533(前) 但 馬 (下)
20171014改訂稿(20120211)
太宰府地名研究会 古川 清久
岩 井
皆さんは但馬國のすぐ隣の鳥取県岩美町に岩井温泉があることをご存知でしょうか。私も一度、三つの和風旅館が三層楼閣の軒を競い、湯かむりの奇習が伝わる名湯に入り花屋旅館だか岩井旅館だかに泊まったことがあるのですが、ここに御湯神社があります(写真は明石屋旅館)。
その時は、山陰線の鈍行列車の旅だったためそれ以上は足を運びませんでしたが、この神社が実は御井神社だったことに気付いたのはつい先だってのことでした(古い原稿ですので実は6年も前の話です)。
この御湯神社は弘仁二(八一一)年創建との縁起を持ち、温泉の神「御井神」などを祭る平安時代の「延喜式神名帳」にも記される温泉です。従って、「岩井」の地名が往古に遡ることは疑えません。頭にあるのは磐井の乱(実は継体の反乱)の磐井です。
まあ、御井の神が温泉の神というのは、この地に藤原が入っていることから、まず偽装ではないかと思うのですが、ここでは、祭神は御井神(大国主命の御子)、大己貴命(大国主命の別名)、八上姫命(御井神の母神)、猿田彦命とされています。
さて、ここには岩井寺があったとされています(岩井廃寺)。
九州も熊本県の浄水寺、陳内寺を始めとして、椿市廃寺など大分県に多く存在していますが、瀬戸内海沿岸の豊前、豊後から多くの寺院が解体され、米田良三氏が考えたように、筏に組まれて畿内に持ち去られたことでしょう。
ここに磐井の一族が入ったのではないかと思わせる岩井の地名があり、但馬に九州北部の地名が数多く存在することを考えると、山陰に数多く存在する白鳳寺院の中でも岩井寺は九州王朝にとって重要な拠点であったことを示しているように思えてきます。
ここでは予断を避け確認だけをしておくことにします。「山陰山陽諸国の塔跡」というサイトには、
「○奈良時代前期の様式の方形柱座と2重式円孔をもつ心礎を残す。心礎は3.64m×2.36m×1mの凝灰岩で、一辺1.4mの方形柱座が造り出され、中央に径77.5cm深さ32,7cmの孔とその底に径20cm深さ14.2cmの孔を穿つ。土地の伝承では宇治長者が建立した弥勒寺跡と云う。基壇や礎石は残存しない。白鳳-平安初期の瓦を採取すると云う。心礎は岩井小学校校庭にあり。なお美濃岩井の岩井山延算寺本尊木造薬師如来立像(重文・平安初期)は平安期当寺から遷座したと伝えられる。※薬師如来は、最澄が因幡国岩井郡の温泉(岩井温泉)の楠から彫り上げた三体の薬師如来像の一つであると伝える。つまりこの薬師は因幡岩井廃寺(弥勒寺)の薬師如来像であったと云う。○「因幡岩井温泉誌」森永清畔編、岩井温泉組合事務所、明治45年より・・・」とあります。
話を戻します。少なくとも、伯耆國の東まで御井神社が広がっているとなると、まずは、宗像の海人族が入ったと思われる景勝地但馬海岸の地名を拾ってみる必要があります。
山陰と言えばベニズワイ蟹の水揚地が続きます。まず、新温泉町の居組港の沖には北九州の「白島」と同じ「白島」があります。その東の浜坂港と諸寄港との間には「城山」が、諸寄には「芦屋」が、山陰本線の余部鉄橋の余部には、「千畳敷」が、浜坂駅の東には「二日市」と「若松町」があります。
そもそも、兵庫県には「芦屋」が有りますよね。あの一帯は北部九州の海士族が大量に入っているようですが、人形浄瑠璃「蘆屋道満大内鑑」の播磨の「芦屋」も元は遠賀川河口の「芦屋」が起源なのでしょう。
この浜坂は温泉地としても有名でいくつか入りましたが、「七釜」温泉、「二日市」温泉があり、泉源がこの地区からのものであることから、どう見てもこの地名は太宰府周辺から持ち込まれたように思えます。「七ツ釜」も東松浦半島の景勝地ですね。
