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555 唐津市伊岐須神社の三光神社と餘部の伊岐佐神社とは同じ神社だったのではないか?

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555 唐津市伊岐須神社の三光神社と餘部の伊岐佐神社とは同じ神社だったのではないか?

20180123

 太宰府地名研究会(神社考古学研究班)古川 清久


 「佐賀県神社誌要」という非常に使い勝手の悪い資料があります。

 ないよりはましなため有難く使わせて頂いていましたが、旧七山村(池原)の子安神社の部分を見ていると、隣に村社として三光社なる神社がある事に気付きました。

 どう考えても長脛彦を祀る神社であることに気付き、俄かに色めきだったのでした。

 一応は自らで発見した数社に玄松子氏のリストで拾い出したものと併せ、九州島に関しては、この栄えある長脛彦系の神社を全て実踏したつもりでいたのですが、玄松子氏のリストに載っていないものを新たに発見した事には、それなりの達成感を感じました。

 勿論大した話ではないのですが少なくとも九州の長脛彦の神社を全て踏破した人はいないはずなのです。

 この伊岐佐神社は佐賀県唐津市でも松浦川側ではなくの古唐津湾奥と言った場所にあり、幹線道路からも外れている事から普段目にする事の無い集落であり神社なのです。

 この神社とこの土地の事を意識したのは五年程前の事でした。

 それは、但馬の御井神社の調査のために餘部鉄橋の餘部を訪れたところ、伊岐佐神社がある事に気付き、そういえば、唐津市と言うよりも旧相知町に伊岐佐(イキサ)ダムがあり、伊岐佐という集落があった事に思いが走ったのでした。

伊岐佐というめったにない地名だけに、帰納演繹が行えずにそれっきりしていたのですが、今回、唐津市伊岐須の三光神社の祭神が長脛彦(ナガスネヒコ)であると確認できたことから、餘部の奇妙な神社の謎が解けた気がしています。

そうです、東北三社の香取神宮(千葉県香取市)、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)、息栖神社(茨城県神栖市)の息栖神社に対応するものこそ、この伊岐佐神社なのです。


555-1

555-2



555-3創建 706年(慶雲3年)所在 兵庫県美方郡香美町香住区余部

祭神 伊弉諾尊 彦座王命(ヒコイマスノミコト) 天兒屋根命 出雲色男命 応神天皇 社格 村社

創祀年代は不詳 社伝によると文武天皇の慶雲三年(7067月)

諸国に疫病が流行したため、諸国に令して神祇を祀らしめた際、

美含大領椋椅連小柄が、彦坐王命を伊伎佐の丘に勧請したのが当社のはじめ。


勿論、念頭にあるのは鹿島、香取、息栖の所謂東国三社であり、息栖(イキス)の岐神(クナトノカミ)=長脛彦です。

従って、唐津市の伊岐佐の三光神社も兵庫県の餘部の伊岐佐神社も基層部には岐神が祭祀されていたのではないかと思われ、ただ、神武天皇との故事からひた隠しにされているのではないかと考えるのです。


東国三社 東国三社(とうごくさんしゃ)は、関東地方にある鹿島神宮・香取神宮・息栖神社の総称。

三社はいずれも関東地方東部の利根川下流域に鎮座する神社である。古代、この付近には「香取海(かとりのうみ)」という内海が広がっていた。これら三社の鎮座位置はその入り口にあたり、うち鹿島社・香取社は大和朝廷の東国開拓の拠点として機能したと推測される(息栖社も拠点とする見方はあるが不詳[1])。

また、三社はいずれも『古事記』『日本書紀』における葦原中国平定に関する神(右表参照)を祀っている。うち息栖社主祭神・岐神は、記紀に記載はないが東国に導いたと伝えられる神であり、同社では天鳥船神を配祀する。


長髄彦 長髄彦(ながすねひこ)は、日本神話に登場する人物である。

『古事記』では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。安日彦(あびひこ)という兄弟がいるとされる。

饒速日命の手によって殺された、或いは失脚後に故地に留まり死去したともされているが、東征前に政情不安から太陽に対して弓を引く神事を行ったという東征にも関与していた可能性をも匂わせる故地の候補地の伝承、自らを後裔と主張する矢追氏による自死したという説もある。

旧添下郡鳥見郷(現生駒市北部・奈良市富雄地方)付近、あるいは桜井市付近に勢力を持った豪族という説もある。なお、長髄とは記紀では邑の名であるとされている。

ウィキペディア(20180123 23:27による


555-4

ウィキペディア(20180123 23:10による

 以前、ひぼろぎ逍遥(跡宮)に於いて

431

飯塚市伊岐須の高宮八幡宮とは何か? “基層に長脛彦を感じる古社”

を書きました。

 これも飯塚に長脛彦がいたのではないかを探ったものですが、隠されている岐神を拾い始めると、長脛彦が生駒山に居たなどと言った「記」「紀」をベースにした話しかできない人々が哀れにさえ思えてきます。

 特に、福岡県うきは市の三光神社や長脛彦がいた痕跡が濃厚な豊前の三光町(旧三光村)と、三光、伊岐須、伊岐佐、岐(クナト、フナト)…といった地名、社名などをメルクマールとして探索できるのです。

 ここで、「佐賀県神社誌要」の三光社をご覧ください。


555-6

八街彦命、八街姫命がちゃんと書かれています。

 故)百嶋由一郎氏は“皆さん勘違いされている人が多いんですが、天の八街の話から、猿田彦と天宇受賣命と思い込んでいるけれども、これはナガスネヒコと妹さんなのです…”と言われていました。

 聖神社神代系譜にはこのお二人の兄弟が出て来ます。

 これこそ道真公の母親の御先祖の伴氏女に通じる八街彦命(青枠)、八街姫命(赤枠)にあたるのです。

 八街とは八つの交差点八差路ほどの意味ですが、それも「岐」のことなのです。

 この栄えある金山彦の流れを汲む一族は、故あってか神武天皇に逆らい排斥されているのです(出雲大社の東の出雲井神社のように…)、実はこの唐津の三光神社のある伊岐佐のとなりの集落が千束であり、出雲大社の千家の千に通じてもいるのです。不思議ですね。


555-7

百嶋由一郎聖神社神代系譜(部分)


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