スポット150 菅原道真公の御両親
20180120
太宰府地名研究会 古川 清久
最近、「宮原誠一の神社見聞牒」の宮原誠一氏から同氏が作成された「重松家祖先之碑」という資料を頂きました。勿論、当方も含め、宮原氏自身は橘一族の後裔の末流と考えています。
今般、ご家族の方が重松家と関係ができたことから、菅原道真の本流の後裔と考えられる重松家についてまとめられたようです。
資料には道真公の流れが良く分かる系図が入っていましたのでご紹介しておきたいと思います。
故)百嶋由一郎氏からは「道真公は大幡主~豊玉彦直系の御本家と長脛彦後裔の御本家同志の婚姻によってお生まれになっておられます…」「神武天皇に逆らった長脛彦では都合が悪い事から豊玉彦を先祖としているとされておられ、それが当たりました…」と言ったお話をお聴きしていました。
百嶋由一郎鳥子系譜(部分)
この系譜自体は博多の櫛田神社の主神である大幡主の子の豊玉彦(ヤタガラス)の流れを汲む鳥子の一流の武夷鳥系の本家を示しているのですが、道真公の母方に当たる長脛彦後裔の本家の子女との間に産まれた一族である事を示唆しているのです。
ただ、その母君が誰なのかを知らなかったところ、この資料にその名(結果的には「姓」だけだったのですが)が出ていましたのでご紹介したいと思います。
その家系図自体は宮原氏がネット上から拾われたものでしかありません。
道真公からの系図は良く出ているのですが、それ以前の流れが書かれたものが無い為、今回、無断借用ながら利用させて頂いたのでした(以下)。
まず、当麻蹴速と相撲で争った野見宿禰こと天穂日命(ヤタガラス)の後裔から道真公の父方が産まれている事が分かります。母上は大伴とか伴とか言われてはいたのですが、系図としては初見でした。
また、菅原古人も比較的知られていますが、菅原を名乗った最初の人なのです。
菅原 古人(すがわら の ふるひと、生年不詳 - 延暦4年(785年)?)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。氏姓は土師宿禰のち菅原宿禰、菅原朝臣。阿波守・土師宇庭の子。官位は従五位下・遠江介。
光仁朝末の宝亀10年(779年)外従五位下に叙せられる。
天応元年(781年)桓武天皇の即位後に従五位下・遠江介に叙任される。まもなく、古人や道長ら一族15名が以下の通り、居住地である大和国添下郡菅原邑にちなんで菅原姓(菅原宿祢)への改姓を願い出て、これを許される。
祖業を顧みると、吉凶相半ばして、天皇の葬礼においては葬儀を掌り、祭の日には祭儀を預かり、このように奉仕することはまことに世間の習慣にも合っていた。しかし、現在はそうではなく専ら葬儀のみ預かっていて、祖業を深く考慮すると本意ではない。そこで居住地にちなんで土師から菅原姓へ改姓したい。
死後の延暦4年(785年)侍読としての功労により、4人の子息に対して学業に努めさせるため衣服と食糧が支給されている。
儒学者として高名で、余人で並ぶ者はなかった。一方で、家に財産の余裕がなく、子息は窮乏に苦しんだという。
ウィキペディア(20180120 12:11)による
さて、系図には道真公の御両親に当たる是善=コレヨシ(父) 伴氏女(母)が書かれています。
是善(父)は後述するとして、伴氏女(母)伴氏の女(メ=ムスメ)と読むべきで、まさか、バンノウジメと読むことはないでしょう。これについては知識を持ちません。
そこで、「日本史人物列伝」を参考にさせて頂きました。
ところが、残念なことに(注)当サイト内にある記事・画像等の無断複写及び転載は固くお断りいたしますと書かれています。
諦めようかとも考えましたが、非常に重要な内容ですので、お叱りが来れば削除するとして公開することに致した次第です。
この中から、母君が金山彦の後裔たる長脛彦の末流にあるという要素が多少とも見出せるならばと考えているところです。
既に、九州島内にも十社ほどの長脛彦系祭祀を確認していますので(全て実踏していますが、まだあるはずです)、繋がりが見いだせるのではないかと考えます。
平安時代
菅原道真の母
菅原是善の室
伴氏(大伴氏)
