スポット149 八代市の妙見宮は列島に亡命した雲南省昆明の白族の中心的な神社だった
20171211
太宰府地名研究会 古川 清久
ここでは一般的に知られた妙見宮を描くことをせずにこの神社の本質を描くことにしたいと思います。
妙見宮 カーナビ検索 熊本県八代市妙見町405 ℡0965-32-5350
まず、祭神ですが、天御中主神と國常立神とされています(境内、境外摂社は略載します)。
さて、良く知られた八代の妙見宮ですが、最近になって列島にとっても九州王朝にとっても最も重要な神社であった事がようやく分かってきました。ここでは、通常話されるありきたりの内容から離れ、最も重要な側面についてだけお話しさせて頂きます。言うまでもなく、祭神である天御中主神と國常立神とは、白山姫と博多の櫛田神社で祀られている大幡主の二神です(「熊本県神社誌」省略)。
百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
この三つの縁起を全て見られた方は恐らくおられないでしょうが、有明海を挟む肥前肥後の両岸を支配していたのが火の君であり、九州王朝を根底で支えた重要氏族(熊本の白川の名=「白水」を付した白族)
でもあったのです。
そのシンボルとなったのが白山姫、妙見宮、北辰神社であり熊野三山、博多の櫛田神社の大幡主であり、その後継たる豊玉彦=ヤタガラスだったのです。
この間、八代の妙見宮の重要性に関してはある程度理解していたつもりではあったのですが、大幡主~豊玉彦=ヤタガラスの一族(白族)は、直接、熊本に入っていると考えていた事から、八代の妙見は河童渡来(揚子江流域からの越族の移動)による後付だろうと考えていました。
ところが、妙見宮に隣接する霊符神社の記述と氷川の北、宇城市小川町の霊符神社の記述が対応し、さらに佐賀県(肥前)の白石町(旧有明町)の稲佐神社(百済の王族を祀る神社)の境内地に百済の王族を火の君の世話で受入れたとの記述が相互に対応する事が判明し、肥前~肥後に掛けての領域を支配領域としていたのが火の君(それを肥溜めの肥の国したのは当然にも近畿大和朝廷)であり、妙見宮=天御中主命=白山姫を奉斎する白族(雲南省昆明からの列島への亡命民族)であった事が分かって来たのでした。
これについては、先行blogをお読み頂きたいのですが、この阿蘇の草部吉見の一族(黎族)と共に、海南島を経由して入って来た人々こそ天御中主=白山姫を奉斎する白族だったのです。
この阿蘇氏(黎族の一派)と大幡主の一族(白族)は、かつては中原にまで展開していたはずの主要民族だったのはずなのですが(九黎族)、漢族、鮮卑族、清族、モンゴル…(今の中国人)に追われ、追われ辺境の少数民族地帯に逃れ、そこさえも失い列島に新天地を求めて進出してきた人々だったのです。
阿蘇氏は雲南省麗江からメコン川(瀾滄江)を降り旧サイゴンから北上し海南島(南西部保亭リー族ミャオ族自治県・瓊中リー族ミャオ族自治県・白沙リー族自治県・陵水リー族自治県・昌江リー族自治県・楽東リー族自治県・東方リー族自治県…)へ、大幡主の一族は昆明からファン川(紅河)を降りベトナムのハノイ沖の海南島へ移動し、時期を見て列島へと進出した人々であったと考えられるのです。
ひぼろぎ逍遥 194 櫛田神社(博多)の大幡主のルーツは滇王国だったのか?
