551(後) 淀 姫 ①
20190723
太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久
淀姫とは何か?
まず、淀姫、世田姫、豊姫、豊玉姫、さらには、神功皇后の妹説、海神の娘説とバラつきがあるが、九州王朝論の側からは卑弥呼宗女壹與説、さらに現地の底流には微かながらもヤマトオグナの熊襲征伐譚で知られる河上タケルの妹説も存在している。
① 卑弥呼宗女壹與説
よみがえる壹與 佐賀県「與止姫伝説」の分析
(市民の古代第11集 1989年 市民の古代研究会編)
その人物は『肥前国風土記』に「世田姫」と記され、同逸文では「與止姫(よとひめ)」あるいは「豊姫(ゆたひめ)」「淀姫(よどひめ)」とも記されている。現在も佐賀県では與止姫伝説として語り継がれ、肥前国一宮として有名な河上神社(與止日女神社)の祭神でもある。ちなみに、近畿の大河淀川の名はこの與止姫神を平安初期に勧請(3) したことに由来しているという。
このように、『肥前国風土記』や地方伝承に現われた與止姫に比定した人物は、卑弥呼の宗女で邪馬壹国の女王に即位した壹與、その人である。『魏志倭人伝』に記された倭国の二人の女王。
その一人、卑弥呼が『風土記』に甕依姫として伝えられているのなら、今一人の女王壹與が『風土記』に記されていたとしても不思議ではない。幸いなことに、今回壹與に比定を試みた與止姫は現在も地方伝承として、あるいは後代史料に少なからず登場する。これらの史料批判を通して論証をすすめたのが本稿である。(・・・中略・・・)
『古事記』『日本書紀』にある「神功皇后の三韓征伐」譚は史実としては疑問視されているが、多元史観によれば、これも本来九州王朝の伝承であったものを大和朝廷側が盗作した可能性が強い。ところが『記紀』とは少し異なった「干珠満珠型三韓征伐」譚というものが存在する。そこでは、神功皇后に二人の妹、宝満と河上(與止姫)がいて皇后を助け、その際に海神からもらった干珠と満珠により海を干上がらせたり、潮を満ちさせたりして敵兵を溺れさせるといった説話である。文献としての初見は十二世紀に成立した『水鏡(前田家本)』が最も古いようであるが、他にも十四世紀の『八幡愚童訓』や『河上神社文書』にも記されている。
この説話で注目されるのが神功の二人の妹、宝満と河上(與止姫)の存在である(ただし、『水鏡』では香椎と河上となっている)。中でも河上は海神から干珠・満珠をもらう時の使者であり、戦闘場面では珠を海に投げ入れて活躍している。そして干珠・満珠は河上神社に納められたとあり、この説話の中心人物的存在とさえ言えるのである。この説話が指し示すことは次のような点である。まず、この説話は本来、宝満・河上とされた二人の女性の活躍説話であったものを、『記紀』の「神功皇后の三韓征伐」譚に結びつけたものと考えられる。更に論究するならば、神功皇后と同時代の説話としてとらえられている可能性があろう。たとえば『日本書紀』の神功紀に『魏志倭人伝』の卑弥呼と壹與の記事が神功皇后の事績として記されていることは有名である。要するに、神功皇后と卑弥呼等とが同時代の人物であったと、『日本書紀』の編者達には理解されていたのである。(6) とすれば、同様に、宝満・河上なる人物も神功皇后と同時代に活躍していたという認識の上で、この説話は語られていることになる。このことはとりもなおさず、宝満と河上(與止姫)は卑弥呼と同時代の人物であることをも指し示す。
こうして、もう一つの與止姫伝説「干珠満珠型三韓征伐」から支持する説話であることが明らかとなったのである。また、この論証は宝満=卑弥呼の可能性をも暗示するのだが、こちらは今後の課題としておきたい。(7)
以下省略するも、HP「新古代学の扉」で読むことができる。
② 神功皇后の妹説
神功皇后の妹説についても謎が深い。肥前国ミステリー「與止日女命」與止日女命をめぐる古代浪漫 というサイトでもこれを問題としている。以下 淀姫研究⑤「豊玉姫」の消滅と「神功皇后の妹」の登場淀姫研究より
① 「豊玉姫」の消滅と「神功皇后の妹」の登場
大和町與止日女神社とほぼ同時期に創建されたと思われる佐賀市の與賀神社。
こちらの御祭神は與止日女神で、=豊玉姫命です。この神社には乙宮神(宗像三女神)が
配祀されており、與止日女が海神と縁の深い神様であったことがうかがえます。
末廬国河上大明神(伊万里市淀姫神社)も元々、乙宮神を配祀してありました。(900年ほど
前に現在の牛津郡に移されたようですが。)與止日女さんと、乙宮さんは、縁があるようです。古くは「海の神」と認識されていた豊玉姫はいつのころから「川の神」になったのか。
祭神の認識の変化とともに見ていきます。
