スポット182 赤村の超巨大古墳発見 ④ と古代史研究の未来について “福岡県赤村内田”
20180517
太宰府地名研究会 古川 清久
グーグル・アースでも容易に見いだせるのですが、今年の春以来、古墳としか見えようのない福岡県赤村の巨大丘陵が、(あくまでも)仁徳陵とされる大山(大仙山)古墳に次ぐとか匹敵する超大型古墳ではないかとの話が持ち上がり、マスコミに地域を揚げて思惑が膨らんでいます。
場所は一般にはあまりご存じではない福岡県の筑豊地方、田川郡赤村の内田地区です。
既に公開されてしまった事から申し上げていますが、この古墳の存在については一部の九州王朝論者の間では以前からかなり知れ亘っていました。
また、信用できる研究者に対しては当方外からも秘密裏に情報を流してもおりました。
私がこの事実を知ってからしばらくして、元朝日新聞の記者であり(ミネルヴァ書房から「太宰府は日本の首都だった」外3著)考古学に詳しい内倉武久氏をお連れし、現地の筍(タケノコ)山などに入り、高坏の破片となどの土器片を拾い、地権者である筍栽培農家の方からも大量の土器片を入れた箱などを見せて貰っていました。そして、何とかオーバー・グランドに引き上げられないものかと工作を始めていたのでした。
そもそも古田系とは異なる傍流の九州王朝論者の一部には「豊前王朝論」なる概念も存在し、これまで九州王朝の連合国家、楕円国家論、分封制、分裂国家(九州王朝内部の南北朝ならぬ東西朝)といった様々な仮説が提出されていました。
代表的なところでは大柴英雄の「豊前王朝」、坂田 隆「邪馬壱国の歴史 (1975年)」 邪馬台国九州説、田川市・京都郡、室伏志畔氏、佃収…など 主として傍系の九州王朝論者の一群になるのでしょう。
この衝撃の事実を知って以来の私自身の個人的な考え方としては、始めから宣伝戦を行なうべきだというものでした。
それは、「邪馬台国畿内説」などといった大嘘の、唯一、最大の根拠とされてきたのが畿内の大型古墳群であって、近畿大和朝廷こそは邪馬台国の後継国家であるに違いないと言った単純な思い込みであって、九州などには巨大古墳は存在しないしあってはならないとするのが、利権集団としての考古学協会であり、その神輿に乗っている(その実使われている)考古学の京都学派なのでした。
そのため、「九州でどのように重要なものが出土しようが発見されようが蓋をし、重要なものほどコンクリートで固めてしまい発掘調査費のほとんどを畿内で独占しようとの思惑があるからと考えてきました。
これこそが、古田武彦や九州王朝論が無視され攻撃され、他愛もない邪馬台国九州説までもが相手にされず、お伽話風のご当地邪馬台国説だけが許容されてきたのでした。(簡単に言えば関西の解同利権)
つまり、教育委員会や学芸員は元より、京都学派に占拠された今の発掘調査の現場では本物ほど蓋をされ、畿内説を補強する発掘調査や中程度の重要性を持った物だけを自分たちの都合の良いものを独占的に調査し発表すると言う構造が存在していることから通常は絶対に蓋をされてしまう恐れがあるのです。
このため考古学の発掘調査の現場に精通した内倉武久氏は、蓋をすることが絶対にできないレベルの何らかの物証(羨道など)を得るところまで進め、その後公表するべきであろうと考えられ、その意向に従ってきたのでした。
私自身、通説派はどうせ蓋をするに決まっているし、潰される事は分かり切っているのだから、一早く公表し、畿内に先行する豊前一帯の巨大古墳の存在(実はまだまだあるのです)を明らかにし、原子力村同様の京都学派による「考古学村」ぶりを炙り出し暴露し世論に訴え京都学派に占拠された考古学村を炙りだしすべきであると考えてきたのでした。
勿論、内倉氏の考え方が正論なのですが、現在の文化財保護法は京都学派のイニシアの元に独占的に発掘の権利を付与する構造になっており、恐らく時間だけが失われる事にしかならないだろうと考えていたのでした。当然の事ながら、いずれはグーグル・アースによって誰かが発見するだろうと考えていました。
そして、それが現実のものとなるのです。そのブログが公表されたのは2018年の1月でした。以下。
ただ大変残念なことに、九州王朝論者など自称される方でさえ、実質的には現地を踏もうともされず、踏み薮を掻き分けて調べて見ようとされる方は極少数どころかほぼ皆無であって、大半は邪馬台国本読みの半通説紛いの方々ばかりと言った有様では京都学派の専横ぶりは今後とも続く事になるでしょう。