伴氏(菅原道真の母)の出自に関しては、正確な記録が残されておらず伴氏(大伴氏)出身以外は不明であり、伴氏が菅原是善の室となった時期も一切未詳である。
承和12(845)年、伴氏は道真を出産。
幼少時の道真は、体が弱く、伴氏も苦労したが、道真が学問の道に進むように献身的に導き育てた。
貞観4(862)年には、道真は文章生となる。
やがて文章得業生となった道真は、貞観12(870)年に、方略試を及第。道真の未来が、これから拓けようとする矢先の貞観14(872)年正月に、伴氏は、その生涯を終える。
菅原道真の母は、ただ「伴氏」と伝えられるだけで、はっきりとした系譜や経歴はおろか、名前さえ伝わっていない。菅原是善との婚姻時期も判明しない。また、道真は是善の三男であるが、道真の上の二人の兄の生母が、伴氏であったのか、どうかも、一切不明である。
是善の子供の内、ただ、伴氏が道真を出産したことがわかるのみである。
その出産場所は、一般に勘解由小路南にあった是善の屋敷とされるが、むしろ、平安京内の伴氏邸と考える方が自然である。誕生後から幼い頃の道真は、とても体が弱く、道真に死が目前まで迫ったこともあった。
けれども、伴氏は必死に観音を信心し、観音像造立の発願によって、道真の命が救われたと伝えられている。道真が元服した際に、伴氏が、ひさかたの 月の桂も 折るばかり 家の風をも 吹かせてしがな」
と詠んだ歌が『拾遺集』に残されている。「国家試験に合格し菅原家の学問の気風を立派に受け継ぐように」という母心である。この歌からは、単に優しいだけでなく、時には厳しく叱咤激励しながら、道真に対して、持てる全ての愛情を注ぎ込んだ伴氏の姿が窺える。なお、伴氏が、この歌の中で詠んだ「家の風」は、今日では「家風」という熟語として親しまれているもので、日本における「家風」の慣用は、この伴氏によって、始められたと言われる所以である。道真は、母の期待によく応え、文章生となる。
が、伴氏の幸せは、長く続かなかった。貞観8(866)年に『応天門の変』が起こり、事件の首謀者として、伴氏の一族の伴善男が、伊豆へ流罪となるのである。伴氏の実家は、ここに没落の一途を辿る。
また、『応天門の変』に連座し、伴氏の兄が八丈島へ流罪に処されたとする説もある等、この事件によって、伴氏が受けた心労は、計り知れないものがあったと思われる。
(注)当サイト内にある記事・画像等の無断複写及び転載は固くお断りいたします
悲しみに打ちひしがれる母を励ますかのように、道真は、文章得業生に進むと、やがて妻を迎え、遂には、
文武天皇朝以来、僅か60数人ほどしか合格者を出していない超難関の方略試に合格し、学者としての面目躍如を果たすのである。それは、伴氏にとって、人生最大の喜びの瞬間でもあった。
しかし、伴氏は、貞観14(872)年に亡くなる。
『応天門の変』後、道真の立身出世が叶うことだけをひたすらに信じ、気力だけで生きて来た伴氏が、点し続けて来た命の灯火の静かに燃え尽きた瞬間だった。
伴氏が亡くなった当時、存問勃海客使の任にあった道真は、喪に服するため一年間、全ての官職を解かれるという当時の慣例に従い職を解任される。
しかし、僅か数ヵ月後の5月には、勅命によって、再び職に復帰し、貞観16(874)年には、道真は遂に従五位下へ昇進を果たす。
朝廷において、道真の学識が、いかに高く評価されていたかを物語るものであり、伴氏の母として、ひたすらに道真を支え続けた努力が、花開いた結果でもあった。
現在、北野天満宮の参道脇に伴氏社、そして、同じく北野天満宮隣の東向観音寺に伴氏廟が建てられているが、それこそは、あたかも没後に怨霊として誰からも畏怖された道真の荒ぶる魂を、ただひとり優しく包み込み静かに寄り添う絶対無二の母、伴氏の姿、そのものであろう。
時に厳しく、時に優しく、愛する我が子に持てる全てを注ぎ育んだ伴氏の姿は、「日本の母親」像の原点とも言える。
一般的に伴氏が長脛彦の後裔であるという話は直接的には知らないのですが、愛知県の豊橋などに集中する氏族であり、木瓜を家紋とする名族であることから、金山彦の後裔である事が見えて来ます。
では、是善(父)はどうなのでしょうか?
