533(後) 但 馬 (下)
20171014改訂稿(20120211)
太宰府地名研究会 古川 清久
東アジアにおける銘文刀剣を一覧表でまとめてみました。一覧表には15本ありますが、刀剣の製作地を大胆に仮定し、1~4を中国大陸、5~7を朝鮮半島、8~15を日本列島の中の大和と推定しました。この中でみると1・2・3の大刀は後漢の年号をもつ鉄刀で、東アジアで最も古い一群を形成しています。大刀の刀背に金象嵌の文字を刻むことが特徴です。文字数は15~27文字程度であり、2世紀代につくられた銘文鉄刀が漢の王朝文化として成立しているように見うけられます。奈良県東大寺山古墳から出土した漢中平年銘大刀も、後漢の基本的な銘文の象嵌方法にならっています。
5世紀代になると日本各地で銘文刀剣の出土例が増加します。銘文刀に鉄剣の例(9・10) が表れ、文字数が増加(8・9) し、さらに銀象嵌(8・10)がみられるようになります。こうした変化は銘文刀剣の日本的な発展とみてもよいでしょう。また8・9・10の銘文には日本的な字句も使用されてきます。
また東京国立博物館の有銘環頭大刀は銀象嵌であり、5世紀代の大陸でも銀象嵌が使われたことが確認できます。江田船山古墳例は銘文の象嵌が大刀の刀背に刻まれており、中国の伝統的な銘文大刀の象嵌の位置を守っています。
6・7世紀になると直刀の表面に文字を刻む例が増加します。また7世紀になると文字数は6ないし4文字になり、極端に減少します。文字によって意味を示すと考えるよりも、特殊な記号のようになってきます。また箕谷2号墳のように銅象嵌が出現します。
つまり2世紀代に中国で金象嵌が利用され、5世紀代に朝鮮半島と日本列島で金象嵌にくわえて銀象嵌も流行し、さらに7世紀代になって銅象嵌が出現します。つまり銘文刀剣にみられる金・銀・銅の区別は時代が下るにつれて増加しています。象嵌材料の金と銀と銅の区別が何による差なのか分かりませんが、象嵌文字の基本は金と銀です。
5世紀・6世紀に作られた銘文をもつ刀剣類は、地域支配や政治的な権威をしめす威信財として利用されたものです。奈良時代のものだと推定される三寅剣(さんいんけん)銘小刀は護身剣とか個人的な宝剣という意味のものだと推定されています。しかし、江田船山古墳や稲荷山古墳の副葬品には朝鮮半島に系譜をもつ豪華な遺物が含まれています。銘文刀剣もこうした威信財群の一つとして、大和政権から各地の地方豪族に与えられた友好関係の証であり、地方豪族にとっては地域支配の正当性を示す一族の証となったと思われます。
7世紀の銘文入り鉄刀
7世紀代の銘文入り鉄刀は3本あります。箕谷2号墳と四天王寺と群馬県藤岡市の出土品です。箕谷2号墳の副葬品をみると金銅製の杏葉(ぎょうよう)や革金具などがみられますが、岡田山1号墳のように豪華な遺物が豊富にあるわけではありません。副葬品の点数をみると約50%が土器で、残りの約50%が鉄製品です。鏡や玉類はありません。馬具でも鞍や鐙・轡はみられません。副葬品にみられる畿内系の遺物は貧弱で、貴重な銘文入り鉄刀だけが副葬品群の中で単独で存在しています。また四天王寺の直刀は、柄(つか)よりの位置に、縦方向に丙子椒林(へいごしょうりん)の4文字の銘文をもちます。お寺の伝説では百済より貢進されたもので、聖徳太子の所持品だとしています。丙子椒林剣という名称で呼ばれていますが、切刃造の直刀です。さらに群馬県藤岡市出土品も丙子椒林剣と同じ位置に4文字を刻む切刃造の直刀です。銘文は金象嵌ですが、文字はよみとれません。これらの鉄刀の刀身の全長を並べてみると戊辰刀銘大刀(65cm) 、丙子椒林剣(65cm)、群馬県出土品(64cm)となっており、長さが同じです。また銘文の位置もほぼ同じ位置にあります。そして文字は6文字ないし4文字の限定した語句を入れています。5世紀代の江田船山古墳の74文字、稲荷山古墳の115文字はもちろん、6世紀代の岡田山1号墳の12文字のような多くの文字を刻むことはありません。こうしたことから7世紀代の銘文入り鉄刀は、刀身の柄よりの位置に4~6字程度の語句をいれる儀杖用大刀として成立していると考えられます。