京都市伏見区淀の「與杼神社」の由緒を見てみると、この神社は肥前一ノ宮與止日女神社か
らの勧請ですが、「応和年間(961年~963年)に肥前国佐賀郡河上村に鎮座の與止日女神社より、淀大明神として勧請したのに始まる(神社自体はそれ以前に鎮座しており、主祭神がいたと思われる)」とあり、祭神は豊玉姫命、高皇産霊神(タカミムスビノカミ)、速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)です。
平安後期の頃の肥前一宮與止日女神社の祭神は豊玉姫と認識されていたということになります。
そして、河上神社文書の建久4年(1193)10月3日付在庁官人署名在判の書状に「当宮は一国無雙の霊神、三韓征伐の尊社なり」と記されてあり、このころから「神功皇后の三韓征伐」との関連が見られ始めます。ただし、神功皇后の三韓征伐の際に御利益があったという意味と思われ、「神功皇后の妹」の存在はまだ出てきていません。
また、和歌山県辺市上秋津にある川上神社では、1547年頃に肥前国佐賀郡より勧請された神が祀られているが、祭神は瀬織津姫(セオリツヒメ)。
肥前国佐賀郡(與止日女神社と思われる)から勧請された神は瀬織津姫となっており、豊玉姫の存在がなくなってしまっています。
「川上神社と肥前国一之宮──瀬織津姫神の勧請」
瀬織津姫といえば川の流れの神。與止日女神社が佐嘉川の川上にあったためか、ついに、豊玉姫(與止日女)が川の神であると認識されるようなったようです。
さらに、大和町川上の実相院尊純僧正が佐嘉藩主鍋島勝茂に差出した「河上由緒差出書」(1609年)によれば「一、当社の祭神は与止日女大明神である。神功皇后の御妹で、三韓征伐の昔、旱珠・満珠の両顆を以て異賊を征伐された後、今この地におとどまりになった。
二、当社の創建は、欽明天皇二十五年(564)甲申歳である。[後略]」
とあり、この時ようやく、「神功皇后の妹」が登場します。
この間にいったい何があったのか?
わかりやすく、與止日女の認識を順番に並べると・・・
740年 世田姫(ヨタヒメ) 『肥前国風土記』
901年 豫等比咩神(ヨトヒメ) 『三代実録』
927年 與止日女(ヨトヒメ) 『延喜式神名帳』
961年 豊玉姫(トヨタマヒメ) 『與杼神社由緒』
1193年 「当宮(與止日女神社)は一国無雙の霊神、三韓征伐の尊社なり」
『河上神社文書』
1503年 「豊姫一名淀姫は八幡宗廟(応神天皇)の叔母、神功皇后の妹也」
『神名帳頭註』
1547年 瀬織津姫(川の神) 『川上神社由緒』
1609年 與止日女大明神は神功皇后の御妹 『河上由緒差出諸』
明治期 淀姫命 (ヨドヒメ)『特撰神名牒』(延喜式神名帳の注釈書)
與止比女神(ヨドヒメ) 『明治神社誌料』
「神功皇后の妹説」が出てきたのは、1503年の『神名帳頭注』以降ということになります。
『神名帳頭注』は、1503年吉田兼俱により著された「延喜式神名帳」についての注釈書。「延喜式神名帳」というのは、927年に完成した『延喜式』巻九・十のことで、律令体制下、神祇官また諸国国司のまつるべき3132座の神社名を記した巻のことをいいます。『神名帳頭注』は頭註という名の示すように、はじめその上欄に吉田兼俱が注記していたものを,後人がその注記のみを現在みられるように1巻にまとめたもの。
著者の吉田兼俱は吉田神道(唯一宗源神道,卜部神道)の大成者。
叓叓吉田兼倶こそが、與止日女命(豊玉姫)を、神功皇后の妹「淀姫」と解釈してしまった張本人です。
それまでは與止姫命がぼんやり豊玉姫と認識されていたものが、有力な神道家・吉田兼倶の解釈によって「與止日女命=神功皇后の妹」となりました。
風土記に曰はく、人皇卅代欽明天皇の廾五年、甲申の年、冬十一月朔日、甲子の日、肥前の国佐嘉の郡、與止姫の神、鎮座あり。一[また]の名は豊姫、一の名は淀姫なり。
(『神名帳頭註』吉田兼倶)
トヨタマヒメがヨタヒメ(世田姫)と肥前国風土記に表記され、世田姫から、ヨタヒメ、ヨダヒメ、ヨドヒメと、変化し、『延喜式神名帳』(927年)にて「與止日女」の文字が登場。
信仰の対象も「海」から「川」へと変化し、海の神「豊玉姫」は忘れ去られ、川の神「ヨドヒメ」へと置き換わっていく。この頃はまさに、国司による一宮参拝が盛んにおこなわれていたころで、『延喜式神名帳』の存在もあったため、肥前国の神=ヨドヒメの認識が肥前国内はもとより、全国に知られることとなったのでしょう。
吉田兼倶の『神明帳頭注』によって浮上した「與止日女命=神功皇后の妹」説であるが、その説の発端となったと思われる神社が、松浦市淀姫神社です。松浦市淀姫神社の祭神は、景行天皇・淀姫命(=神功皇后の妹)・豊玉姫命であり、唯一、淀姫と豊玉姫を別々に祀っている神社であり、吉田兼倶が全国の神社をどこまで把握していたかはわかりませんが、「淀姫(神功皇后の妹)=豊玉姫」習合思想の発端となった神社と思われます。
