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スポット183(前) 赤村の超巨大古墳 ⑤ から内倉武久 朝倉市山田の巨大円墳「継体天皇陵」説を

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スポット183(前) 赤村の超巨大古墳 ⑤ から内倉武久 朝倉市山田の巨大円墳「継体天皇陵」説を考える

20180525

太宰府地名研究会 古川 清久


先に、スポット151 赤村の超巨大古墳発見の背景について “福岡県赤村内田の前方後円墳?”外をオンエアしています。今回は、報道はされていませんが、九州王朝論者の大御所のお一人である内倉武久氏が提案されている朝倉市山田の長田大塚古墳(継体天皇陵説)について「うっちゃん先生の古代史はおもろいで」登載ブログを転載するとともに、赤村の超巨大古墳を契機に九州島にこそ近畿大和王権に先行する権力が存在した土地であったことをお考えいただきたいと考えています。

再掲

現在、グーグル・アースでも容易に見いだせる古墳にしか見えない福岡県赤村の巨大丘陵が、(あくまでも)仁徳陵とされる大山(大仙山)古墳に次ぐとか匹敵する超大型古墳ではないかとの話が持ち上がり、地域を揚げて盛り上がっています。


sp183-1

赤村に巨大な前方後円墳-。こんな話が、地元住民の間やインターネット上でささやかれ始めている。地元の古代史研究グループによると、現場の航空写真から鍵穴型丘陵の全長は約450メートル。日本最大の前方後円墳「大山(だいせん)古墳」(堺市)の墳丘長に迫る大きさとあって、古代史ファンからは「卑弥呼の墓では?」といった期待の声も聞かれる。

丘陵は同村の西端、内田小柳地区の雑木と竹に覆われた民有地で、東側を平成筑豊鉄道と県道418号が南北に走る。数年前から丘陵の形に着目してきた田川地域住民などでつくる「豊の国古代史研究会」の調査では、後円部に当たる部分は直径約150メートル。魏志倭人伝にある邪馬台国女王卑弥呼の墓の直径「径百余歩」とほぼ一致するという。

また、丘陵沿いの住民によると、東側にある後円部と前方部のくびれのような場所では、タケノコ掘り中に土器片が多数発見。周濠(しゅうごう)の部分に当たる丘陵西側脇には、以前から湿地が広がっていたという。現在まで発掘調査はなされておらず、真偽は謎のまま。田川地域の自治体の文化財担当者らは一様に、丘陵を「自然の地形」として、前方後円墳との見方を明確に否定している。

2018/03/20付 西日本新聞朝刊=


ブログ013 「継体天皇」の御陵は福岡にあった
2015-07-09 10:27:07

ブログ013「継体天皇」の御陵は福岡にあった ―杷木神籠石誕生に一役か―

  『古事記』『日本書紀』(『記紀』)に記す「継体天皇」と「磐井」の争いは、九州政権内の権力争いであろう、と考えている。 そうであれば「継体天皇の御陵」も九州のどこかにあるはずだ。というか、なくては筆者の考えは大間違い。「ただの妄想」と受けとられかねないだろう。この 件についてどうしても読者にお知らせしておかなければならないと思う。というのも、「継体天皇の御陵が福岡県朝倉市にあるのを発見した」のだ。「断定」とまではいかないが可能性としては極めて高いと思える。

 説?「継体陵は今城塚」に疑問も

現在『記紀』に言 う「継体天皇」の御陵として宮内庁は、大阪府茨木市の前方後円墳・大田茶臼山古墳を指定している。これに対して考古学研究者の多くは約2キロ東北の高槻市 安威(あい)の今城塚を本当の「継体陵」であろうとしている。両方とも『記紀』にいう「三嶋の藍(あい)」に相当する場所にあるからである。
 ただ宮内庁の指定 は研究が進んでいなかった江戸時代から明治時代にかけての国史学者らが「保存状態の良い立派な古墳だ」という理由だけで指定したものだった。これに対して 考古学界の意見は築造年代の研究や発掘調査によってほぼ確実な年代が抑えられ、ほとんどの研究者が賛同し、定説化している。
 ただ筆者は疑問点 として、内部に納められた石棺のうち一つが九州の阿蘇溶結凝灰岩製で、九
sp183-2州からはるばる運ばれた石棺であることや、付近の古墳から出土している短甲などが 南九州の地下式横穴墓の出土品と酷似していること、そして埴輪に九州の熊曾於(熊襲・隼人)族が持っていた相撲の風習を思わせる力士像があることから、こ の古墳群は熊曾於族、というか、九州から派遣された九州政権の官人の墓ではないかと疑問を呈しておいた。(注1)。『日本書紀』に記す「継体天皇」が全くの虚構でなければ「〝継体〟は二人いた」と。