このような九州王朝論を標榜する団体も自ら九州王朝の存在の痕跡の残る現地を調べようなどとはせず、月例会の大半を通説派の学芸員の御高説を拝聴し平伏するありさまなのですから情けないばかりです。
まあ、このような言わば邪馬台国本を読む会、九州王朝論を楽しむ会では古田武彦が一生を掛けて切り開き将来を託した九州王朝論の未来は切り開けない事でしょうし、古田が残した九州王朝探究の任務はとん挫することでしょう。
しかし、“あんなところにそんな大きな古墳などがあるはずはないんですが…”と言わざるを得なかった京都学派のNダニ氏(元は奈良辺りの小学校の教員養成大学)の半ば引きつった記者会見は見ものでした。
今後どのようにしてこの巨大古墳(?)を無き物とされるかは興味深い上に、日本の古代史学会の在り様を見据えて行きたいと思うものです。従って、今回はこの列島の古代史研究に関する話をしたいと思います。
九州などには巨大古墳は存在しないし、あってはならないとするのが、利権集団としての考古学協会であり、その神輿に乗っている(その実使われている)考古学の京都学派なのであって、「九州でどのように重要なものが出土しようが発見されようが、どうせ蓋をして重要なものほどコンクリートで固めてしまい、発掘調査費のほとんどを畿内で独占しようとの思惑があるからと考えてきました。 と前述しました。
列島の古代史研究と言った場合、官製研究はただ通説と師へのご追従(ツイショウ)研究だけであって、真面目に古代の真実へのメスを入れているのは、唯一、極一部の九州王朝論者だけなのです。ただし、文章も書かず、ブログも書かず、出版もせずに、講演もしない、できない…といったただの邪馬台国本読みの愛好会とか九州王朝論を楽しむ会…といった方々に古田武彦が託した残余の研究を継承する人が生み出される可能性などなどないのであって、古田史学の会系の人々、佃収グループ、米田良三から内倉武久周辺といった方々にしか期待できないのです。
かつて、古田武彦の初期三部作(最近のお若い方々はこれさえも読んでいない人が多いのですが)が公刊され、他愛もない邪馬台国本しか知らなかった古代史ファンが一気に、邪馬台国九州説~九州王朝論へとなだれ込み、新たな列島の古代史の深層を探究する動きが広がった時期がありました。
か古代史の研究者の数も一握りしかいない時代があたりまえのように続いていました。
その時代に、古田九州王朝論の洗礼を受けた在野の研究者達が市民の古代研究会などに集まり始め、コアの研究者が全国で数千人、購読者まで含めれば全体で万単位の通説から離脱した古代史ファンが産み出されたのでした。
この時代、創価学会の池田大作氏さえもこの古田九州王朝論の熱烈なファンだったと言う話もある(その一端は私も参加した2015年の追悼式にも追悼文が寄せられていることでも分かります)のです。
二〇一五年十月十四日、古田武彦氏が亡くなられた。享年八九歳。…
追悼会には全国各地からファンや研究者が参集された。次の方々からは追悼文が寄せられた)。古田氏生前の親交の一端をうかがわせるものである。
荻上紘一氏(大妻女子大学学長)、池田大作氏(創価学会インターナショナル会長)、佐藤弘夫(東北大学教授、前・日本思想史学会々長)、高島忠平氏(学校法人旭学園理事長、考古学者)、中山千夏氏、桂米團治氏(落語家)、森嶋瑤子氏(故森嶋通夫ロンドン大学教授夫人) ※順不同。肩書きは当時のもの。
「戦後型皇国史観」に抗する学問(古賀達也)季報唯物論研究 第138号 ● 2017/2より掲載
この他の有名人にも古田武彦ファンは多く、上岡龍太郎氏もそのお一人だったでしょう。
ここで、もう時効だと思いますので古田史学の会の中枢部から聴いた話をお話しします。
従って、その範囲での話ですのでご判断は読者にお任せします。
この時代(自公連立政権の成立は20年も遡る昔の話になりますが、それ以前の中曽根政権下において)、池田大作サイドから古田武彦氏に対して、この新たに登場してきた日の出の勢いの「九州王朝論」への支援を行い古田武彦氏をしかるべき古代史の研究セクターの代表者として援助し大きな役割を果たさせたいが、市民の古代研究会の内部にいる全共闘系など左翼系の人々を切って欲しい…との話が持ち込まれたと言うのです。
