536 コノハナノサクヤヒメはサクラヒメだったのではないか ②
20171125
太宰府地名研究会 古川 清久
さて、コノハナノサクヤヒメを主神として祀る都萬神社の前にはきれいな川が流れています。
桜川と言いますが、桜川町まであります。
コノハナノサクヤヒメが祀られている大山祗系神社には桜の紋章がふられていますし、ご覧の通り、本家本元の都萬神社の社務所にも桜が施されています。
コノハナノサクヤヒメはコノハナノサクラヒメであったとさえ考えるのですが、列島人はR音(実際はL音)の発音さえ困難であったため、コノハナノサクヤと呼ばれたのではないかとさえ考えていますが、これについては確信が持てないため今のところ構想に留まっています。ただこの桜川と無関係でもないでしょう。と言うよりサクヤヒメが居たから桜川の名が残ったのではないかと思うのです。
以下はネット上から拾った「樹木の文化誌」の一文ですが、サクヤヒメはサクラヒメだったのです。
これは百嶋先生が言われていた事ですが、晩年“関東に移動したコノハナノサクヤヒメは関東ではサクラヒメになっている…”つまり、関東ではサクラヒメと呼ばれている事が分かるのです。
例えば江戸落語の古今亭志ん生師匠の小噺で、男女の恋について語ったもの 小噺の概略を申し上げておきましょう。「どんな男でもご婦人には迷うものです。清水寺に清玄(せいげん)という立派なお坊さんがいたが、桜姫のために思い悩んだ。「どうか桜姫に会いたい、お姫に会いたい」とお姫ばかりを恋しがっていた。けれど会えなかった。これは会えないわけですな、こっちが坊主で向こうが桜だから。」坊主と桜がオチになっていますが、花札の坊主と桜の事で、志ん生の噺には方々に出て来ます。
勿論、コノハナノサクヤヒメの話としては語られてはいないのですが、関東のコノハナノサクヤヒメはサクラヒメと呼ばれていた事が反映されていた可能性が高いのです。
恐らく近畿大和朝廷に完全制圧された段階で本来のサクラヒメはサクヤヒメと呼ばれ書き留められ、晩年になって移動した結果、関東では原音が残ったのではないかと考えています。
木花之佐久夜毘売、木花開耶姫と表記される以前の原音が「サクラヒメ」として残ったのではないでしょうか?
今のところ仮説の仮説のような段階ですが、コノハナノサクヤヒメはサクラヒメと呼ばれていたからこそ桜をシンボルとしており、ニニギと別れたコノハナノサクヤは晩年に関東に移動し、富士山浅間神社に痕跡を残し関東の玉川=多摩川(ヤタガラス)の領域に移動したと考えています。
ご覧の通り、コノハナノサクヤはオオナムチ=大国主命の妹なのです。