「継体」の御陵について『古事記』は「三嶋の藍(あい)の御陵に葬(はぶ)る」と書き、『日本書紀』は「藍の(野)陵に葬る」とだけ記す。国名の表示はない。どこの「藍」なのか『書紀』にいたっては郡名の記載もない。

国史学者や考古学研究者らは『書紀』の記載にひきずられて「継体天皇」は大和で君臨した天皇だと思い込み、『記紀』に示す「三嶋の藍」は高槻市(摂津国)の「三嶋郡の安威」で間違いないと、まったく疑いも持っていない。


③ 継体天皇は九州年号の創始者


しかし、朝鮮の史書『東海諸国紀』に記す「継体天皇」は、その十六年壬寅(五二二年)、初めて「九州年号」を建元した天皇と記録されている。(写真=申淑舟著『海東諸国紀』継体天皇の部分。「善記」が「善化」に文字化けしている)

『二中歴』には「継体」年号が記され、他の「九州年号」を記録した諸本の使用例もすべて「継体の時代」からである。『二中歴』の「継体年号」は唯一の記録で、諡(いなみ=贈り名)を「年号」と誤って記録したものだと考えられている。
中国の『芸文類 聚』や『三国志・呉志』などの文章を拝借して作り、ほとんどが〝偽作〟である『書紀』の「継体紀」は別として、『古事記』や『筑後国風土記』(逸文)の記 載内容をみると、「磐井は臣下の礼をとらなかった」「百済、新羅の貢進物を得ていた」「官軍(継体軍)が急に攻めてきた」と記されている。「勝てば官軍」 である。『日本書紀』と同様、勝ち組がとんでもない〝逆転の歴史〟を記している疑いもある。
古田武彦氏はこれ らの記載からして「本来の王は磐井であり、継体は反逆者であろう」と喝破した。まさしくその通りであろうと筆者も考える。が、まして重要なのは彼は「九州 政権の年号を創始した天皇であろう」ということだ。ということは「継体天皇は九州の王であろう」と考えざるを得ないのである。
「継体天皇」は九州政権の王位をめぐる権力闘争の勝者だったと考えられるのだ。諡はその戦いに勝ち、政権を簒奪して「跡を継いだ」から「継体天皇」とされたのだろう。
さらに『書紀』と『記』では天皇の名前が違う。『書紀』では「男大迹(おほど)」だが、『記』では「袁本杼(えんほんじょ?)で、とても「おほど」とは読めない。別人と考えるほかない。

 和名抄』などに「九州の三島に藍」

では、「九州の継体天皇」はどこに本拠地を構えていたのか。これについては『記紀』も『風土記』も黙して語っていない。いずれにせよ「御陵」の近くであることは間違いなかろう。御陵の場所までうそをついたらとんでもない背信行為だ。
 そこで現在の地図を広げて調べてみたが、「三嶋」とか「藍」という地名は北部九州では見つからなかった。それでは、と『和名類聚抄(和名抄)』にあたってみた。するとそこにはっきりと「三島郷」が記されていたのだ。場所は福岡県南西部に位置する朝倉市である。