官位12階を前提として成立した銘文刀
貴重な銘文入り鉄刀がなぜ但馬の小さな古墳から出土したのでしょうか。7世紀代の銘文入り鉄刀は、5・6世紀代のように有力な古墳の豪華な副葬品の中の貴重な遺物として取り扱われるのではなく、古墳の規模や副葬品のセット関係にも関わりなく、銘文入り鉄刀だけが単独で意味をもっていたと思われます。
西暦 603年には官位12階が定められ、服装の色分けによって身分を明示しました。 この時期、古墳時代を代表する豪華な金銅製鞘をもつ大形の装飾大刀から、奈良時代に続くような黒漆塗りの地味な小形の直刀へ嗜好が変化してきます。こうした時代の変化は、官位12階を前提とした初期律令社会の成立によるものと考えられます。
7世紀の銘文入り鉄刀は律令社会の要請によって小形化し、そして定型化しました。当初、箕谷2号墳の銘文が6文字しかなくて、少ない文字数が不思議でした。しかし丙子椒林剣や群馬県藤岡市出土品はいずれも4文字であり、箕谷2号墳の6文字は、この時期としては決して少なくありません。7世紀の銘文入り鉄刀は初期律令社会の中で特定個人に与えられる儀丈用大刀で、正倉院に伝世するような奈良時代の直刀の祖型になるものと考えられます。
したがって箕谷2号墳の埋葬者が、戊辰年(西暦 608年)に奈良県の古代飛鳥において特別な功績によって銘文入り鉄刀を与えられたという推理も可能なのです。いずれにしても戊辰年銘大刀は飛鳥の地で作られ、それが但馬に持ち運ばれて箕谷古墳に持ち込まれたものと思われます。
学会通説に沿ったものの立派な見解だと思うのですが、干支(かんし)年号で戊辰年の最古の銅象嵌太刀、推古天皇一六年(六〇八)とされ、全国の古墳の実年代を考える基準資料ともされているのですから柄(つか)に「戊辰年五月(中)」の六文字が刻まれた国宝級の太刀が、なぜ、この地で出土したのか?通説に頼ればどうしても「古墳の埋葬者が、まともな鉄製品など出ない古代飛鳥において作られたとする銘文入り鉄刀を何らかの功 績によって与えられ、それを但馬に持ち帰ったか、征服したかして運び、箕谷古墳に持ち込んだ」といった解釈しか仕様がないはずなのです。
しかし、九州王朝の一族が辺鄙な但馬に安全を求めて避退したと考えれば、辻褄が合うのです。そうなのです。御井の神を祀るからこそ箕谷(御井)谷と呼ばれたのです。
そうでなければ、「東アジアの銘文入り太刀」氏も自問自答されているように、但馬の養父という僻陬の地の東西十二m、南北十四mの小さな円墳に、須恵器、金環三点、鉄鏃・馬具等の鉄製品、鉄刀など一〇三点の遺物が出土するはずはないのです。
ここまで、書いて、たつの市在住メンバーのN氏の意見を求めました。
それは、氏が二〇一一年夏の久留米大学の市民講座(九州王朝説)の講演において、この太刀についてふれておられたことを思い出したからでした。
穴掘考古学を関西系土建屋どもとの「考古学村」と決め付け、学者はもとより(邪馬台国畿内説論者の門脇貞二は退官後あんなものは九州に決まっているとした)、出世するために嘘をつき続けている全員が畿内説論者の考古学協会など全く信用していないものの、逆に彼らの矛盾した主張を事実をもって叩けるのではないかと思ったことが発端でした。
してみると養父の冒頭において、「天子宮」調査のために養父市の八鹿町の「天子」という地名から付された交差点を確認し、その正面にある屋岡神社(これも天子宮の一つだったのでしょう)としたこととがつながってくるのです。
箕谷2号と粗末な名で呼ばれる小さな円墳こそ但馬に避退したとする我々が考える九州王朝の大王か滅び去ったラスト・エンペラーが眠る陵だったと思うのです。
