556(前) 古川という家系について ① “古川とは何か?”
20180124
太宰府地名研究会 古川 清久
これまで個人からの直接、間接の問い合わせや、神社を調べる上で必要となるその神社を奉斎する氏族の家系を調べる必要性などもあり、本ブログでも「荒津」姓、「別役」姓、「重松」姓、「宮原」姓…をある限度で公開してきました。
そうした中、自らは…と考えるのは人の常であり「古川」姓についても考えたことは何度かありました。
ただ、武家として古川氏といった氏族は聴きませんし(一部奥州にありますが)、有名人と言ってもたかだか戦前戦中辺りを中心に活躍したコメディアンの古川ロッパ程度のものしかなく、とりたてて取り上げるほどの名家でも財産家でも重要な氏族でもないと考えていました。
まず、私は佐賀県でも西部に位置する武雄市で産まれ育ちました。
父は陸軍士官学校(航空士官学校)出の航空兵科現役将校で昭和17年には占領後のシンガポールに入り少尉任官していますので(52~3期なのでしょう)、陥落間もないシンガポール辺りの航空隊辺りにいた事になります。
ところが、大した軍歴も加算もなく兵籍簿には転属が書かれていましたので、18年には内地送還となり、山口県萩市辺りの教育隊で航空機関整備関係の将校として終戦を迎えているのです。
一方、敗戦によって一家は一文無しで台湾から引き揚げていますが、台北では祖父が台湾精糖や関係銀行の社長をするとか総督府の議員であったとかとある程度成功した家系だったようです(台湾支配の一翼)。
ただ、資産を内地に移すような狡辛らい事もせずに一切を失い、引揚後は相当に苦労しているようです。
父は八人兄弟でしたが、台湾で既に高等教育を完了していた兄姉ら四人は帰国後には直ぐに上京し、その高学歴から大企業に就職して東京都下でそれなりに良い生活をしたようです。それに比べ佐賀に留まった父以下はポツダム中尉の現役将校だったため公職追放が解ける30歳近くまではまともな職にも就けず、給料遅配、欠配を食らいながら、ようやく通信教育で教員資格を取って長崎県北の中学校を皮切りに最後は有田焼の有田中学校、隣接する山内中学校勤務で退職し、その後二十年以上も年金生活(恩給通算年金)を送っています。
ただ、台湾で高等教育を受ける事ができなかった父より歳下の弟や妹は、戦後も大学に進む事など到底出来ずに凡そ裕かな生活を送っているとは言えないようです。
一方、母は佐賀県と長崎県の県境に近い佐賀県の旧大浦村(現太良町)の産婆の娘(北御門姓)でしたが、それなりの人だったらしく、一時は村の特待生として当時花形のタイピストにもなったと聴いています。ただ、佐賀県でも県境の一帯は方言が強いことから都会に出ても全く馴染めなかったらしく、直ぐに職を辞して実家に戻り、新たに看護婦になるために朝五時から起きて野菜を背負って佐賀駅で売り学資を稼ぎながら看護学校に通い看護婦になったと聴いています。まさに「おしん」の様な話を母から聴かされていました(母に限らず、ほんの百年前までの人は皆大変な苦労をして生き抜いていたのでした)。
その後、母は従軍看護婦への道へと進み、比較的安全だった香港の陸軍病院で終戦を迎え、復員後(従軍看護婦の場合は復員と言うべきかどうかは不明ですが)は大分県別府市の旧陸軍病院(後の国立別府療養所)から武雄の国立療養所へと転勤し大半は結核病棟で勤務(25年)を終えています。
これで大体大まかな家庭環境がお分かりなったと思いますが、この古川家は祖父が苦学して早稲田に進んだことから一時的には大きな発展を迎えたようです。
今と違って、戦前の早稲田ですから私学とは言え数少ないエリートだった事には間違いなく(勿論、戦前までの本当のエリートは東大、京大でもなく海兵であり陸士だったので自由な校風の早稲田、慶應…は民間企業の雄ではあっても官界には幅が効かなかったのでした)、それが何故可能だったのかを以前から考えて来ました。ところが、最近になってようやく大体の見当が着いたのです。
家紋は唐草着きの丸に三つ星ですが、今にして思えば、古川家とは、概略、海洋民、船による交易民、通商民であり、大幡主系氏族であった事が分かるのです。
どうせ大した氏族ではないと理解していた事から本気では考えてなかったのですが、そもそも苦学ながらも祖父が早稲田に進むことができた背景には、早稲田を創設した大隈重信の流れを汲む佐賀の組織と何らかの関係=コネクションがあったとしか考えられないのです(大隈重信は佐賀市水ケ江町の出身)。
元より自族を誇る意志はさらさらないのですが、古川家は祖父の代では既に分家となっています。
しかし、私の代で36代を数える名字帯刀を許された御用商人上がりの武家ではあったのです。
まず、佐賀県の南側には江戸時代以前から造成され続けて来た非常に大きな干拓地が拡がっています。
この低平地一帯の河川では有明海の大きな干満を利用して米、味噌、醤油、酒と言ったものを搬送する海運業のようなものが成立しており、それほど位は高くないものの恐らく御用商人の家柄だったようです。
