542 旧七山村の三つの鳥居は殷の鳥居ではないのか? ”佐賀県唐津市七山馬川神社”
20171218
太宰府地名研究会 古川 清久
佐賀県は私自身の出身地でありながら、何故かそれ故にフィールド・ワークの対象としてこなかった(いつでも見られるし、それよりも、むしろ遠くを知りたい…)という事から、逆に新鮮味を感じているこの頃ですが、今般、2018年元旦を挟んで12月17日と1月28日のいずれも日曜日にトレッキングを行なう事としました。
今回の目的地は佐賀県の玄海灘側、唐津市の東部の山間地の旧七山村、東に峠を越えれば佐賀県佐賀市になるという旧天領の東の果ての最奥部一帯でした。
年末の最も忙しい時期であり、雪がパラツク(凍結もあり)中での高地でのトレッキングでしたので10人にも満たないものになりましたが、それでも集まって来られるような方々こそ私達が求めている人であって、あったかい中で独りよがりの好い加減な「邪馬台国九州説」風の話でお茶を濁すような研究会では何も残らない事から、より、精鋭の研究者の集団に切り替えて行く必要があるのです。
七山村(ななやまむら)は、佐賀県北部にあった村で、東松浦郡に属していた。1889年に町村制が施行されて以降、2006年に唐津市へ編入するまで存在した。
ウィキペディア(20171217 09:15)による
勿論、山がちな土地である事は言うまでもなく、事実上の裏日本玄の海灘側である事から、実質的には、南国の九州でも山陰~北陸のようにかなりの雪が降る土地柄である事も認識しておくべきなのです。
さて、所謂、「魏志倭人伝」では末盧(マツラ)国を想定し呼子だか唐津だかに上陸した後、伊都国に向かって陸路を通ったか、何故、海路を選択しなかったのかなどと言われているエリアになります。
一般的には唐津市の桜馬場遺跡や伊都島市の夥しい王墓級遺跡群などから色々な事が議論されていますが、この一帯の神社研究など見向きもされた事などはなく、この地にどのような人々がいたのかなど誰一人考えていない事は明らかです。
ところが、私達、百嶋神社考古学を研究の軸に据える太宰府地名研究会の人々には、一般とは違った世界と特徴的な事実が見えてくるのです(青枠福岡県糸島市旧二丈町、赤枠佐賀県唐津市旧七山村)。
簡略化して申し上げると、このエリアで行われている大半の祭祀が白山姫が対象であり、この一帯に存在するのは、白川伯王、白山姫=天御中主命、大幡主、豊玉彦=ヤタガラス…下賀茂、上賀茂系統の神社になるのです。
今般、12月、1月、2月の三回を費やし、旧二丈町~旧七山村の15~20社を実見する事としたのです。
その理由は、熊本県八代市から氷川町の不知火海(八代湾)正面のエリア=古代日本の江南(揚子江流域)からの窓口が殆ど天御中主=白山姫=北辰=妙見宮…つまり大幡主、豊玉彦=ヤタガラス系白族(ペイツー)のエリアであった事が見えてきたからであり、少し時代が下がった時代の玄関口一帯がどのようなものであったのかを連続して探ろうとしたからでした。
当然にも雨や雪もありますし、年末年始の繁忙期である事も考慮し、場合によっては休会も含め5~6ケ月を費やす事になるやも知れませんが、私達には俗に「魏志倭人伝」の魏使の本土上陸を受入れたのがどのような人々であったのが見えて来るのではないかと考えているのです。
半島から対馬、壱岐を経て東松浦半島に入った人々は、潮に乗って東の博多湾に向かうでしょうが、その一帯に住み着いていた人々が誰だったかを考えます。二丈町から七山村に掛けての一帯が大幡主系=豊玉彦(下賀茂神社)、崇神天皇系(上賀茂神社)系の人々が住み着いていた場所である事を確認するためのものでした。七山村については正月以降のトレッキングとしますが、古代の糸島~唐津に掛けての一帯がいかなる領域かを確認します。
2017年12月17日 日曜日玄海、太宰府地名研究会トレッキング「二丈七山の生白山宮を探る!」①
2018年 1月28日 日曜日玄海、太宰府地名研究会トレッキング「二丈七山の生白山宮を探る!」②
「七山村の白山宮を探る!トレッキング」
2017年12月17日 日曜日 午前10:00 集合~出発 連絡は中島まで 090-5289-2994