さらに言えば、「き」「み」としか読まない字を付したことも、紀氏とも言われる“橘氏が但馬に九州王朝を匿った”とする百嶋神社考古学とも符合するのです。
やはり、これも「御井」の神を祀ったことを知っているからこそ、「御井」谷古墳の名を隠し、自らは「みいたに」(現地では多分「だに」とはしてないと思うのですが)と呼び習わしてきたのです。そうすると、消された九州王朝の大王だったからこそ手にすることができ、惜しげもなく古墳に納めることができたのであり、また、そうする必要があったのではないかと思うのです。
最後に面白いことに気付きました。
「天子」という凄まじい名を残す交差点のそばにある屋岡神社は、九州を中心に多くの痕跡を残す天子宮だったのではないかと考えていますが、まず、この古墳からは天子交差点を見透すことができるようです。
もちろん、実際には逆で、屋岡神社が天子宮とすると、古墳が見える場所にこの神社が創られたのでしょう。
このポイントと箕谷2号墳のために造られたであろう“つるぎが丘公園”の古墳のあるポイントとを線で繋ぐと、古墳に近いところに造られていることから菩提寺ではないかとにらんだ豊楽寺(養父市八鹿町一部一四二四)がこの線上にピタリと乗ってくるのです。
豊楽寺は、現在、曹洞禅の寺ですが、考えていた通り、祀られていたのは観世音菩薩でした。
安穏山天女峰豊楽寺(本尊如意輪観世音菩薩)は、西暦八三八年(承和五年)空慧上人が辨財天を祀って開基したことに始まる。九百年代の初め、小佐城主小佐三郎高重が伽藍を建て一大道場として有名になったが、戦乱による焼失や裏山の崩壊により、辨財天の小堂以外は全て無くなった。(同寺落慶法要資料より)
九州王朝、倭国と観世音菩薩がただならぬ関係にあることは、太宰府の観世音寺の存在からしても言うまでもないことですが、古田史学の会の古賀達也氏が「洛中洛外日記」二四六号「法隆寺の本尊と菩薩天子」として取り上げています。
釈迦三尊像が上宮法皇の「尺寸の王身」と光背銘に記されているように、そのモデルは倭国の菩薩天子、多利思北孤です。そして、釈迦像と顔がそっくりの夢殿の救世観音菩薩も、天平宝字五年(761)の『東院資財帳』に「上宮王等身観世音菩薩像」と記されているように、やはりモデルは多利思北孤と考えられるのです。これらのことから、法隆寺建立当初の本尊は、夢殿の救世観音像との考えに到達したのです。
もうひとつ思い当たることがあります。佐賀県の唐津市には玉島川が流れ、玉島神社があるのですが、豊楽寺の直ぐ隣りにも玉島神社があるのです。
これも玄界灘の民が玉島神社を持ち込んだように思えます。
なぜならば、玉島地名はこちらには見当たらないからです。
玉島川は神功皇后と鮎の川として知られていますが、山上憶良も「人皆の見らむ松浦の玉島を見ずてやわれはこひつゝをらむ」と詠っており、「記」「紀」でも神功皇后が戦運を占った場所とされているからです。
この、神功皇后が実際には九州王朝の大王の開化天皇の皇后であったとする百嶋説や、屋岡神社の縁起に開化が登場していることが多少腑に落ちる思いがします。
ここで話を変えます。屋岡神社の前を流れる円山川を少し下ると「上小田」、「下小田」があります。これは天子宮調査をしていると頻繁に出くわす地名であり、例えば九州最大の天子宮である佐賀県江北町の天子社が鎮座するのも「上小田」なのです。
九百年代の初め、前述の豊楽寺を寄進した小佐の地頭小佐三郎高重も朝倉高清の弟小佐二郎大夫盛高の子、小佐新大夫頼重であったとされており、しかも、朝倉氏の別れであり、九州から避退した氏族の可能性が高いのです。
してみると、「小佐」は福岡市の「日佐」(おさ)が持ち込まれたものであることが推測できるのです。
「百嶋神社考古学」では“仲哀天皇と神功皇后との間は一年ほどで、開化天皇と神功皇后とは夫婦であったと”し、応神天皇は誉田別命の名にあるように別王でしかなく、本当の天皇ではないとするのです。