理由は不明ですが櫛田神社は一旦紀州に移動し熊野から戻ってきているはずです
どうやら、百嶋先生は、博多に雪崩れ込んだ、白族(ペイツー)のルーツは雲南省昆明に近い、謎の青銅器文明(漁労+水田稲作農耕)として知られる「滇国」を想定しておられたようです。
考えて見れば、昆明には白族がいましたし、「滇国」の本拠地である滇池もそこにあったのですから、「滇王」の印を貰った「滇国」の一部が博多の櫛田神社の主祭神の大幡主に繋がる事は理があることなのです。
ただ、それを結びつけられるところが、百嶋先生の凄いところだと改めて思うものです。
滇(てん、簡体字: 滇, 拼音: Diān)は、前漢時代の紀元前3世紀頃から、雲南省東部の滇池周辺にあった滇人による西南夷の国。歴史[編集]楚の将軍荘蹻が遠征した時に、秦によって帰郷できなくなり、やむなく建国したとされる。紀元前109年に前漢の武帝の攻撃で属国になり、益州郡の統治下に入った。滇王之印滇王之印晋寧県の石寨(せきさい)山の遺跡(石寨山滇国王族墓)からはこの時代のものと思われる青銅器や「滇王之印(中国語版)」と書かれた印鑑などが発掘されている。西嶋定生はこの滇王之印と日本の福岡県で出土した漢委奴国王印とが形式的に同一であることを指摘している。古滇国の歴代君主[編集]以下は黄懿陸の著『滇国史』から整理した。文字史料が不足しているため、大部分の滇王墓の主はその本名と年代を確認することができない。 ウィキペディア(20150331 12:00による)
白族は黎族(阿蘇氏)と併せ、日本人のかなり重要な部分を構成しているはずで、白族の起源の一部がが「滇国」にあったと考える事が可能であれば、多くの照葉樹林文化論者達が主張している話とも符合する訳で、単に白族の一派が南ルートで渡来していると抽象的に考えるよりは、より具体性を帯びており、視界が広がった思いがしています。
雲南の二大王国
現在の中華人民共和国最西南部、ベトナム、ラオス、ミャンマーと国境を接する地域で、北隣に四川省(しせん)、北東隣に貴州省(きしゅう)、北西隣にチベット自治区と接する雲南省(うんなん)。省都は昆明市(こんめい)であり、雲南という名は四川省と接する雲嶺山地(うんれい)の南にあることに由来する。現在は約39万平方キロメートルで、中国の行政区分別では8番目の広さである。漢民族以外にはイー族、ペー族、ミャオ族、チワン族など少数民族も多く存在する。中国古代王朝では、雲南・貴州のこうした漢民族以外の少数民族を西南夷(せいなんい)と呼んだ。
歴史の上での雲南地方では、中国史における戦国時代(B.C.403-B.C.221)にその黎明期があったとされている。戦国・楚(そ。?-B.C.223)の頃襄王(けいじょうおう。B.C.298-B.C.263)の時代(あるいは威王の時代か。いおう。B.C.339-B.C.329)にいた武将で、春秋五覇の1人と数えられる楚の名君・荘王(そうおう。B.C.614-B.C.591)の子孫と伝えられた荘蹻(そうきょう。荘豪とも。そうごう。生没年不明)が、現在の昆明市西南に、同省最大の湖である"滇池(てんち)"付近に遠征を行い、同地を楚の支配下に入れたが、その遠征路を占領した秦王朝(しん。?-B.C.206)によって帰路を断たれた。そこで荘蹻は滇池を拠点に初代王(在位不明)となって王国"滇(てん)"を建国したとされるが、伝説的要素が濃く、建国年はB.C.5世紀からB.C.3世紀頃と確定には至らず、滅亡年も紀元前2世紀から紀元後2世紀の間で諸説ある。この滇国が雲南を拠点にした初の王国であるとされる。これに関し、その後の歴史を語る上で、雲南の異称として"滇"が用いられることも多い。
一方で夜郎(やろう。B.C.523?-B.C.27)という国家があった。 夜郎は滇より建国が古いとされるが、拠点は現在の貴州省で、雲南寄りにある畢節(ひっせつ)市の赫章(かくしょう)県にあったとされ、また一時的に楚の荘蹻に占領されたとも言われている。司馬遷(しばせん。B.C.145?/135?-B.C.86?)著の紀伝体正史『史記(しき)』の『西南夷伝』によると、夜郎は西南夷国家の中で最も強勢であったとされた。さらに、前漢(ぜんかん。B.C.202-A.D.8)の武帝(ぶてい。位B.C.141-B.C.87)時代、前漢からの遣使が滇王・嘗羌(しょうきょう。位B.C.123?-B.C.85)の会見機会があり、嘗羌が「自国と漢はどちらが強勢か」という、漢王朝からしてみれば愚問に値する内容を遣使に尋ねた。そして隣国の夜郎も王は同様の愚問に値する内容を尋ねた。こうした故事から、"夜郎自らを大なりとす"、すなわち"夜郎自大(やろうじだい。自身の力量や世間を知らず、自信過剰に威張ること)"の言葉が生まれたとされる。
HP「世界史の目」より
白族(櫛田神社大幡主の一族)は雲南省昆明から紅(ファン)河を下りハロン湾から海南島を経由し肥後にやって来た
雲南省昆明(or大里?)
↓
海南省(海南島)白砂黎族自治県(加茂村?)
↓
隈本(熊本城のある千葉城町)
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多くの隈地名の地(佐賀東部、博多、小郡、朝倉、日田)に北上し展開する。
期を一にして入って来た阿蘇氏は天草下島の苓北町(この「苓」も黎族の「黎」と考えられます)を経由し阿蘇に進出します(そもそも天草は苓州ですね)。
こうして、恐らく紀元前後に中国の辺境から亡命してきた黎族(後の宇治族=多氏=阿蘇氏)と白族(後の櫛田神社の大幡主、熊野三山、下賀茂、上賀茂)という列島の最重要氏族の二つが形成され列島人の主要な勢力となって行ったと考えられるのです。
海南島南西部の黎族自治県には加茂という地区まであり、天御中主の後裔である下賀茂神社を思わせます