これについては、九州でもかなり頻繁に見かけます。
九州に於いて最も有名なのが、大伴部博麻(ハカマ)顕彰碑の傍らに置かれた是善王社です。
ざっと1,300年前の出来事です。身を捨ててまで愛国の精神を実行した一兵士の物語です。
わが国で最古の史書「日本書紀」には古い時代の八女地方に関係する事件や事績が幾篇か記述されています。「八女」の地名の起こりは景行紀18年(神話の時代)に、「磐井の乱」は継体紀21年(527年)に、そして持統紀4年(690年)のくだりには憂国の一兵士の帰国と、その兵士の行動を天皇さまが一般に知らせた公文書が記されています。
一兵士というのは大伴部(おおともべ)博(はか)麻(ま)のことで彼の事績は後述しますが、博麻は筑紫(ちくしの)国上陽(くにかみつやめの)郡(こおり)(旧八女郡の大半)の出身と記されています。因みに八女市上陽町の町名のおこりは上陽に由来しています。そして博麻の顕彰碑は上陽町北川内公園内に在ります。
以下、日本書紀など幾つかの歴史書を参考にして博麻の行動と当時の功績をまとめてみます。
第37代斉明天皇7年(661年)韓半島の百済(くだら)(当時、我が国の友好国)が唐、新羅(しらぎ)連合軍の侵攻をうけ滅亡しました。天皇は百済王などからの救援要請をうけ日本軍を出兵させました。博麻も一兵卒として従軍しました。日本軍は韓半島南部の各地で唐、新羅連合軍と連戦しましたが連敗しました。博麻は661年、唐軍の捕虜となり、唐の都、長安(現在の西安)へ連行されました。そこにはすでに捕虜となっていた日本軍兵士4名がいました。数年後に彼らは唐人の計画(唐の日本侵攻計画か?)があることを知りました。5名はこの情報を一日も早く本朝(日本政府)へ報(し)らせねばと、じりじりしましたが肝心の帰国旅費がありません。そのとき博麻が言いました。『わしの体を唐人の奴隷として売る。その金(かね)で君らは帰国せよ』と。4名は博麻の計らいに従って帰国し本朝に急を告げたのでした。そのご博麻はひとり唐にとどまること30年、やっと前述のように690年に新羅の外交官に連れられて帰国したのでした。
持統天皇は公文書を発して博麻の行動を讃えられました。「博麻よ。お前は母国を思い、己を売ってまで忠誠を示してくれた。感謝する。それ故にお前を従7位下の位(役人の課長級か?)に就ける外(1)ふとぎぬ(絹織物)十反(2)真綿十屯(1・68キログラムか?)(3)布三十反(4)稲千束(ぞく)(一束は十にぎり)(5)水田四町は曾孫まで引き継げ(6)課税は父族、母族、妻族まで免じる」と褒美(ほうび)を贈ってその行動を顕彰されたのでした。写真は大伴部博麻の碑
八女市HPによる
実は、この顕彰碑は福岡県八女市上陽町北川内の公園内の小高い山の上に置かれているのですが、この顕彰碑に隣接して善神王社=是善王社が置かれているのです。
大伴部博麻が部の民であって直接的には大伴氏ではなかったとしても、この配置を考える時、大伴氏が付近にいたことは間違いないのであり、そこに善神王社=是善王社が置かれているとすれば、これらの背景を十分に知った人々によって祀られている事が見えて来るのです。
実は、この上陽町から筑後川方面に直接抜ける耳納山越えのルートにも是善王社が置かれています。
してみると、この八女市の黒木、上陽の一帯に、金山彦系、大幡主系の人々が集中して住んでいた事が見えて来るのです。
しかし、情けない事に学会通説に尾を振る学芸員が書くと、この唐新羅連合軍と激突した白村江の戦いの結果捕虜となったのが、筑紫君=倭国王(決して背後で裏切った近畿大和朝廷の前身の奈良の日和見派ではない)薩野馬(サチヤマ)だったとは書いていないのです。