その東の香住港も山陰屈指の蟹の水揚げ港ですが、ここにも、「若松」と「一日市」(ひとかいち)が、そして面白いのは香住港の東にある峠の名が「花見」(福岡県古賀市)なのです。きっと、この地の人は宮地嶽神社の氏子だったことでしょう。さらに東に進めば、「竹野」港です。久留米に「竹野」(竹野旧郡は丹後にも移動しています)がありますね。
もう、これくらいにしましょう。内陸部にもびっくりするほどの北部九州の地名が拾えますので、後はご自分で探してください。
「こんなことはどこでも有りうること」と言われる方が必ずおられるはずですから、まずは、試しに自分でやってみれば良いでしょう。まず、無理でしょう。
どうも但馬を中心に兵庫県に特別に見られる現象のようなのです。そして、このことが「風土記」が九州から播磨に跳んでいることと関係があるような気がするのです。
いずれにせよ、地名が形成される時期に、大規模な氏族(民族)移動が起こったようですが、そして、それは地名の表記から考えて、「好字令」以後の時期のように思えるのです。
これは古代史のテーマになってくるので、軽々に結論を出すという訳には行きません。ただ、前述の百嶋先生は、以前から「九州王朝が滅んだ後、その一族が橘氏の庇護のもとに但馬に入っている。」と言われているのです。当面、これは神社考古学からの判断でしかありませんが、地名の側からも補足できれば面白いと考えています。
箕谷2号墳戊辰年銘大刀
次に、象嵌太刀として著名な箕谷2号墳戊辰年銘大刀(「戊辰年五月(中)」の6文字)の「箕谷」が気になります。
意味は久留米の高良大社直下の御井神社であり、養父市一帯に分布する御井神社との関係が無視できないのです。
考古学的知見からも面白い話をご紹介します。これは兵庫県からも銘文入りの太刀が出ているという話を覚えていたことから思いついたのですが、どうやらこれも九州王朝のものに思えるのです。
ここに、「東アジアの銘文入り太刀」というサイトがあります。大変長くなり恐縮しますが、学問研究のためとお許しを頂き、全体の雰囲気を掴むために全文を引用し掲載させて頂きます。
http://www.city.yabu.hyogo.jp/www/contents/1210210303920/html/common/4d25008d026.htm
古代史の空白地帯
戊辰年銘大刀の発見が報道された昭和59年1月の当時、次のような新聞記事がありました。『但馬の鉄刀の最大のナゾは、目立った遺跡のない但馬地方で、ごく平凡な古墳から出土した何の変哲もない刀に、「千に一つもでない」といわれるほど、極めて珍しい銘文が刻まれていたことである』。『それほど貴重な鉄刀がなぜ但馬の小さな古墳から出土したのか。箕谷古墳の銘文刀が投げかけた最も大きなナゾである。隣り合わせた丹波、丹後、因幡に比べると但馬は書かれた文献も少なく「古代史の空白地帯」だ』というものです。
しかし5世紀中頃に全長 128mもある但馬最大の前方後円墳である池田古墳が朝来市和田山町に造られて以後、7世紀前半までには大型横穴式石室をそなえた養父市大薮の禁裡塚古墳や塚山古墳があります。古墳時代中期から後期における但馬は、考古学的に決して古代史の空白地帯ではなく、丹後・丹波・因幡に比べても優れた一面もあります。
それはそれとして、なぜ小さな古墳から銘文入り鉄刀が出土したのか。また西暦608年にどんな出来事があって銘文入り鉄刀が作られたのか。さらにどんな理由があって貴重な銘文入り鉄刀が但馬にもたらされたのか、未解決の問題としてナゾは続いています。
東アジアの銘文刀剣一覧