在野の研究者でしかなかった故)古田武彦氏にとっては破格の条件であって、それなりに熟考されたと聴きますが、自らの説を信じ共に研究し九州王朝論の広宣流布(これは日蓮宗の用語=法華経の言葉ですが…)してくれている言わば同志を切り捨てる事はできないとして断ったという話だったのです。
これが、権力の側からの本物の毒まんじゅうだったのか?それとも考慮に値する戦術的チャンスだったのかは、今となっては永遠の謎でしかありません。
しかし、もしも、前者であったとしたならば、このような手段は生き馬の目を貫く様な世界では頻繁に起こりうる禁じ手であって、商社マンでも、外交官でも、自衛隊の武官に在っても…絶えず狙われる「ハニー・トラップ」の様なものであり、それほど古田九州王朝論の影響力も波及力も共に大きかったのでした。
ここでお分かりになると思いますが、古田武彦氏の研究者としての姿勢でありあり潔癖性です。
往々にして起こる権力(もしかしたら別動隊)からの懐柔や甘い誘いなどに対して決然として自説と自己の研究姿勢を守るための自由と独立性の保持こそが真の研究者の資質である事です。
権力に尾を振る官製研究はどうでも良いとして、九州王朝論のように、国史とも言うべき「古事記」「日本書紀」をひっくり返すような国体に挑戦する研究を行うものにとっては、行政との関係、国家権力との関係において純血性を維持する事こそが生命線なのであって、それ無くしては、九州王朝論はおろか他愛もない邪馬台国九州説にさえも一歩も近づけないのです。
このところ、町興し村興し宜しく果ては世界遺産登録に至るまで使えるものは何でも使って、意味のない人集め、単なる動員合戦、地元の売り込みキャンペーンが目に余るという声が聞こえてきます。
薄汚いゆるキャラ人形まで持ち出し、とにもかくにも何でも宣伝しようと言う浅ましくもさもしい傾向が行政からマスコミから民衆レベルまで蔓延しています。
いずれ、収まるとはとは思うのですが、この恥ずべき傾向の底流には善悪とか正誤とかいった事は二の次に、とにかく地元おこし地域振興と言った損得だけの価値基準によって馬鹿げた利益誘導に狂奔し、それに真面目な研究者までもが巻き込まれると言う馬鹿げた現象が起こっている事です。
この町興し村興し宜しく世界遺産登録問題に関しては、ひぼろぎ逍遥 から
スポット139(前~後) 内倉武久氏のブログ 「ウッチャン先生の古代史はおもろいで」のご紹介
スポット100 宗像沖ノ島世界遺産登録といった愚行が半潰れになって多少はほっとした!
他をお読み頂きたいと思います。
要は、「真実はどうでも良いから地元が盛り上がる内容で話して欲しい…」「どうせそこらのおばさん達に達に話しても分かりはしないのだからこの土地だけの話にしてくれ…」といった要請の延長に自説を曲げる言わば行政の芸人、もっと酷いものでは自ら太鼓持ち、提灯持ちを買って出るような連中までが出て来てはいないかという問題なのです。
このような変節漢は逆のケースもあって、元は邪馬台国畿内説論者として振る舞っておきながら、九州に来ると邪馬台国九州説に鞍替えするという好い加減な人間までもが出てくる始末なのです。
飯塚市辺りで頻りに講演などを行っている某氏もこの一例で、居地によって自説を曲げるような人間の説を真に受けるなど、聴衆ももう少し物事を知るべきではないかと思うのですが、考古学の世界には門脇貞二を始めとしてこのような方が多いのです。
この某氏も元は九州中央部の某国立大学で安保闘争、ベトナム反戦運動の先頭どころ某大学の社学同のキャップとして指導しておきながら季節が過ぎればたちどころに鞍替えし、華麗なる転身とばかりに奈文研に移るのですから変節もお手の物と言う訳です。裏切り者のユダの弁明も聴いて見たいものです。
彼を社青同と思い込んでいるさもしいばかりの3K馬鹿宮司がいましたが、運動場横の学内床屋の裏の通称ベト反に集った社青同(勿論ボロボロ窮乏化論で破産した馬鹿の集まりの向坂派や大田派は元より、強面の解放派でもないのですが)と言うよりもその前身というか一部を形成した「社学同(社会主義学生同盟)レフト」と俗に称された社会主義学生同盟(左翼反対派)青年インター派だったのです。
少しは労働戦線に身を落し泥まみれになるならいざ知らず、たちどころに手のひら返しをするような人物が、畿内説から九州説に転換し滔々と昔から九州説論者でもあったかのように話す人物の説を真に受ける古代史ファンとは一体何なのかを疑わざるを得ないのです。
