読む会」主宰)を引用しています。
「朝倉」の地名を持ち込んだ九州の氏族から「浅井」、「朝倉」の戦国大名の一つが生まれたとすれば、相当に面白い話です。
ちなみに、朝倉氏の紋章は三つ盛木瓜であり、開化天皇の皇子彦坐命の子孫とする系図もあるようです。そして朝倉氏を滅ぼした織田家も木瓜紋でしたが、これは朝倉氏の家紋とは異なりますので付け加えておきます(後段の「武家家伝」朝倉氏を参照)。
延々と切がないですが、「小佐」川(福岡市に日佐がありますね)が流れる八鹿町の「米里」(めい)や「小城」も福岡市の「姪浜」や肥前の小城市の「小城」に思えます。後は自分で探されるとしても、前述の大屋町にも「城山」という山があるのです(この「城山」は「基山」の可能性もありますが、宗像市のJR赤間駅付近の「城山」かもしれません。)。但馬の内陸部も、播磨も、驚くほどの九州の地名が拾えますので、関心を持たれる方は試みてください。
播磨の地名を調べると異常に多い目立つ地名に「山田」があります。これも宗像市、唐津市、山田市の「山田」ではないかと思います。
また、「播磨」については、同じく九州王朝論の多元的古代研究会の福永信子氏(現在は退会)が“「播磨」には多くの地名対応があり、太宰府の南の「針摺」とその周辺の地名移動”との説を二十年前に書いておられます。
谷川健一はともかくも、安本美典の奈良の地名話などちゃちなものに見え影が薄くなってしまった方もおられるかも知れません。
百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
御井神社の祭神のほとんどがこの中にあります
百嶋由一郎氏の音声データ、手書きデータ、80枚近い神代系譜を必要とされる方は09062983254まで