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552 淀 姫 ②(中) 

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552 淀 姫 ②(中) 

20190723

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


まず、「佐賀県神社誌要」には乳母神社が書かれていないことから、表向きは、豊玉姫と玉依姫を祀る上無津呂の淀姫神社の分(姉妹)社というより、同格の別宮として両方に二神が祀られているものと考えている(これについては、後日、玉依姫と大海神と確認)。

さて、山奥の小集落に、なぜ、佐賀の一宮を上回る起源を持つ神社があり、乳母神社までが置かれているかを不思議に思う向きがある。

乳母神社は、上を豊玉姫社、下を玉依姫社、従って乳母神社であるとしたものであろうことから、当然、各々二神が祀られているのであろう。

このため乳母神社の呼称は、一応、愛称と理解している。

奇しくも「古事記」編纂千三百年の年であるが、それをさらに二百年も遡る伝記を持ち、河上、與賀の両県社を五十年は上回る神社が、今年、この地で千五百年祭を迎えるのである。

A)  神社でも寺でも一般の理解とは逆に山奥の方が社格も寺格も上であることが多い。

それは、奈良仏教(南都六宗派)、平安仏教(天台、真言)で、より、顕著であり、また、農地の発展とも対応している。

つまり、水田稲作は大平野から始まったのではなく、水を利用しやすい山間地の小平野や佐賀県にも多く認められる隈と付された山裾の奥まった湧水が利用しやすい場所から最初の水田稲作が始まったからである。

『古事記』にスサノウが馬の首を神殿に投込み、田の畦を切ったとしてアマテラスが悲しむ部分があるが、畦を切るのが大罪なのは、それが山間の棚田であったからで、棚田の畦の崩壊は連鎖的な山体崩壊さえも引き起こす危険な行為なのである。

従って、古い先住者ほど安全で水の得やすい山奥の集落に住んでいたはずで、干拓地や特に関東平野のような川底が深く管理できない大河川流域では水田の開発が遅れ、人口が増え大堤防や井関や超延長の用水路が造れるようになって、始めて平地での開発が始まったのである。

それ以上のことは言えないが、平地は子孫である分家筋が住み着いたのであり、その時代には、既に浄土教、法華経、禅宗が流行していたのである。

大平野部は浄土真宗や曹洞禅だらけという意味はこのような背景があるのである。

B)  御塩井汲神事というものがある。箱崎八幡宮の御塩井汲みは知られているが、元は大分八幡宮の潮汲みの場でしかなかった。

しかし、御潮井汲みは古代においてこそ重要で、山奥の集落では子孫の繁栄のためには、産前産後を通し母子には安定したミネラルを供給する必要があったのである。

塩井汲みは神の皇子の妊娠、出産、育児、即ち王権の維持継承のために欠くことのできない重要な神事だったのである。

-552-2当然ながら山奥にある王宮ほど生まれた子の生存率を上げ、従って王統、皇統を維持するためにも、想像以上に頻繁に海に潮を汲みに行く必要があったはずで、塩井の名はそれを今に伝えている。

C)  そもそも車が普及していなかった時代には、つまり、つい最近の戦時中においてさえ、佐賀県で言えば、嬉野市と鹿島市の境の山上集落(春日、大野)では泊り込みで塩造りのための若者組の部隊を海まで送り出していたという話を聴いたことがある。

D)  一般に、肉食動物は内臓を捕食することによりミネラルを確保できるが、草食動物は岩の隙間から染み出す鉱泉や温泉の場所を知っており、それなくしては生きて行くことはできない。このため猟師はそのような場所を子孫に伝え、効率的に待ち伏せし獲物を得ていたのである。

E) このことから、温泉や鉱泉の効能や安産が結び付けられるのであり、この神水川の水系のどこかにそのような場所があり、海まで行かずとも十分なミネラルが得られていたのかも知れない。

F)  さて、ここからはさらなる思考の冒険になる。淀姫神社でも豊玉姫、玉依姫をセットで祀るのは上無津呂だけであり、なお、際立った異彩を放っている。

   百嶋神社考古学を知るものからは、通説による神武系図のニニギ、ウガヤフキアエズの流れは、確かに豊玉姫、玉依姫(実は鴨カモ玉依姫)と関係があるとするのだが、百嶋神代系図によれば、神武の本当の母親である神カム玉依姫とは別人であり、豊玉姫は神武とは無関係なのである。

   また、河上タケルの妹である豊(トヨ)姫=淀姫の夫となった安曇磯良=表筒男命の母=ウガヤフキアエズの妻である鴨カモ玉依姫は、同時に大山咋=佐田大神=松尾神社=日吉神社との間に活ハエ玉依姫や中筒男命=贈崇神天皇を生んでおり、その流れから『日本書紀』に登場する武内宿禰の身代わりとなった壱岐真根子が出てくることから、上、下両無津呂の隣の集落が麻那古(麻那古と真根子を直接繋ぐ根拠はない)であることと併せ考えると、既に神代には真実の系譜が忘れられていたか、もしくは、神代一族とそれを総帥と祀り上げた三瀬氏(野田周防守大江清秀の一族)を含めた政治的な配慮がなされて豊玉姫+玉依姫が奉祭されたかのいずれかであろう。

 延喜式神名帳

平安時代中期に編纂された格式律令の施行細則)『延喜式神名帳』には、肥前國として、大社11社(名神大社)・小社33社の計44社が記載されている。

 あくまでも比定であるが、松浦郡に2座 田島神社(田島坐神社)唐津市呼子町加部島、

志々伎神社志志伎神社)長崎県平戸市野子町、基肄 1荒穂神社三養基郡基山町宮浦、佐嘉郡 1與止日女神社与止日女神社)佐賀市大和町川上 とする。

ただし、現在の淀姫神社から嘉瀬川を一キロほど遡った左岸、現在の肥前大和巨石パークの中に造化大明神という大石が有り世田姫が祀られているが、この地を与止日女神社の上宮として明治まで祭礼を行なっていたとも聴く。

巨石信仰と龍王の遣いとして鯰がのぼる淀姫とは繋がりにくいが、淀姫が何かを探るには必要な作業となる。

 もう一人の豊姫?

