549 岩戸神社に行かねばならない “阿蘇は立野大峡谷の南崖に鎮座する重要な一社”
20171227
太宰府地名研究会 古川 清久
通常、現地に訪れる事無くblogを書くなどあり得ない事(これまでにも例外が1~2ありますが)ですが、今回は逸る気持ちもあり下調べの意味もあることから未見の神社を書くことにしました。
この神社にこれまで全く気付かなかった事は迂闊と言えば迂闊でした。阿蘇への進入路は熊本市側から入る通常のルートが4本程度あるのですが、そのいずれからも外れている上(江戸期まで南阿蘇に入る良く使われた「南郷往還」)にどこからも見えないようない岩肌に鎮座している神社だったからでした。
この地がいかに重要かは、熊本大学の裏手に龍田山があり、立野の大峡谷が窄まっていることから、この地で西からの風が一気に風速を上げる場所だからであり、「日本書記」の“龍田の風を立野に祀る”という故事はこの地の事であって(古田史学の会の正木 裕が言う画期的な説)決して大風など吹かぬ辺鄙な奈良の話ではないのです。そして、風の神こそ支那都彦(シナツヒコ)草部吉見=ヒコヤイミミであり、雷神とは崇神(ヒコヤイと市杵島姫との間に産まれた大山咋と鴨玉依姫の子)の事なのです。
創建は永正4年(1507年)室町期であり、大己貴神、少彦名神が祀られる(「熊本県神社誌」163p)
おごりは禁物です。私が知らないとしてもうちのメンバーには神社に精通した人が数多くいる訳で、訪ねると熊本のF女史はグループのメンバーを動員し、地元の大津町が整備する前に道つくりを行ない神社の整備をしていたと言っていましたし、福岡のI女史はグーグル・アースの古代祭祀線が線上に載ったため入口まで入ったものの、蛇が苦手で逃げ帰って来たとか…知らぬは私ばかりだった訳です。
いずれにせよ、ここにも大国主命、少彦名命祭祀を確認できる訳で、熊本では見過ごす事の出来ない重要な一社なのです。
駐車場は十分にあるものの、一キロ足らずを広葉樹の森抜けて歩く必要があり、最低でも片道20分余りの参拝になるようです。
関東のメンバーの常陸の国ふしぎ探検隊の方々からは、この神社が信州の戸隠に移動していると言ってきているので、この点に注目して調査を進めようと考えています。
ただ、今のところあちらの金山彦祭祀は確認できていない事から(戸隠中社の思兼命は金山彦ですので)、
果たしてうまく繋がるかは現地に入って以降の事としたいと思います。
年明け早々に、熊本のメンバー数人と現地に入る相談を進めているところです。
奥社参道中程、萱葺・朱塗りの随神門
戸隠神社は霊山・戸隠山の麓に、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなる、創建以来二千年余りに及ぶ歴史を刻む神社です。
その起こりは遠い神世の昔、「天の岩戸」が飛来し、現在の姿になったといわれる戸隠山を中心に発達し、祭神は、「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々をお祀りしています。
平安時代末は修験道の道場として都にまで知られた霊場でした。神仏混淆のころは戸隠山顕光寺と称し、当時は「戸隠十三谷三千坊」と呼ばれ、比叡山、高野山と共に「三千坊三山」と言われるほどに栄えました。
江戸時代には徳川家康の手厚い保護を受け、一千石の朱印状を賜り、東叡山寛永寺の末寺となり、農業、水の神としての性格が強まってきました。山中は門前町として整備され、奥社参道に現在もその威厳を伝える杉並木も植えられ、広く信仰を集めました。
明治になって戸隠は神仏分離の対象になり、寺は切り離され、宗僧は還俗して神官となり、戸隠神社と名前を変えて現在に至ります。
戸隠には岩戸が飛んで行ったとの話がある訳で、当然、その投げられる元があるはずなのです
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