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552 淀 姫 ②(前) 

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552 淀 姫 ②(前) 

20190723

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


④ 河上タケル異伝

私的には「宮神秘書」の神功皇后妹説よりも、百嶋神代系図の河上タケルの妹説に惹かれるのだが、まず、ヤマトタケルの熊襲征伐譚があまねく広がりを見せる中、河上タケルが肥前にいたと考える人はまずいないことだろう。

ところが、佐賀市に編入された現地には、旧「大和町」、「川上峡」という地名にとどまらず、それなりの伝承が残っているのである。

これについては、別添の故平野雅廣(日+廣)氏の「異説河上タケル」に併せ「松野連系図」(国会図書館所蔵)を読んで頂くとして、今も河上タケルが酒宴を行なっていたとする伝承と墓石(墓標)があったというものが現地の真言宗御室派の健福寺に残されている(別添)。


ここでも近畿王権に都合の良い改竄があると考えるのであるが、「松野連系図」と併せ考えると、熊襲の勢力は薩摩とか大隅の辺境どころか、この一帯から、糸島半島、甘木の一帯まで広がっており、その内部での抗争を近畿からやってきたヤマトタケル(オウス)が征伐したとの神話に仕立てていることが見えてくるのである。

 豊玉姫説について

では、豊玉姫説は成り立つのであろうか。既に、「ゆたか」と読む豊(ユタ)姫が淀(ヨド)姫に転化した可能性は指摘したが、その豊姫が豊玉姫と読み替えられたことも想定できる。

まず、通説による神武系図によれば、ニニギの子であるホオリ=山幸彦の妃がトヨタマヒメであり、その子がウガヤになるのだが、豊玉姫は子育を放棄し竜宮に帰ってしまう。その代わりに送られてきたのが妹のタマヨリヒメで、その育ての母とウガヤが結婚し生まれたのがカムヤマトイワレヒコ=神武天皇である(前頁の通説系図参照)。

従って、神武天皇から見れば豊玉姫は祖母にあたり(大分熊本県境に聳える祖母山の名はその裾野にその祖母を奉祭する大神一族がいたことから付された)、玉依姫は乳母と言えないこともないのである。

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宮崎県の可愛山陵掲示板

ここからは、上無津呂の淀姫神社を念頭に書くこととするが、上無津呂、下無津呂に豊玉姫、玉依姫が祀られ、淀姫神社と乳母神社がある理由は、自らが神武天皇の直系の一族であるとの思いが込められていることは、まず、間違いないであろう。

では、淀姫が豊玉姫や玉依姫と言えるのであろうか?結論から言えばそれは全くないと考える。私見ではあくまで淀姫の古代の読みである豊(ユタ)姫(百嶋神代系図では玉姫とも記されている)が、豊玉姫、玉依姫と理解された、もしくは、淀姫神社の祭神が入れ替えられたと考えている。

恐らく、それを行なったのは「佐賀県神社誌要」の上無津呂の淀姫神社にも顔を出す神代(クマシロ)勝利の一族ではないだろうか?

 そう考えられる理由は神代氏の出自にある。まず、肥前の名族神代氏は、後には鍋島の同族とまでなり維新まで生き延びるが、戦国期は肥前山内(サンナイ)を拠点に龍造寺一族と覇を競った戦国武将であり、川上の淀姫神社(の庇護)を背にして一大決戦を行ったが、裏切りがあり敗北し無念にも上無津呂まで落ち延びたが、在地庄屋の嘉村一族に匿われている。この辺りの神代一族の大活躍については、ネット上にも北肥戦誌が公開されており労することなく読むことができる。

 結果、神代氏にとって上無津呂の淀姫神社は一族の守護神になったのである。

 事実、上無津呂に対し現在県立博物館に収納されている大小の太刀と水田が寄進されている。

 この神代一族は、古くは「鏡山」と称し高良大社の大祝職であった宮司家一族であり、高良玉垂命の、即ち神武天皇の直系、第七代孝元天皇の子彦太忍信命の子屋主忍信武雄心命の子武内宿禰の後裔と自認していたのである。

 従って、「宮神秘書」にある神功皇后の二人の妹の一人が「河上大明神トナリ玉フ」の記述を知らなかったとは考えられず、その後も続く龍造寺氏との一大決戦に際し、さらに遡る神武天皇の母(乳母)祖母神である二神を祀った(淀姫の庇護を受け闘い敗北したことから、逆に嘉村一族の側から申出したものかも知れない)のではないかと考えている。

その証拠に、社殿の欄干には今も高良大社の神紋左三つ巴と木瓜紋が確認できる。

 むしろ、それまで淀姫を奉祭していたのは神代を匿った嘉村一族であったはずで、自らの氏神を淀姫(豊姫)としていたものと考えられる。

ただ、その淀姫が神功皇后の妹か、河上タケルの妹かについては今のところ決め手がない。

しかし、実は両方とも正しく、ある時代は地域の安定のために誅殺された逆賊川上タケルと安曇磯良の妃となったその妹豊(ユタ)姫が祀られ、神功皇后が主役の時代には神功皇后の二人の妹が祀られ、近畿王権の時代には掻き消され、室町、戦国期を向かえ、江戸期の仏教上位の時代を向かえたのではないだろうか?そして、明治以降現在まで続くある種の偏った神道を受け入れなければならなくなったのではないだろうか?

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淀姫神社 カーナビ検索 佐賀市富士町上無津呂

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肥前一ノ宮河上の淀姫神社とは何か?

「佐賀県神社誌要」により、祭神は與止日神と大明神の二神と分るが、かつて、国府が置かれ多くの勢力が犇き、交通の要衝でもあることから、二十近い境内社も合わせ祀られている。

 式内社であり、肥前一の宮ともされる淀姫神社(元寇以降田島神社から淀姫神社が一の宮とされた)の祭神が誤記であるはずはないことから、二神が祀られていることは間違いがないであろう。

しかし、大明神とは誰のことであろうか?

 百嶋神代系図では、河上タケルとその妹豊姫と明瞭であるが、その痕跡が留められているとすれば興味深い。

事実、主神は逆賊河上タケルと、表筒男命=安曇磯良の妃となったその妹淀姫を意味するかのように、河上の淀姫神社本殿の千木は男神であることを示している。

神功皇后の二人の妹の内の一人を祀るとする「宮神秘書」の記述もあり謎は深まるばかりであるが、神名帳に言う「與止日女神有鎮座一名豊姫」とあり、千四百五十年前には、一神が祀られ、後に名誉回復された河上タケルが合祀されたのではないかと考えたい。

一方、古湯の淀姫も海津見神と二神が祀られており、こちらは百島神代系図により淀姫の夫となった表筒男命ではないかと考えている。

  神水川(オシオイ)川

上無津呂の淀姫神社の前には神水川(オシオイ)川が流れ、下流の下無津呂には乳母(メノト)神社が置かれている(上無津呂川とも呼ばれ下無津呂からが神水川か?)。



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