淀姫神社の祭神を探る中、ユタ(ヨタ)姫が豊姫、世田姫などと記され、

後にヨト(ヨド)姫と呼ばれ、淀姫との表記が定着したのではないかと仮定したが、実は、筑後地方にもう一つの豊姫が認められるのである。

 筑後国の『延喜式神名帳』には、大社11社・小社54社の計65社が記載されているが、三井郡には豊姫を祀る豊姫神社、八幡神社(豊比咩神社)がある。

いくつかの比定地が推定されてはいるが、実は「豊姫神社」がどこにあったかは分かっていない。

ただ、久留米市北野町赤司の赤司八幡宮の可能性が高いと考えるので、以下、これを中心に筑後の豊姫を考えることとする。

赤司八幡宮は高良玉垂命の後裔と言われる稲数家が高良玉垂宮の祭祀権を奪われ、領地を与えられ移り住んだと言われる稲数地区の直ぐ隣に鎮座している。

以前、宮司の宮崎氏(高良山研究の第一人者古賀 寿氏の弟子にあたる)から直接資料を頂き御説明を賜わったが、伝えられる縁起には確かに神功皇后の妹豊姫の名が登場するのである。

 これについては、貴重極まりない「赤司八幡宮文書」がネット上に公開されているので、その一部を紹介したい。 

 

元大城小学校教諭 野口治七郎氏編著 北野町教育委員会作成 第四章 豊姫縁起


豊姫神社の起源は天照大神の神勅によって宇佐・宇像・道中の三ヶ所に降られた三女神のうちの道之中というのは ここである。「汝三神宣降居道中奉助天孫而為天孫所祭也」(神代巻) とある道中は河北荘道中である。「今在海 北道中號白道主貴(ミチスキ)此筑紫水沼君(ミヌマノキミ)等祭神也」(神代巻)とあるが「海北」とあるのは「河北」の書誤りである。

のち景行天皇が筑紫を巡狩されるや、当社の祭神田心姫命(タゴリヒメ)荒魂(アラミタマ)八止女津媛(ヤメツヒメ)となって現れたが、 水沼県主(ミヌマノアガタヌシ)大海(オオミ) に神告がありましたので天皇は当社に行幸されて田心姫命を道主貴として崇められました。
 神霊の至すところ、 九州が平定したので、御子国乳別(クニチワキ)皇子を長く、祭祀の御手代(ミテシロ)としてとどめられました。成務天皇のとき、筑紫道之中に勅して御井郡を当社道主貴の神部とし、稲置(イナギ)・楯矛をもってそのしるしとされました。稲置の居跡は後に稲数村と いい、楯矛等をおさめる兵庫の遺跡を陣屋村というようになりました。
 やがて三潴郡も国乳別皇子の領所として永く筑紫道之中の藩屏とされましたが、水沼君こそはこの国乳別の子孫であり、 赤司大宮司も水沼君の末裔として今日に至るまで懈怠なく神に仕え、河北惣大宮司として相続したわけです。
 神功皇后が西征の途に於て中ツ海(ナカツウミ)(有明海~当時の筑紫平野)を渡られるに際しては、 水沼君は軍船をととのえて有明海を渡し、蚊田行宮(稲数村)を建ててこれに迎えました。皇后三韓退治後ふたたび蚊田行宮に入らるるや 水沼君はこれを迎え、軍船の名残をとどめてその記念とした。遺卯の御船といって後世長くのこされたのはこれなのです。
 皇后は蚊田宮に応神天皇を分娩されるに際しては、水沼君は高天原よりうつしたという潟の渟名(ヌナ)井の霊水 を産湯として奉った。潟の渟名井は道中の神井として神聖を保った霊泉でした。    

皇后は縁故ふかい道中の当社に妹豊姫命を 道主貴としてととめられ、長く西海の鎮護として重要視されました。そのために当社を豊姫之宮と稱するようになったが、 神名帳には止誉比咩神社とあります。


と書いている。

前述のように「宮神秘書」においても神功皇后の二人の妹の一人である豊姫が「河上大明神トナリ玉フ」としており、通常、複数の別の資料によって裏付けられるものは事実であったとするのが常道であり、それに従えば、ある時期には高良山の神功皇后を中心に、豊満大祝、河上祝が戦略的に配されていたのかも知れない。

その時期とは、当然にも神功皇后が高良山にいた時代、つまり、高良玉垂命=第九代開化天皇が高良山にいた時代となる。

なぜならば、通説では神功皇后の夫は仲哀天皇とされるが、「宮神秘書」では「高良玉垂命と神功皇后とは夫婦となった」としているからである。



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