神功皇后はもちろん天皇ではないので、天子とは開化の子となるのですが?日子座王の曽孫船穂足尼命以下は・・・百嶋先生に聴くしか方法がありません。
今のところ電話での好い加減なやり取りでは、日子座王とは、開化よりはるかに歳上だが、長脛彦の事件で許しを請うために形式的な子となった一族の長との説明を頂いていますが、まだまだ分かりません。
天子交差点の正面に鎮座する屋岡神社
ここで、消された九州王朝の大王の古墳がなぜ養父にあるのかについての推定をしておく必要があるかも知れません。
そもそも「考古学村」による戊辰年年号による六〇八年の評価が正しいのかと言う問題がある上に、畿内の古墳だから古いはずだという想定が良いかがあります。さらには、追葬や、太刀の場合は特に伝世の問題もあります。
百嶋神社考古学による想定は、“滅んだ九州王朝の王族が匿われた”としています。
また、移動した地名が好字令後のものであるように見えることがあります。
これが、六〇八年刀とそぐわないことの意味は、大和朝廷によって九州王朝の王族への圧力が高まった時期に但馬に逃げ込んだ際に九州から持ち込んだと考えれば一応の説明は付くのですが、そんな説明はこれまで「考古学村」がやってきたことでしかありません。
筑後川流域の古墳の多くが大和王朝によって暴かれているとの思いを持っていることから、それを恐れて改葬したとの想定に飛びつく前に、そもそも、干支年号の六〇八年想定、古墳の絶対年代、追葬の有無、九州王朝のどの大王なのかといった全てのことを洗い直すことが必要ではないかと思うものです。
御井神社
では、御井神とは何なのでしょうか、「日本書紀」には記載がなく「古事記」によることになるのですが、HP「神奈備」には、「御井神は古事記によれば大穴牟遅神が八上比売に生ました子を木の俣にさしはさみ、木俣神亦の名を御井神と言うとある。延喜式注には御井、素盞嗚尊の子なり、母は稲葉八上姫とある」と書かれています。
一方、久留米の味水御井神社は祭神を水波能売命(スサノウのお妃となった大山祗の長女で豊受大神の母)としています。
言うまでもなく、大穴牟遅神とは大国主命であり、播磨の一の宮伊和神社の祭神も大穴牟遅神とされることから、当然にも伊和大神も大国主であり、その第一子が、木俣神となります。それで良いかは分かりませんが、延喜式注の御井、素盞嗚尊の子なりはどういうことなのでしょうか?意味が分かりません。
屋岡神社縁起
もしも、大国主の子であるのならば、大国主命を九州王朝の親衛隊長とする百嶋説には符合するようです。
また、「少なくとも、伯耆國まで御井神社が広がっている。」と前述しました。
一つだけ、斐川の御井神社をご紹介しておきましょう。
鎮座地、島根県簸川郡斐川町直江町、祭神は木俣神(このまたのかみ)八上姫大神(やかみひめのおおかみ)とされています。木俣神は、大国主命の御子(八上姫との間にできた第一子)ですが、これは瀬高の釣殿神社などでも見かけます。大国主神の正妻「須勢理毘売(すせりびめ)」を畏れ、生まれた子を木の俣に押し込んで因幡国に帰ってしまった。と言うのですが。
地名と古代史
戦前までの文献史学は天皇制に奉仕する「皇国史観」と心中することをもって堕落の末破産しました。
そして、その反省の上から始まったとする戦後史学も、具体的な発掘物を系統だって分析する科学的知見と皇国史観から独立した文献史学が結びついたとしたものの、最終的には炭素14による年代測定めさえも受け入れることもできず、今や土器編年の破産直前のありさまで、大和朝廷と既存の支配構造に奉仕する御用学として確実に解体へと向かっているようです。
このような中、穴掘考古学に見切りをつけたのが早かったおかげで、たとえ、無自覚ではあったとしても、比較的自由な民俗学や地名研究、神社研究に漕ぎ出すことでき、どうやら古代の真実をも見透すことができるのではないかと思えるようになってきました。