つまり、大陸の毎日嘘をついているような中国人や、日常的に裏切りと手のひら返しをするような朝鮮半島人のように自説を変える人物の古代史の話を拝聴する話などには何の価値もないはずなのです。
まず、スポット180 赤村の超巨大古墳発見と列島の穴掘り考古学の未来 “福岡県赤村内田の前方後円墳?”でもふれたように、穴掘り考古学とは仮に現場で発掘調査を真面目に行っておられる報告が立派であっても京都学派のお偉いさんたちが通説に沿う形で纏め上げてしまうため、古代史を揺るがすような大発見であっても結局は畿内にとって都合の良いような解釈がされてしまうものなのです。
どう見ても九州の方が古く、伝播のベクトルも西から東に向かっているとしか思えないものでも、「近畿大和朝廷が○○世紀の中頃に九州の豪族に下賜したもの…」といった具合になってしまうのです。
これが、見え透いた手法である事は慣れて来れば分かるのですが、所謂、邪馬台国本を読む会、九州王朝論を楽しむ会(論じる会)の方々にはどうしようもない話になるのです。
結局、列島の古代史探究に手を染め、僅かでも真実の古代史を知りたいと思う人とは、最低でも、近畿大和朝廷以来の国家が自分たちに都合の良い歴史を捏造しているのではないかとか、考古学者などと呼ばれて舞い上がっているただの劣等生起源の人々もその通説の補強のために作業をしているだけの国の手先でしかないはずだ…と言った視点を持たなければ真実には一歩どころか半歩も近づく事などできない事を知るべきなのです。
従って、反権力とまでは言わないまでも、国家権力からの独立性を保てる人間によってしか古代史の真実、九州王朝論の深化といった課題には突き進みえないと言う事なのです。
ましてや、「行政や教育委員会との関係は無視できない」とか言って自分もついでに売り込もうとするようなさもしい人物には何ら新しい発見も深化も引き出す事はできないのであって、凡そ警察関係者とか国家に奉仕する事を前提に認められた神官養成学校出身者とかイベント業者のような直ぐに権力に尾を振る人々には九州王朝論を探究する可能性は薄いのです。
極論すれば、さもしい人間の話は信じるな…となるのですが、判断はご自由になさって下さい。
邪馬台国本を読む会、九州王朝論を楽しむ会(論じる会)で手頃な老後の楽しみを見出すのも人生の一つとは言えるでしょう。勿論、何の価値もありませんが…。 列島の古代史も実はダビンチコードなみに凄い歴史がゴロゴロと転がっているのです。
幾つかご紹介しておきます。一つが、福岡県久留米市の高良大社に祀られている高良玉垂命こそが藤原によって第9代とされた開化天皇(稚日本根子彦大日日天皇=ワカヤマトネコヒコオオヒヒノスメラミコト)であり、その正妃となった仲哀死後の神功皇后(皇宮皇后命)との間に産まれたのが第16代とされた仁徳天皇(大鷦鷯天皇=オホサザキノスメラミコト)になるのです。以下「高良玉垂宮神秘書」の一部。
本当にようやくですが、青森~東関東に掛けて4件、愛知県2件、高知県1件、大阪府2件、大分県5件、福岡県11件の合計25件のグループが形成されました。
この外にも、鹿児島県、福岡県、山梨県…からも新規に参加される方もおられ検討しています。
人材を残す必要から、テーブルに着いた神代史研究会も研究拠点として残す方向で動いていますが、今は多くの研究者の連携を拡げ、独立した研究者のネット・ワークを創り、現場に足を運んで自らの頭で考えるメンバーを集めたいと考えています。そのためには少々の雨も寒さも厭わぬ意志を持ったメンバーこそが必要になるのです。勿論、当会にはこのブロガーばかりではなく、著書を持つ人、準備中の人は元より、映像を記録する人、神社のパンフレットを集める人、伝承を書き留める人、blogは書かないものの、徹底してネット検索を行い裏取りを行う人、ただひたすら探訪を続ける人と多くのメンバーが集まっているのです。全ては95%が嘘だと言いきった故)百嶋由一郎氏による神社考古学のエッセンス残すためです。
なお、「肥後翁のblog」」(百嶋テープおこし資料)氏は民俗学的記録回収者であって民俗・古代史及び地名研究の愛好家 グループ・メンバーではありませんがご了解頂いています。この間、百嶋神社考古学の流布拡散に役立っており非常に感謝しております。