つまり、郷土史家以下の水準でしか無い事が分かるのです。
なお、大分県下には数十社に上る善神王社=是善王社があるのですが、地元の郷土史家を含めほとんど理解しておられない様なのです。
ただ、大分県下にこの系統の神社が集中する理由は、道真公の母君の系統が大伴宗麟とどのような関係になっているかを考えて見る価値も出て来たようです。
大分県下の善神王社=是善王社についてもご紹介しておきましょう。
国東市国見町赤根で 1年ごと畑地区・一円坊地区の山神社で行う祭礼で、社はないが、旗がよりしろとなっている。
善神王祭り
赤根地区で行われるぜんじょう祭りは、ちょっと変わった祭りである。赤根地区の二つのお宮で隔年ごとに祭礼が行われるが祭神の善神王はこの社の中には祀られていない。畑の古幡社・一円坊の赤根社のなかの赤根社に石祠はあるがその前での神事は行われない。
神の依代は当場の家の前に立てられている幟である。当場は年々交替するので、当場の神事が
終了すると、幟は神社に移転する。
祭典当日の夕方、当場に当たった家の中で神事を行い神楽を舞う、それより行列を組んでお宮に至り、大松明を建てる。この松明建てが勇壮で、地区の男衆だけでは手が足りず、元気な見物客に加勢を頼む。音頭取りの指図に合わせて徐々に立ちあげていく。長い竹悼で力一杯に突き上げていく、巧みにバランスを取りながら立てる様は壮観である゛竹樟に支えられ、立ち上がった大松明はお宮の森を明々と照らしながら炎は幟の旗とともに揺れ動く。善神王は武内宿禰のことだそうだが、武内宿禰は四世紀頃の人物で伝承によると300年も生きていたそうだが多分、宿禰とは当時の階位で親子何代ものひとが宿禰の地位にあったことから長生きしたように伝えられたものだろう。
武内宿禰を祀った社は久留米の高良大社で、神功皇后が朝鮮に出兵したとき、高良の神の威力で新羅を降伏させたので、この神を祀ったと言われている。
八幡宮では脇官として祀られているが、別宮社でも、本殿に向かって右の社に祀られている。神功皇后を助け応神天皇の臣下として補弼の任に当たり、その功績により全国の八幡宮に祀られているようだ。
赤根の善神王は江戸時代にこの地区の人達が大分の賀来神社から勧請したものだが、その賀来神社は古代豊後の一宮で大分の由原宮(杵原宮)とか賀来宮とか呼ばれて賀来荘の中心になっていた。近世になって杵原八幡と賀来社とにわかれたが、いずれも八幡社として地域の人々に厚く信仰されている。その八幡宮のなかの善神王だけが赤根地区に勧請したものかよく分からない。町内に善神王を祀ったところは、龍神社、伊美崎社、城山社、小高島の山神社、伊美金久の観音堂などがある。
この大松明も国東半島に顕著なものですが、久留米の大善寺玉垂宮の鬼夜と関係が深いものと理解しています。
百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
と、ここまで書いた後、故)百嶋先生の資料を見ていると、伴氏女が書かれた前掲系図とほぼ同じものにメモが残されていました。当然、十分にご存じだったのでしょう。伴氏は大伴氏を起源にしていますし、大伴宗麟に繋がるかどうかは知りませんが、大分県に是善王社、善神王社が異常に多い事から関係なしとはしないでしょう。恐らく、このメモが薩摩川内の藤川天神に逃げ都から妻と娘を呼び寄せたとか、大分県玖珠町菅原の二系統の子孫の存在といった話と関係があるのだろうと思っています。
この藤川天神の話としては、ひぼろぎ逍遥 019 で取り上げています。
19 | 道真は薩摩川内、旧東郷町藤川で余生を送った! |
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