恐らくこの関係で早稲田に入れたのではないかと思いますし、事実、父親の兄(長男)も早稲田から大手の○○電工に入り専務までなり、最後は関係子会社の社長で終えています。
どちらにせよ、上京した古川の一族でも私の従姉弟の世代は東大、東工大、京大、早稲田、慶応…が輩出しており、九州に残った一族は、地方の国立大学を出ただけの私も含め気が引ける関係となっています。
ともあれ、大隈重信はその姓からは白族系の大幡主(櫛田神社)~ヤタガラスの後裔氏族を思わせます。
しかし、それは地名や姓氏から判断したもので、実際には丸に剣唐花という鴨玉依姫系の氏族の様であり豊玉彦=ヤタガラスの本流の名族である事が分かったのでした。
してみるとどのように考えても大幡主~ヤタガラス系の一族の末流と考えられる廻船業者の端くれである古川家もその下っ端の家系だったように見えるのです。
当初、古川家は有明海沿岸における廻船業者と理解していた事から、取るに足らない江南系の海人族であって、言わばムツゴロウのような干潟で蠢くような氏族だったのだろうと考えていました。
それは、「古川」と言うありふれた姓からも言えるのですが、実際に筑後川流域、宝満川流域には50とか70とかいった数の「古川」という小字がある(あった)のです。
これらは、「フルコ」「フルコウ」「フルゴウ」「フルカワ」…と呼ばれ、干潟のような低平地の真っ平らな土地で、大雨、洪水によって絶えず流路を変える河川がショート・カットを起こすと三日月状の旧路が残されますが、それが古川であり、場合によっては代わりの土地として埋め立てられ、耕作地や住居地とされるのです。いずれにせよこの旧河道が古川と呼ばれていたのです。
今でも昭文社の県別道路マップなどを見れば同地域には三~四ケ所の古川地名が拾えます。
朝倉市杷木町の旧古川村、古川温泉(現筑後川温泉)…など、もしも詳細に検討されたければ、福岡県「小郡市史」付属文書などを参考にして下さい。
従って、私の系統の古川姓とは、有明海沿岸の古川が出現するような低平地周辺で廻船業を行う氏族であって、たまたま河川の捷水路化によって成立した残留河川の「古川」の周辺に住んでいた事から「古川」姓を選択したように見えるのです。
つまり、私達のご先祖様は遠く福建省、浙江省辺りから、二千年程まえぐらいに筏だか龍骨の入った構造船かで列島に入って来た倭人だったのでしょう。
同族だったかどうかは不明ですが、このことから大幡主(博多の櫛田神社の主神)~ヤタガラスの後裔である橘一族との繋がりが出来たのではないか考えています。
百嶋由一郎最終神代系譜(部分)
そもそも大幡主とは天御中主命、白川伯王の流れ(雲南省昆明白族)を汲む列島の中枢民族の中心人物なのです(実はヤタガラスの父神=塩土翁)。
二千数百年前には、三国志ではなく呉越同舟の呉(越)から多くのボート・ピープルが入っている訳で(倭人は呉の太伯の裔…)、その流れの延長上に阿蘇氏(雲南省麗江~)も白族(雲南省昆明~)も海南島を経由して入っていると考えられるのです。
これらについては過去何度となく書いてきましたので改めて書くことはしませんが、その後裔の大幡主~豊玉彦=ヤタガラスの一族こそが、海神族、海人族なのであり、従って龍王も豊玉彦なのです。
だからこそ、例えば対馬には豊玉姫を祀る海人神社や和多都美神社があり玉之浦湾もあるのです。
そして、この豊玉彦=ヤタガラスの流れから橘一族も成立し県犬養三千代や時の正一位・左大臣橘諸兄=葛城王も産まれているのです。
ただ、諸兄失脚後の奈良麻呂の変によって中央の橘氏の半分は根絶やしとなり、その反乱の中枢部は肥前の杵島山周辺…外に逃れて来ているようなのです(と言うよりもそもそもの橘一族の本願地だったのだろうと考えています)。
橘奈良麻呂の乱は、奈良時代の政変。橘奈良麻呂が藤原仲麻呂を滅ぼして、天皇の廃立を企てたが、密告により露見して未遂に終わった。
橘奈良麻呂の父の左大臣橘諸兄は、聖武天皇の治世に政権を担当していた。
743年(天平15年)、難波行幸中の聖武天皇が病に倒れた時、奈良麻呂は佐伯全成に対し小野東人らと謀り、次期天皇に黄文王を擁立する旨の計画を漏らす。既に738年(天平10年)の段階で、皇女の阿倍内親王が皇太子に立てられていたが、奈良麻呂が「皇嗣立てることなし」と皇太子が存在しないと述べている。当時の女帝は全て独身(未婚か未亡人)であり、1代限りで終わる阿倍内親王ではなく、男性の皇位継承者を求める動きが背景にあったと考えられている。
749年(天平21年/天平感宝元年/天平勝宝元年)、聖武天皇が譲位して阿倍内親王(孝謙天皇)が即位すると、天皇の母の光明皇太后に信任されていた藤原仲麻呂が皇太后のために新設された紫微中台の長官(紫微令)に任命される。仲麻呂は孝謙天皇からも寵愛深く、急速に台頭してゆく。一方、阿倍内親王の皇位継承に批判的と見られていた橘諸兄親子の勢力は次第に衰退することとなった。藤原氏の台頭に危機感を抱いた奈良麻呂は、11月の孝謙天皇即位大嘗祭の時、佐伯全成に再び謀反の計画を謀った。しかし全成が謀反への参加を拒絶したため謀反を実行することが出来なかった。
ウィキペディア(20180125 09:48)による