そもそも、今回のテーマは、沖ノ島がなぜ二つあるのかという些細な疑問から始めたものでした。表記は異なるものの“日本海にも同じ名の島がかなり離れて存在するということは、同一の民族、氏族が、広がるか逃げるかした。”と、しか考えられないと思い至ったからでした。そして、その表記を考える時、隠岐の島よりも簡素な表記の沖ノ島が新しいはずはないと気付いたのでした。
あまり知られてはいませんが、出雲の北の海岸部には夥しい数の「青島」があります。これは、ほとんど漁港の浦々の沖に一つずつあるようなものです。
民俗学者の谷川健一は「青の会」を創ってまで、水葬から続く葬地としての青地名を表面に引き上げましたが、まさに出雲の北岸の青島の存在は、集落(浦)ごとの葬の島として定まっていたことの証左に思えましたが、このような場合、表記は同じになってしまいます。
と、すると、表記が異なることそのものに意味があると考え始めたのでした。
そして、宗像大社の社地が田島で、田島神社の表記はそれを移した物であることに気付いたとき、田島と但馬、沖と隠岐の関係が見えてきたのです。
さらに、松浦佐用姫が播磨の佐用姫神社では堂々と市杵島姫とされているにもかかわらず、宗像大社では佐用姫など片鱗もなく、田島神社では祀られてはいるものの、別神扱いにされていることも分かってきました。
どうやら、宗像大社の本来の祭神が大国主命であるという「百嶋神社考古学」による示唆は、養父の御井神社の正体を解き明かしてくれそうな予感がしています。
田島にも出雲にも大国主命を祭る沖に沖ノ島、隠岐島があれば、但馬にも大国主命が祀られ、その上に御井神がいると見えてきたのでした。
播磨の佐用姫(市杵島姫)は但馬から内陸の播磨に引き、宗像大社では佐用姫など片鱗も出さず、市杵島姫他三女神を正面に据えることを持って大国主命を慎重にか、あるいは丁重にか、伏せおおしたように見えるのです。そして、その背後には御井神が高々と聳えているようなのです。
一方、梅原 猛に「神々の流竄」がありますが、“沖ノ島の祭祀に関わる人々(ウサギ)が、白江戦に敗れたことから列島に移る必要がでてきたが、そこで力を貸したのが九州の志賀ノ島を本拠とする阿曇族(ワニ)であった。「因幡の白兎」の物語はその移動を書き留めたものであり、その時に起こった部族間の衝突の記録だった“としている。この「白兎」の物語の舞台が、実はこの玄海灘だったと考えているのです。梅原氏によればこの話は「改竄された神々の物語」の一つであり、昔話としては白兎が、出雲の北の隠岐の島から、ワニの背中伝いに、因幡(鳥取県)の白兎海岸に渡る物語と理解されてはいるが、海を渡る時に兎がワニを騙していたため、それに気がついたワニがウサギを丸裸にしてしまうということになっているのです。
そして、それは日本海の「隠岐の島」ではなく玄界灘の「沖ノ島」で起こったこととするのです。
もしも、梅原説のようにこの玄界灘が「因幡の白兎」の話の舞台とすると、九州北岸に大国主がいなければなりません。宗像の本来の神を「大国主命」とする「百嶋神社考古学」の空恐ろしさを実感せざるを得なくなるのです。
今や「考古学村」「古代史村」と化した戦後歴史学を一切期待することなく、自らの目と足だけを頼りに古代を探らざるを得ない時代に入ったのかもしれません。
買弁学者を一切信用することなく、嘲笑されようとも、頼りなくとも自ら頭で考えることだけが古代を解き明かしてくれるのではないかという気がしています。
但馬の地名を見ると713年の好字令以降のもののように見えます。また、平安京成立(794年)により近畿大和朝廷が直ぐ隣に進出することになります。この期間、九州までの距離の倍に近い但馬は安全な場所であり、以前から開発が進んだ土地であった事から、この80年間に九州王朝の残存勢力が避退していたのではないかとの仮説を立てています。