と、している。
しかし、淀姫が豊姫と呼ばれ、神功皇后の二人の妹の一人であったとする重要な文書がある。
してみると、肥前国ミステリー「與止日女命」神功皇后の妹説 氏に反しかなり古く遡ることになる。
「高良玉垂宮神秘書」(17p)では、神功皇后の妹が淀姫神社の祭神、淀姫=豊(ユタ)姫としている(前々頁)。
③ 私見 世田姫と豊姫と淀姫
古文書を中心に時系列的に考察する文献史学に対し、民俗学、地名研究、神社考古学は面的に、また、機能演繹的に考察する。当然ながら、これに時間軸を加えた立体的な視野が望ましいことは論を待たない。
ここで、淀姫の「淀」という表記を分解すれば、YODO YOTO YOTAとなり、『肥前國風土記』の世田(ヨタ)姫とも通底している。
ただ、その原型は伊万里市松浦町山形の豊姫神社が豊姫神としているように、TOYOと読むのは誤りで豊(YUTA)姫という女性ではなかったかと考えている(事実「肥前国風土記」に世田姫と書かれ、同逸文でも與止姫=よとひめ 豊姫=ゆたひめ 淀姫=よどひめ とも記されている)。
後に、それが淀姫や世田姫と呼び習わされ、あるいは、豊(ユタ→トヨ)から卑弥呼宗女壹與=豊與と解され、あるいは豊玉姫とする混同が生じたかと考えている。
恐らく、その背景には八世紀以降の権力の移動(九州王権から近畿王権へ)が関係しているのであろう。
九州方言の際立った特徴の一つに、O音がU音になる傾向がある(実は逆にU音からO音となった)。
一般的に、「大事しでかした」を「ウーごとしでかした」とか、「頬たびら」を「フーたびら」と言う傾向は、単に方言の枠を越え、「栂」が「ツガ」「トガ」としても全国化したように、上代から神代にも遡る古い時代の標準語が九州方言に名残を留めているように見える。
ここで最新の方言研究(福岡教育大学:杉村孝夫)から一例を示しておきたい。ユタがヨタ、ヨドに転化した背景が見えてくるかも知れない(ただ、私見ながら、この現象は方言ではなく標準語の発信源が九州から畿内へそして関東へと移動したものと考えている)。
5.2)「 オ列長音の開合」に対応する音声
これは,室町末期の京都語の開合に対応するもので,現在の九州方言では(むろん高年層で)開音は[o:] と発音され,合音は[u:] と発音される。
[au] に由来する開音は[o:] 例えば [to:ʥi](湯治)
[ou] に由来する合音は[u:] 例えば [ɸu:ʣuki](ほおずき)
[eu] は[iu] を経て[ju:] となる。例えば[kju:](今日)「ふうずき」と,実際に文字で書かれることもある。
次の写真は,今から13 年ほど前に佐賀県の三瀬村の売店で撮影したものである。
福岡教育大学紀要,第59号,第1分冊,49 64(2010)九州方言音声の諸相
Aspects of phonetic features in Kyushu dialect杉村孝夫
この傾向が上代、神代に遡る可能性があったこと、淀姫が古くは豊(ユタ)姫と呼ばれていたことを知る手がかりになるのではないだろうか?
我々百嶋神社考古学を継承せんとするものにとっては、『古事記』『日本書紀』が現在の天皇家=藤原王朝を支えるために創られた最大級の偽書であると考えているばかりではなく、『高良玉垂宮神秘書』(以下「宮神秘書」グウジンヒショ と表記)を読み解き、残された北部九州の神社を調べ尽くせば、まだまだ、同書とのかなりの整合性が確認できると考えているが、唯一真実に近いものを伝える「宮神秘書」を最重要であるとしても(事実そう考えているが)、淀姫が神功皇后の二人の妹の一人(もう一人は宝満山の大祝=実は鴨玉依姫)とする説には容易に飛び乗ることができないでいる。
それは、百嶋氏が残した神代系図の中でも最終版ともいうべきものには、豊姫=玉姫=淀姫が河上タケルの妹(同時に表筒男命=安曇礒良の妻)として記されているからである。
百嶋神代系図はまだ全面的に公開できる情況にはないが、その一部を掲載しておきたい。
これについては、全面公開に先行し音声データを文字化し、連携する「牛島稔太のブログ」で一部掲載を始めている。今後も随時百嶋語録を公開して行きたいと考えている。
ともあれ、「宮神秘書」では神功皇后の二人の妹の一人が「河上大明神トナリ玉フ」としている。百嶋神代系図にもその河上大明神が河上タケルの妹として、豊(ユタ)姫=玉姫=淀(ヨド)姫として書いている。古賀達也氏は卑弥呼宗女壹與としているが、百嶋神代系図では壹與(クワシヒメ)と淀姫は二十歳違いの別人として描いている。どちらが正しいかは今のところ判断がつかない。