スポット 147 阿蘇で雨宮さんにお会いしました
20171221
太宰府地名研究会(神社考古学研究班) 古川 清久
先に、ひぼろぎ逍遥(跡宮)“ビアヘロ030 において”阿蘇の11社の神社群は「πやφは元よりフィボナッチ数列を駆使するピラミッドの法則で造られていた”」を書きました。
その後、12月21日 古代「火の国」の象徴 「炎のピラミッド」の発見(改訂再編集版:1500円)を紹介すると共に、著者である田尻宮司にお会いし、まずは10冊弱の著書を手に入れ、主だったメンバーに配布、販売するとともに、現在、追加も希望を取って購入を進める事にしています。
当日、宮司とお昼をご一緒し、阿蘇牛のステーキ・レストランでお話をしていると、たまたま隣の席に居られた男性とお知り合いになりました。
お名前は雨宮(アメミヤ)さんと言う方だったのですが、宮司とお別れする段階で、その雨宮さんから「私も神社に関心を持って調べている者ですが…」と声を掛けられ、以後、宮司と別れて所要を済ませた後に再度ご自宅にお伺いし長々とお話を致しました。
一応、雨宮は本名ながらフル・ネームは伏せておきますし、現在のご住所も阿蘇とだけ申し上げておきますが、私より多少は上の世代の方であり、関東地方でも神奈川県内の某市で歯科医師をされていた方なのです。ただ、3.11東京電力の福島第一の原発事故以降お仕事を辞められ、一旦は放射能を避け新潟県に移住されたのですが、さらに遠い鹿児島県の指宿市に移住され、その後も全国を放浪しつつ、三年ほど前に阿蘇に家を求めかつ造り(カーペンターもやられるようですので)、住み着かれたとの事でした。
この首都圏への放射能汚染の問題については、最近でも ひぼろぎ逍遥 スポット133 緊急提言 全国の将棋ファンの皆さんに! “放射性粉塵が首都圏を襲う”を公開していますのでお読み頂きたいと思います。
さて、お話は4時間を越え多岐に亘ったのですが、今回はこの手の話をするものではありません。
実際に雨宮さんという方にお会いし、雨宮という珍しい姓についてお話をした事をご紹介するとともにその意味について考えて見ようと思うものです。
この雨宮一族に関しては今後も色々とお聴きできるとは思うのですが、現時点に於いて当方に分かる範囲で多少の交通整理を試みようと思うものです。
まず、「雨宮」姓に関しては多少思い当たるものがあります。
これについては、以下をお読み頂きたいのですが、熊本県の旧相良村(現人吉市)にとどまらず、熊本県内にも幾つかの雨宮神社があり、雨宮姫という女神がおられるのです。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
雨宮姓の分布に関しては山梨県のぶどう寺問題で10本ほどblogを書いた事から、以前から多少の見当は着いていました(これに関しては「ひぼろぎ逍遥」と「ぶどう寺」でダブル検索を…)。
雨宮姓は現在の分布で、山梨、長野、神奈川などに集中する一族なのです。
今回は、雨宮さんとお知り合いになったと言うただその一点だけの話になりますのでその点はご容赦を。
祭神の雨宮姫や母神である阿蘇津姫その父神である草部吉見神(ヒコヤイミミ)などについては過去何度も書いてきましたので触れない事にしますが、この富士山を中心に展開している雨宮姫の一族も阿蘇から移動している可能性があるのです(有名な「川中島の戦い」にも雨宮の渡=犀川が出て来ますね…これも豊後の「佐井」川なのです)。
まず、この雨宮姫の母神である阿蘇津姫ですが、後には寒川姫を経て杉山姫と名を変えているのです。
そこで考える価値があるのが、神奈川県を中心に分布している杉山神社であり、雨宮姫を奉斎する一族の移動と連動しているのではないかという想いが過るのです。一例ですが…。以下。
杉山神社(すぎやまじんじゃ)は、主に五十猛神(スサノオの子)や日本武尊を主祭神とする神社である。旧武蔵国における式内社の一社とされるが、その論社とされる神社は現在の神奈川県横浜市を中心に川崎市、東京都町田市、稲城市などに数十社存在する。 ウィキペディア20180101 02:09による
勿論、表面的な祭神は異なりますのでご注意を。
百嶋由一郎杉山姫神代系譜(部分)
でも
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
この辺りを読まれれば、ぶどう寺に関連する甲斐の雨宮勘解由の話なり、信濃の雨宮一族…と九州との関係が多少はご理解頂けると思います。
特にぶどう寺に深い繋がりがあり、三階松の家紋を抱く三枝氏は阿蘇氏(草部吉見)と宗像一族(市杵島姫)の流れを持つ氏族(彦座王=天足彦)である可能性が高く、最後は裏紋として門光を使う武田信玄さえも九州王朝系の氏族である事が見えて来ると、武田氏にも組み込まれた○に上の家紋を使う雨宮一族が阿蘇の雨宮姫の流れを持った人々であることが見えて来るのでした。
詳しい説明は省きますが、熱心に読み解かれ自ら解明しようとされる方にはこの雨宮一族にも阿蘇氏の血が流れ込んでいる事が見えて来るのではないかと思うものです。
さて、雨宮さんとのお話でも出てくるのですが、熊本にはと言うか、阿蘇には「甲斐」姓の方が沢山おられます。
県別に検索されればより一層傾向が分かりますが、熊本県でも東部ですから阿蘇中心ですし、それに最も色濃い分布を示す宮崎県北部の延岡市、それに大分県は大分市が甲斐姓の分布の中心を示しており、甲斐の国(山梨)とはまさしく彼らの移動によって成立したのではないかとさえ思ってしまいます。
当の長野県(信濃)、山梨県(甲斐)では少ないものの、長野の松本、諏訪などで確認できるのです。
彼らは恐らく九州の中部以南(熊襲の領域)から東へ向かい北上し中央山地に蟠踞したのでしょう。
いずれにせよ、武田氏、三枝氏、雨宮氏(甲斐氏は恐らく名を変えていると思うのですが)、下の百嶋由一郎最終神代系譜に登場する、建南方(諏訪の建御名方)、天足彦、椎根津彦…と言った阿蘇系氏族の流れのどれかと各々関係があるのではないかと考えているところです。
実は、最近になって武田信玄の武田氏さえも、もしかしたら阿蘇の周辺から移動したのではないかと考える様になりました。九州の武田姓が関東から熊本の南関に入っていると言う話は承知の上なのですが。
それは、海援隊の武田鉄矢の母君は阿蘇周辺の名家の出であり(阿蘇の小国町北里=北里柴三郎の生地の北側の集落)、家の周りは全て大地主である武田家の土地だったと言われていたのです。
裏紋として門光を使っていた武田信玄が九州王朝の後裔である可能性も含め今後とも注目したいと考えています。
熊本と言えば馬刺し しかし甲斐の国にも
熊本に来たら有名な馬刺し(生食)を食べますね、山梨周辺も馬刺しが好まれるのです。納豆は元より、この特徴的な食文化が相互に全く無関係などとは凡そ考えられないため、阿蘇系氏族の一派が、東の中央山地に展開し甲州騎馬軍団になったのではないかと考えたいのです。