543 国境の寂れ行く神社について “宮崎県五ヶ瀬町波帰の波帰之瀬三代小波三郎水神神社”
20171221
太宰府地名研究会 古川 清久
以前から宮崎県(五ヶ瀬町)と熊本県(山都町)との境界を成す五ヶ瀬川の大峡谷を横断し通り抜けたいと思っていました。
熊本県高森町、山都町と宮崎県五ヶ瀬町、高千穂町などの境界が鬩ぎあうエリアは文字通りの秘境であり僻陬の地です。
今まで二~三度熊本県側から谷底に降りたことはあったのですが、橋を渡り宮崎県側に抜けたいという思いは続いていました。
この日向と肥後を繋ぐ国境の関所のような所にも神社があるのです。
昔はこの辺りしか渡河できなかったようですから、橋もあり、店もあったようですが、今や大峡谷を跨ぐ橋が造られ、一日に百台ほどの車しか通わない場所になっているのです。
今や九州電力の水路式発電所があるだけで、その管理要員と道路工事関係者だけが通過する打ち捨てられた様な谷底の地がここなのです。
(川)の窟に住んだ。その後、今の草部吉見神社のところにあった池を欲し宮居を定め土族を平らげたとされますが(草部吉見神社の伝承外)、その川走川こそ地図に出てくる川なのです。
まあ、滝のように迸る急流だったのでしょう。
この谷底の宮崎県側にあるのが今回の神社です
道路から数百メートル降ると小さな神社がありました
もはや祭祀を引き継ぐ人も絶えたのでしょう。実質的には、廃社と言ってもおかしくない状態になっていました。
ギリギリ雨は凌げそうでしたが、既に床は落ち始めていましたしどう見ても後五年で破れる事は間違いないでしょう。
しかし、藩政時代から引き継がれたと思われる御神体が残っていました。
私が来る前にはどれほど前に参拝者が来ただろうかと思ってしまいましたが、今後、この様な神社が激増する時代に入って行く事でしょう。
一体誰が祀られているのか?男神なのか女神なのか、夫婦神なのか親子神なのか…誰も知らない時代が目と鼻の先に控える時代になっているのです。
大都会で跡目争いが起こるような恵まれた時代に殺傷事件が起こるありさまです。藩政時代まで神社での殺傷は死罪となる大罪だったのですが、それを宮司家が引き起こすようでは如何ともしがたい話です。
波帰や吐の瀬と言った地名は嘔吐の吐であるはずで、水が吐き出し、吹き出し流れ合う場所が吐合、落合、流合、川会、河合で問題はありません。
三代小波三郎水神神社の「三郎」は草部吉見神社の祭神に三郎が出て来ますが、これは宮崎県側の神様ですから単純には乗れません。
旧郷社 御祭神
一の宮 日子八井命 二の宮 比咩御子命 三の宮 天彦命 四の宮 天比咩命=三郎神社の祭神
五の宮 阿蘇都彦命 六の宮 阿蘇都比咩命 七の宮 新彦命 八の宮 彌比咩命
九の宮 速瓶玉命 十の宮 若彦命 十一の宮 新比咩命 十二の宮 彦御子命
社殿を見ると、「波帰之瀬龍王水神」と書かれたお札が残されていました。これで何とか見当が着きました。
「八大」は仏教の概念の八仏ですが、龍王、龍神は実は豊玉彦=ヤタガラスなのです。
それは、地名にも反映されています。
この波帰集落(と言っても人家は僅かです)の裏山には「烏岳」があり、「桑野内」地名も蚕を飼い生糸を生産し、絹織物を作る民が住む所に付くのが桑田、桑野、桑原…といった地名なのです。
その生糸で絹織物を生産し莫大な富を築いたのが秦氏、太秦であり、後の京都の繊維産業の基礎を形成するのですが、彼らは、大陸から豊前などに大量に入って来た秦氏(秦の始皇帝の一族、秦の臣民、万里
地名の小半田(読みはコハンダでしたかね…)しかし、本来は「半田」、「羽田」、「八田」(ハッタ、ヤタガラス)、畑、波多と同様の意味なのです。
どちらにしても「烏岳」だけで見当が粗方着くのです。
高千穂観光では脚光を浴びる神社なのですから、同じ神様を粗末にするのは如何かと思うばかりです。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)にはイヅノメ(ヤタガラスの娘)を取り上げ6本ほど書いています。
これをお読み頂ただければ竜王の正体がお分かり頂けれでしょう。
山幸が釣針を失い困っていると塩土翁がやって来て龍王のところに行く事を薦めますが、その塩土翁こそヤタガラスの父神である大幡主なのです。
438 | 伊豆能売の神とは何か? ⑥ “伊豆能賣の中間調査を 終えて思う事” |
437 | 伊豆能売の神とは何か? ⑤ “伊豆能賣は 何故「イヅノメ」 と呼ばれたのか?” |
436 | 伊豆能売の神とは何か? ④ “遠賀川左岸に伊豆能賣を発見した ”遠賀町の伊豆神社“ |
435 | 伊豆能売の神とは何か? ③ “遠賀川右岸の二つ目の 伊豆神社の元宮か?”久我神社 |
434 | 伊豆能売の神とは何か? ② “二つ目の伊豆神社” イヅノメの神が少し分かってきました |
433 | 伊豆能売の神とは何か? ① “遠賀川河口の両岸に 伊豆神社が並ぶ” |
百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
ついでに申し上げておきますが、五ヶ瀬町は神武高兄五瀬命もこの五ヶ瀬町、五ヶ瀬川から付された名なのです。それに、スサノウもスサノウの姉神のクラオカミ(神俣姫)もいたのです(五ヶ瀬町鞍岡の祇園山の麓)。その話は、蘇民将来、巨胆将来の話になりますので、これもバック・ナンバーをお読み頂きたいと思います。
ひぼろぎ逍遥(跡宮)
371 | 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 ④ 宮崎県五ヶ瀬町 鞍岡の祇園神社の更に深部へ |
370 | 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 ③ 分離先行トレッキング |
361 | 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 ② 鳥瞰 |
346 | 蘇民将来 巨旦将来と百嶋神代系譜 |
ひぼろぎ逍遥
118 | 蘇民将来(ソミンショウライ)巨旦将来(コタンショウライ) |
117 | どうせ行くなら涼しい神社へ |
さて、今回はもう少しで消えて無くなるような神社をご紹介しました。
恐らくこの神社は、藩政時代に通商路であったところに神社を置き、お賽銭を集め、教化を図ったものと思われますが、これを支えた地元も何時しか過疎化が進み、信仰を失うに至ったものと思われます。
時代の流れにより致し方ないのかも知れませんが、現在、道路建設が進められており、この地にも大橋梁が建設されるものと思われます。
しかし、この谷底の神社が再建されるとは思えません。
肥後人を出迎える龍王水神がヤタガラスである事は書き留めておきたいと思います。