『日本地理志料・和名抄』はこう記録する。

【筑前国・上座郡】
 按ずるに上座は古本『神名式』訓じて加美都久良(かみつくら)・・・下座郡の例に準じて「上座」は加牟都安佐久良(かむつあさくら)すなわち上の朝倉なり・・・。


sp183-5【上座郡・三島郷】

越後の三島郡の例により、まさに美之萬(みしま)と読むべし。伊豆、下野、越中、長門に「三島郷」有り。『姓氏録』三嶋宿祢(みしまのすくね)は神魂命十六世孫、建日別命の後。豈その裔の居する所ならんか。『英彦山縁起』に西は上座郡三島郷を限りとす、と。筑紫氏の文明十一年文書に上座郡見島。伊藤氏曰く古毛村に三島の地、これその遺名・・・。
 今は地名から消えてしまっているが、平安時代までは「三嶋郡」はしっかりあったのだ。しかしそこには「あい」の地名はなかった。
 そこで「明治十五 年全国小字調べ」の福岡県分にあたってみた。するとなんとそこにはちゃんと大字「宮野」「大福」に小字「ミシマ」「三島ノ下」や「會(会=あい)」も記録 されていた。「會」は「あひ」とルビ付きで二か所ある。「合の坂」もあった(『福岡県史資料』第七集)。ここが『古事記』にいう「三島の藍」である可能性 も高い。国名の「筑紫」がカットされていた可能性が考えられた。
 旧朝倉町は筑後川中流域の北側に広がる街で、『書紀』には斉明〝天皇〟が白村江の戦い(六六二年)に参加するために中大兄皇子と滞在した「朝倉の宮」の所在地であると書く。東側には著名な「杷木(はき)神籠石城」のある杷木町がある。

④朝倉町に列島最大級巨大円墳

sp183-4ではこの付近に「御陵」にふさわしい古墳があるのだろうか。実はある。大字宮野から約三キロ東にある列島最大級の円墳・長田(ながた)大塚古墳である(写真)。直径八〇メートル。高さ三〇メートル前後ある。筑後川を見下ろす小高い場所にあり、堂々とした姿は一帯を威圧している。九州はもとより全国的にみてもそうそうない大円墳である。現状では埼玉県・埼玉古墳群の丸墓山(直径105メートル)に次ぐ規模である。発掘調査はされておらず、古墳の規模などについては違う見方もある。    
筆者は記録の上で はこの古墳があることは知っていたが、実見はしていなかった。今年(平成二七年)二月、この古墳を現地出身の書道家井上悦文氏に案内していただいた。氏は 筆者に「草書体」は「楷書体」に先行する書体であり、「魏志倭人伝」に記載される「投馬国」は草書体で書かれた写本の「殺馬国」を間違えて刻した「薩摩 国」のことであるとご教示をしていただいた方である。著書もある。

⑤宮内庁が保存を要求?

井上氏の話は実に 興味深かった。この古墳の斜面一面は柿の木畑になっている。氏がこの古墳を訪れた時、たまたま居合わせた土地所有者の一人が柿の木の手入れをしていた。氏 が「あなたはこの畑が古墳であることを知っているか」と尋ねたところ所有者は「もちろん知っている。宮内庁のおかげで土地を売れなくなった」と愚痴ったという。
近くを通る大分自 動車道・山田サービスエリアの予定地がこの古墳にかかっていた。所有者はこれで畑が売れると思い、喜んでいた。ところが「宮内庁」が「大事な古墳だから壊 してはいけない」と横やりを入れてきた。その結果、自動車道は北の方に急カーブし、路線変更となり畑は売れなくなった、という。
 最初この話を聞い たとき筆者は、この古墳が『古事記』に記す「継体天皇陵」であろうなどとは全く頭になかった。それで所有者が言う「宮内庁」は「文化庁」の誤りだろう、と 思った。しかしよく考えてみると、「文化庁」の誤りであるとしても直接所有者と交渉するのは県か市である。「文化庁」は顔を出さない。所有者は間違いなく 「宮内庁」と聞いている。

土地所有者の話が事実だとすると、宮内庁はどんなルートでこの古墳が破壊されそうになったのを知ったのか。そしてなぜこの古墳が陵墓を指定、管理する宮内庁 と関係があるのか。現在この古墳は宮内庁はもとより文化庁などの指定は全く受けていない。「無名」ともいえるこの古墳が宮内庁の興味を引いた理由は何なの か。

1 「熊襲は列島を席巻していた」(ミネルヴァ書房 2013年)参照


ブログ014 「継体天皇」の御陵は福岡にあった② 2015-07-12 23:41:48

ブログ014 「継体天皇」の御陵は福岡にあった② ―継体天皇も熊曾於族か― 



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