二丈町(糸島市)有)ふくの里 P
福岡県糸島市二丈福井6333 ℡092-326-6886
駐車場に集合! 緊急連絡 ℡:09062983254
大雨の場合は中止! ※参加費(資料代)500円 各自、弁当、お賽銭、傘持参の事…
訪問予定の神社集合場所:唐津市七山村 鳴神の庄 P佐賀県唐津市七山滝川1048-3 ℡0955-58-2077
訪問予定の神社
① 仁部の上下岩屋神社 ② 桑原の子安神社(賀茂族が祀る) ③馬川の宗五郎神社(八面権現)
④ 加茂神社 外…
09062983254古川までご連絡下さい。参加申込等:090-5289‐2994(中島)第二次七山トレッキン(新春三社詣り)は初詣でが収まった1月末に行ないます。①妙見神社、②賀茂神社、③白木神社、④武雄神社…外、大白木の探索などを行いますが、天候次第です。
何故この地域に拘るかは、前述したとおり紀元前後から魏志倭人伝時代から九州王朝が滅亡する白村江の戦い(勿論戦ったのは九州王朝で田舎の奈良などではない)の全期間を通じて影響力を行使し続けたと考えられる白族(白川伯王の一族)系の神社が集中することが良く見えるからです。
ただ、今回はこの問題には敢て踏込みません。その問題は別稿とする事として、この鳥居の配置をご覧下さい。
手狭な境内に最大の合祀が行われ、参道に最大限配置された鳥居であるのならばそれで良いのですが、もしかしたらそうではないのかも知れないと考えたからです。詳しくは、以下の ひぼろぎ逍遥(跡宮)のバック・ナンバー外をお読み頂きたいのですが、
383 | 国東半島の殷の鳥居(瀛の鳥居) “国東市国東町来浦の八坂神社” |
ひぼろぎ逍遥 スポット110 三峯神社の殷の鳥居 ”金山彦系神社(埼玉県秩父市)”
これは、現地に殷の鳥居が存在した事の名残なのではないかと考えたのでした。
この殷の鳥居についてはこれまでにも何度も触れましたのでご存じの方も多いでしょうが、この鳥居を使うのは主として金山彦(カグツチ)系の神社の祭祀を行う人々(金山彦系と白族とは姻戚関係を結んでいますので白族の一帯にもありうるのですが)の痕跡ではないかと思うのでした。
世界遺産の殷墟博物館
最後に西日本の殷の鳥居をお見せしましょう
岐神(クナトノカミ)=出雲井神社の祭神=長脛彦(ナガスネヒコ)の祭祀をご覧頂きましょう。
劇的なまでの強烈な印象を受けますが、殷の鳥居が置かれています。
今まで、長浜神社以外ではこの鳥居に遭遇した事は3社、4回しかありません。
佐賀県嬉野市塩田町の八天神社、福岡県吉富町の八幡古表神社(二基)、国東市国東町来浦の八坂神社
佐賀県嬉野市塩田町の八天神社
勝手ながら、この岐神についても解説を省略します。関心をお持ちの方は、先行して以下をお読みください。
このタイプの鳥居は三つ鳥居とも呼ばれますが、殷の鳥居とも呼ばれます。まだまだ遭遇していないものがあるとは思いますが、数は多くはありません。ヤマトタケル伝承が伝えられる三峯神社にしても、金山彦の後裔たるナガスネヒコ、オキツヨソタラシヒメの後裔にヤマトタケル、仲哀があるのですから当然と言えるでしょう。つまりカガセオの系統の神社なのであり、だからこそ殷の鳥居を持っているのです。
配列順(向かって左→右)
八面神社は九州では大分県中津市で確認していますが金山彦で良いと思います。
中山神社も吉備の中山で有名な吉備津彦神社ですが、神武僭称崇神が覆い被さっており、本体は金山彦大神で良いと思います。
祭神 大吉備津彦命(大吉備津日子大神)御子吉備津彦命
相 殿 孝霊天皇、孝元天皇、開化天皇、崇神天皇、日子刺肩別命、天足彦國押人命、大倭迹々日百襲比賣命、大倭迹々日稚屋比賣命、金山彦大神、大山咋大神
問題は如意大明神ですが、完全に仏教化されていて判別不能です。
しかし、如意大明神は摂津の「大寺縁起」(勧請の三神ハ、国常立尊、正八幡宮、春日大明神、神功皇后、玉依姫およひ如意大明神、蛭子命、八祖明神、大神宮の内外なり。 今しはらく影向の三社のおほむねをあくれは、往時大明神託し給ひて、吾ハ是都率の内院、第三の高貴徳王大菩薩なりと)などに確認できるためもう少し考えさせて頂きます。