537 大分県玖珠町のトレッキングスケジュールに急遽取り入れた武内神社について
20171126
太宰府地名研究会 古川 清久
大分県でもトレッキングを行なっています。
11月17日の佐賀県三瀬村でのトレッキングに続き、大分県玖珠町でもトレッキングを行ないました。
三瀬村では20人規模でしたが、大分では初めて10人を上回る規模かと期待していましたが、骨折とか作業による疲労とかどたキャンが相次ぎ、急遽5人で細々と行うこととなりました。
月にいくつものトレッキングを行なっていると、こういう事はある程度起こるもので覚悟しておかなければなりません。
そうした中、メンバーの要請によって、急遽、玖珠の武内神社を訪問する事になりました。
まず、大分県玖珠町をご存じないと思いますので、位置を把握して頂きますが、簡単に言えば、日田市
と、由布市の中間の最も山がちな高原の町になります。
ここで、玖珠町で武内神社とは聴いた事がなかったため、まずは場所探しと、これを
というサイトで探すと、豊後森駅正面の商店街の一角にあると出ていました。
ところが、ここには歯科医院やら閉められた家具屋やらしかなく、表記の誤りか、付近の駅前には商店街の崖の上に稲荷神社があるだけで、全くの誤りである事が分かりました。
そこで、別の検索を試みると、グーグル・マップで 武内神社 〒879-4404 大分県玖珠郡玖珠町森
と表示されました。こちらが正しかったのです。
地番は書かれていませんが、書かれていたとしても山中故にほぼ意味を成しません。
場所が分かったことから、車二台で現地まで行きましたが、既に集落による共同祭祀が衰退しており、鳥居に御幣が掛かるのみで、いずれ見捨てられる神社である事が明らかでした。
メンバーが何故この神社に拘られたかが奇妙でしたが、神社調査にはこのような事は頻繁に起こります。
場所は地元の古老にお尋ねし直ぐに分かりましたが、車を廃屋の空地に駐車し、少々ハードな参道を十分ほど掛けて境内に辿り着きました。
結果的には、社殿の近くまで行ける林道があったのですが、舗装されている様子もなく、多少の雨もあり、落葉でスリップするとどうにもならなくなることから、おいそれと乗用車で行ける状態でもなく、歩くことにしました。
それほど労する事もなく境内に上がりましたが、下の写真を見ればお分かりの通り、正面の杉が根こそぎ倒壊しており、枝の伸び具合から数年は経過している様に見えました。
祭祀が生きており、参拝が頻繁に行われているならばこのような杉はたちどころに処分されているはずであり、放置されている事自体がこの神社の全てを表していたのでした。
恐らく高齢化と過疎化により氏子組織は衰弱し、祭礼も宮司も参拝は元より神社への崇敬の念の一切が消失する極限まで進んでいるようです。
このような現象は全国の至る所で生じているはずで、十年後、二十年後は考えたくもありません。
社殿は思いのほか立派でした。
一部は破れ、雨漏りから腐り始め倒壊寸前かと覚悟していたのですが、社殿その他はしっかりしており、愕きました。
半分、救われた気がしたのですが、しかし、良く考えると現在の社会情勢の恐ろしさを改めて再認識し、逆に悲しさ空しさが込み上げてきました。
空しさを感じたのは、江戸時代から明治~昭和に掛けての寺社建築が如何に堅ろうであったかがまざまざも浮き彫りになり、現在が如何にくだらないものしか造れない社会に墜ちているかという事を再認識したからでした。
実際、この時を経た社殿の在り様には感心せざるを得ませんでした。
祭祀が断絶し荒れる一方に見える神社ではあるのですが、実にしっかりとした立派な造りの神社であり、経年劣化の割には乱れがなくちょっと磨けばピカピカの神殿が蘇るはずなのですが、どうせ高望みにしかならないでしょう。
多くの社殿を見てきた者としては、この神社を普請、作事した石工、左官、宮大工…が如何に立派であったかが良く分かります。
今後手が入らなければ、いずれは倒壊へと向かうはずですが、彼らがやった仕事は今現在燦然と光り輝いています。
逆に言えば、それほどの技術と惜しみなく投入された財貨を考えると、昔の方が余程豊かであり、木造建築に関してはよほど優れていた事が良く分かるのでした。
それほどアメリカに占領されにより(国富を奪われ)続けて70年を経過した現在に比べて、惜しみなく投入された地域の力がどれほど大きかったかに考えが及ばざるを得なかったのでした。
もはや大工さんの仕事は消え、立派に建てられる技術も消失する直前にあるのです。
それもこれも小○竹○によって国民の所得が半減させられ、地域経済が決定的に衰退してしまった結果生じたのであり、昔の方が余程良いものが造られていると言った実感をもってしまいます。
それほど現在のものほど安普請であり、直ぐに狂いが生じる様な百円ショップ神社となっているのです。
現在、木造できちんとした神社を建てようとするとコンクリートの五倍から十倍は掛かる事になるでしょう。
それでも建て直しができるだけましな方であって、良くて昔の公衆便所まがいのコンクリート製の社殿で安っぽいコロニアル風の屋根とサッシの窓枠で造られることになるはずなのです。
本来は、祭神や神社が造られた背景、建てた氏族について話すべきですが、それは後に回すとして、
では、そろそろ祭神の話に入りましょう。
武内宿禰を祀る神社である事は武内神社と呼ばれている以上それで良いでしょう。
参拝殿には一枚の由緒書が掲げられていました。
大分県では善神王とか是善王とか是善神…といった祭祀に頻繁に遭遇します。
この神社は明治期に、当たり障りのない武内神社となった可能性が高く、天明年間当時に平田山(平田は地名)善神王社として建立された事が書かれています。以前も触れましたので省略しますが、百嶋由一郎氏は善神王とは菅原道真の父を祭神としていると言われていました。
ここの手水場の施工の狂いのなさにも驚きました正確な石柱によるものですが、今のコンクリート製とは雲泥の差があります。
参道の手前の廃屋に車を駐車させて頂きましたが、このような廃屋が続出し氏子組織が日々壊滅し続けているのです。